カルテジアの示した残りの作業は、全て順調に進んでいった。
ニトロとハラキリが買ってきた飲み物と菓子を口にしつつ灰が冷めるまで待ち、冷めた後はそれを美術室まで運ぶ。運んだ後は、灰を黒い大皿に移す。そして専用の“場”を作り、展示する。常設展示をするわけではないが、この作品は展示して初めて完成するというのだから、ひとまずそこまでやり通す。
既に日は落ち、外は夜の帳に包まれていた。
現在、時刻は六時半。
通常七時に閉門するため普段ならこの時間まで校内に残る生徒は少ない。が、今日は普段以上に居残りが発生し、美術室前の廊下には
図らずも注目を浴びることとなったカルテジアは、しかしこれも一種の行動芸術だと思ったらしく、美術室のドアを全開にし、廊下側の窓からも製作過程を窺えるよう片面不透明化機能を切っていた。部員だという二年生が三人、写生を終えて戻ってきていて、引率・指導していた顧問の外部インストラクターも教室にいる。三年生の部員がもう一人いるそうだが、そちらは既に帰宅しているとのことだった。部活動の見学に来た新入生は未だない。学年問わず新入部員はいつでも歓迎中。今度のことは良い宣伝にもなっただろうか。
今、机を全て後ろに寄せて美術室の前部に作られたスペースに、ダレイが二年生唯一の男子と共にシーツほどの大きさの帆布を何枚も広げては敷き重ねている。そこに裸足となったカルテジアがスプレータイプの固定剤を手に忙しく動き回り、広げられた純白の帆布に波を起こし、あるいは渦を巻かせ、そうすることでその場所をさながら白い海原へと作り変えている。
二年の女子二人はカルテジアとの距離が未だに掴めないでいるようで、外から戻ってきてからまだ一度も先輩と接触しようとしていない。先輩が真剣に創っている物への関心はあるようだが、どうやらその関心だけでは破れぬ壁があるらしい。手持ち無沙汰で、しかし帰宅することもできず、そこで消化されぬ関心の全てを『ニトロ・ポルカト』に向けている。それでも
ニトロは一つ息をつき、モバイルをポケットに入れた。
少々大きな波を作るために呼ばれていたハラキリが戻ってきて、彼に訊ねる。
「芍薬は、なんと?」
「デマを有効活用する奴って何て言うんだろうな」
「そうですねぇ、確信犯にしろ故意犯にしろ、有り
ハラキリはくっくと喉を鳴らす。
今、美術室前には当然いるはずの人がいない。
その人物は六時を回る前から駐車場で直立不動であるという。
彼の待ち人は、予定では七時に学校へやってくることになっていた。彼が心待ちにしている相手の当校への訪問は公的なスケジュールにはなく、内々に取り決められたものであり、しかも極めて私的な理由によるものだ。何故なら、愛する“彼”が『スライレンドの救世主』となったことによって学校にまた迷惑がかかるだろう、だから今後の警備についても改めて話し合わねばならない――その名目で、王女はニトロとハラキリを交えて校長と面談しに御光来あそばされるのだから。
芍薬が表示したフキダシにはこう書かれていた――『王権を使ってまで法定速度をぶっ飛ばしてやがるよ』
校長の馬鹿みたいに早い行動は、きっと報われることだろう。
「疲れていますか?」
ハラキリが全く関心のない顔で問うてくる。
ニトロは笑った。
「不思議と疲れてないな」
「それはまた不思議なことで」
「気の持ちようかなあ」
ニトロは、最後の波を生み出している少女を見つめる。
「今は、わくわくしている」
やがて、カルテジアは全ての作業を終えた。
「――できた」
静かな彼女の声には、充実感が沁み出ていた。
「タイトルは?」
こまごまとした片付けを終えたダレイが聞く。
カルテジアは一番の協力者をほんの一息の間、どこかこの世から遠ざかった者のような目つきで眺めた後、答えた。
「『環悩』」
真っ白な海原の中心……周囲は二重の大渦を描くように波打ちながら、しかしそこだけ凪いだかのように真っ平らな場所に、真っ黒な大皿がひっそりと置かれていた。その黒は一粒の光も照り返さない暗黒である。その上に、低くなだらかな灰の山がある。白波の激しさに黒と灰の静けさが同居する光景は、一種静謐で、ある種不気味であるのに、同時に壮麗ですらある。だが、しばらく見つめていると、この景色の中で最も苛烈な息を吐き出しているのは逆巻く周囲の波ではなく、燃え尽きた灰であることに気がつく。ニトロは感じた。それは、そのあまりに低く山なす灰は、いいや「燃え尽きた」などとはとても言えない、その灰こそは、全てが凍りつく白い空間の中、圧倒的な存在感を誇る黒皿を凶暴に踏みつけるようにして今なお活動しているのだと。
「セケル」
カルテジアが言う。
すると海原から水煙――
それは『苦悩する人』が描かれていく過程であった。
カンバスに走り、迷い、突き進む一筆一筆がそこに再現されていく。
二年がかりでやっと描き上げられた絵画は、およそ二分で完成に至った。
苦悩する人が今再び、静かに、激しく苦闘していた。その苦しみは己を内から焼き尽くさんとしている。その絵を見て息を飲む気配がギャラリーの中にあった。苦悩する人はやがて本当に焼き尽くされていく、足元に灯った小さな火種からやがて大火に包まれて。その際にその場にあったバーベキューコンロと絵を支えていたニトロの影は、『セケル』が主人の命を受けて加工したのだろう、映像から除外されている。純粋に燃えていく絵だけがそこにあり、燃えていく様を画家が一瞬も目をそらさず見届けたその作品が、今再び、とうとう全て灰になる。一度
それは、輪廻であった。
苦悩する人は消えた。
しかし苦悩はそこに残っている――炎に焼かれ虚無に飲まれた苦悩する人は、己を飲みこんだ虚無の内側から虚無を食い破って再びそこに現れ、形を変えながらも生きてまた存在のために苦しんでいる。
……ギャラリーの反応は、微妙だった。
拍手はない。
歓声など無論ない。
深い戸惑いにも似た顔が無数に並んでいた。
だが、中には心を激しく揺さぶられた者があるだろう。逆に何も感じなかった者もいるだろう。美術部の後輩三人ははっきりと何らかの影響を受けているようだ。顧問は作品よりも少女に嘱望の目を向けている。作者はそれら全てを受け入れようとしていた。期待と不安が入り混じり、どこか落ち着かず、どこか寂しげにしながらも、むしろ彼女は自ら観察者になろうとしていた。感動、無感動のどちらにしても、そこにはその人がそう感じるに至った心がある。彼女の言葉を借りるならば、そこには文学がある。そしてもし文学がそこにあるのならば、何らかの文学によってこの作品を作り上げた彼女は、その瞬間、きっとそこに求むべく偉大な系譜を見出すのだ。
(――と、こう考えるのも文学的なのかな?)
カルテジアを見つめながら、ニトロは胸の中でつぶやく。
目を転じると、ダレイは彼女の作品を静かに見つめていた。彼がどんな感想を抱いているのかは判らない。もしかしたら全く理解はないのかもしれない。だが、例え理解はなくともそれでいいのだろう。ニトロは次にハラキリを見た。親友は作品を脇目に、作者のそれより透徹した眼で周囲の人間を眺めていた。
ニトロが改めて作品を観賞しようと目を戻したその時、突然ギャラリーの一部から歓声が上がった。