「火は誰がつける?」
 ダレイが問う。
「私が。そっちは、できるだけそのまま支えていてほしいんだ」
 コンロの脇に火バサミがある。ダレイはそれを一瞥し、それからニトロとハラキリに目をやった。
「じゃあ、それは俺が」
 ハラキリも申し出ようとしていたようだが、それを目で制してニトロが言った。
「あまり熱かったら離れてもいいからね。火傷に気をつけて。燃やしても大丈夫な絵の具を選んでいるけど、何かおかしいと思ったら、その時もすぐに離れてね」
 カルテジアがニトロへ言う。トランペットの音が甲高く空へ吸い込まれていく。空には白い雲がいくつか浮かんでいる。微風が少女の黒髪を揺らした。
「風向きは大丈夫そうですね」
 ふとハラキリが口にしたその言葉に、カルテジアははっと思い出したように、
「そうだ、できるだけ灰を飛ばさないようにしてほしいの」
 ニトロは怪訝に訊ねた。
「つまり、それが重要ってこと?」
「そう」
 なるほど、だから室内希望だったのか――そう思いつつ、ニトロはカンバスの裏側に露となっている木枠を見つめ、
「これは、不燃材?」
「逆に燃えやすいので作ってある。でも、燃え残っちゃったらそれはそれで構わない」
「了解。てことだから灰が飛んだらハラキリ、キャッチよろしく」
「無茶を言わないで下さい」
 流石にハラキリも苦笑する。その様子にカルテジアは笑った。ひとしきり笑った後、彼女は軸の長いライターを手にした。
「気をつけろ」
 ダレイが隣で言う。カルテジアはうなずき、今一度絵をしげしげと眺めた後、苦悩する人の足元にそっと火を灯した。
 火は、瞬く間にカンバスを這い上がった。
 校庭から、そして校庭に面した教室棟からも声が上がる。何が起こるのかと見物を決め込んでいた生徒達の驚嘆だった。
 しかしカルテジアはそれらの声などに気を取られることはなく、焼失していく絵を真正面からひたと見据えていた。
 炎の舌が画布を舐め上げていく。それに従って苦悩する人の足元から虚無が這い登っていく。地を黒く焦がしながら、その境界線を押し広げながら、虚無の通った跡には何も残らない。苦悩する人の体も、その人が存在していた世界も。ぶすぶすと煙を吐き出し始めた粗雑な合成木材がまるで骨のように剥き出しとなる。描き上げられたばかりの苦悩する人の顔が熱によってひび割れて、かと思えば迅速に侵攻してきた虚無と、いつの間にか上部からも降りかかってきていた炎に一気に飲み込まれて消えていく。
 ニトロは可能な限り火バサミの端を持ち、腕を伸ばして熱を避け、木枠の上部に鉄の爪をしっかりと噛ませてそれを支えていた。そう、それだ。もはやそれは絵ではない。灰がコンロに落ちる。ふいに強まった風に炎が揺れる。僅かに灰が散る。ハラキリは無茶と言いつつもその中の大きいものを追いかけようとして、されどすぐに無理と悟って足を止める。しかしそれ以降は風もなく、木枠も順調に燃えていった。釘の見当たらないことが不思議であったが、初めから燃やすことを念頭に木釘を用いていたらしい。おそらく薪かキャンプファイヤー用の合成木材を転用したのであろう木枠は黒ずみながら燃えていき、燃え尽きると色を失い、そして白くなった端からぼろぼろと砂のように崩れていく。
 やがて懸命に形を保っていた木枠に限界が訪れた。それは一瞬にして崩壊すると、妙に軽くやけに乾いた音を立ててコンロの底にくずおれた。ぱっと細かい灰が火の粉と共に舞い上がる。夕日の中で灰と火の粉はキラキラと輝き、すぐに空に紛れて消えてしまった。
「後は私が」
 燃え尽きていく自作から一時も目を離さず、カルテジアが言った。
 ニトロは火バサミを彼女に渡した。喜びと苦しみに固められている彼女の横顔を目にしながら、彼はダレイとハラキリの立つ場所へ移動した。
「お疲れ様です」
 ハラキリが言う。ニトロはそれに目で応え、それからダレイに目を移し、
「なあ、思ったんだけどさ」
「ああ」
「これなら、別に俺とハラキリがいなくても平気だったんじゃないか?」
「それは拙者も思いました」
 ダレイは腕を組み、ちゃんと木枠の残りも燃え尽きるよう火バサミを動かしているカルテジアを見つめる。
「子供の頃の話だ」
「? ああ」
「誕生日にケーキを用意してもらった。俺に似せた砂糖菓子の人形が乗っていた。蝋燭が倒れて、その火が人形の顔を溶かした」
「あ、ああ」
「以来、火は苦手なんだ」
 思わず――相手の苦い思い出を笑うのはいけないと思いつつも――ニトロはダレイの思わぬ弱点に笑ってしまった。ハラキリも声を殺して笑っている。ダレイは言う。
「手伝いたかったが、失敗を避けるためだ。やはり頼んでよかった」
 その言葉にニトロは笑い声を止めた。ハラキリも笑うのを止めて、興味深そうにダレイを見る。
「それだけですか? それならどちらか一人だけを連れてくれば良かったでしょう」
 ハラキリが問うと、ダレイは、にやりと笑った。
「ハラキリがいれば、不測の事態にも困らないだろう」
 カルテジアを見つめるばかりだったダレイは、そこでニトロに顔を向けた。ニトロを見下ろす穏やかな瞳には、少しばかりの罪悪感があった。
「そして不測の事態が起こっても、ニトロなら悪くすることなく収められる」
 それはニトロが『ニトロ・ポルカト』であるが故に。校長も、彼の関わる事だとなれば例え校舎が全焼したところで絶対に大事にはしないだろう。
 ニトロはダレイのその告白を聞いた時、不愉快な気持ちなど一向に感じなかった。日頃から良くしてくれているこの友人のそんな打算など受け止められないわけがない――ということも事実であるが、それよりも彼は大きな驚きを感じていたのだ。
 それを疑っていなかったといえば、嘘になる。
 ダレイは既にカルテジアへ目を戻している。
 背の高い友人を見上げていたニトロも、熱心に灰を集める芸術家へと目を移す。
 ……だが、野暮な詮索はすまい。
「ちゃんと燃え尽きたようですね」
 ハラキリが言うと、ダレイはカルテジアの元へ歩いていった。彼女は明るく彼を迎える。そして二人はアルミホイルを灰の上に被せ始めた。灰を保護するためだろう。痩せた少女の顔には喪失の影があり、また会得の喜びもある。大柄な少年はそれを助けている。
「いつかこれも青春の輝き、と述懐することになりますかね?」
 小さく、ハラキリが言った。
 ニトロは小さく笑って応え、それから言った。
「ダレイ、カルテジアさん、何か買ってくるよ。注文はあるか?」
 二人が振り返る。
「ミルクティーを頼む」
「私は『ベスハッコ』」
「え?」
 ニトロは、いや、ニトロのみならずハラキリもダレイもカルテジアを凝視した。その『ベスハッコ』こそ、ハラキリが苦闘していたあの不味い新製品である。
「そういう反応は解るけど」
 少女は秘密めかしてそっと微笑む。
「何だか、癖になっちゃった」

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