「私は、人をよく怒らせる。喧嘩する」
 先ほどは『失敗』と抽象化していたことを、どこか寂しげに具体化する。そこにはニトロの誘いへの拒絶があった。しかし彼は言う。
「クレイグ達なら大丈夫じゃないかな。ダレイもいる。ミーシャもいい奴だし、フルニエとはむしろいい喧嘩友達になれると思うよ」
「君とは? 君と、ジジ君は」
「ちゃんとニトロ君なら“言っても大丈夫”だと、先ほどご自分で判断していたでしょうに」
 と、指摘したのはハラキリだった。彼女はハラキリに目をやる。その態度はどこか臆病で、そこには未だに“大丈夫”なのか判断のつかぬ変わり者への躊躇がはっきりと示されていた。
 そこでニトロは笑った。笑ってしまった。
「ハラキリは大丈夫だよ。てか、逆に怒らせ方を俺が教えて欲しいくらいだ」
 彼の言葉に、カルテジアは息をついた。すると強張っていた肩がすとんと落ちる。
「そうだね、私も教えて欲しいかも」
 そう言って彼女は声もなく笑い、洗い終えた道具を乾燥させるための台に乗せ、備え付きのタオルで手を拭った。
「セケル、ダレイに連絡して。そろそろ始めるって」
「了解」
 カルテジアのモバイルから聞こえたのは女性的な声だった。応答を受けた彼女はメガネを掛けて、今一度、苦悩する人の絵をジッと見つめる。
「そのメガネは?」
 ニトロは訊ねた。
「記録用」
「なるほど」
 しばらく絵を見つめた後、彼女は絵を画架から下ろした。体の半分以上をすっぽり隠す大きな絵を持ち、振り返った彼女の眼はカンバス越しに再び輝いている。
「それじゃあ、ポルカト君、ジジ君、お手伝いをよろしくね」
 カルテジアはそれだけを言う。ニトロは、しかし己が提示した誘いへの答えを強いらなかった。どうするかは彼女の自由だし、それに『ニトロ・ポルカト』と“つるむ”ことが彼女に不利益をもたらす可能性もある。彼女の痩せ方は本当に病気一歩手前だと思うから、ダレイもきっと心配している、それを思えば無理矢理にでも仲間に引き込みたい気持ちもあるが……
 そうしている間にカルテジアはドアに近づく。ニトロは慌ててドアに駆け寄った。
「開けるよ」
「ありがとう」
 ニトロがドアをスライドさせたちょうどその瞬間、とうとうドアを開けようと決意したらしい校長がそこに踏み込んできていた。
「きゃ!」
 驚いたカルテジアが絵を守るために激しく身を引き、勢い余ってたたらを踏みそうになる。そこにニトロの反応が間に合った。腕を伸ばし、肩の後ろに手を副えて転倒を防ぐ。一方の校長も瞠目して身をのけぞらせていた。彼がその場に踏みとどまり、辛うじて声を上げることのなかったのは威厳を取り繕おうという努力の成果だろう。
「どうかしましたか、校長先生」
 そう問いかけたのはハラキリである。その声音には嫌味なところが全くなく、だからこそかえって嫌味ったらしい。
 だが、その嫌味がこの場を支えた。
 カルテジアも校長も体勢を立て直す。
 校長は扱いにくい“王女の恋人の親友”へ恋敵に向けるような異様な目を向けて、間合いを測るように咳払いをする。
「ポルカト君が美術部に入ったのかと思ってね」
 校長はちらりとニトロを一瞥し、
「もしそうだとすれば我が校にとって大変な栄誉となる。今後展開されるであろう崇高なる芸術運動に何の支障もないよう応援するのは我々の務めだ」
「そうですか」
 ハラキリは実に納得がいったようにうなずく。
 色々ツッコミかけたところをどうにか堪え切ったニトロは愛想笑いを浮かべて言う。
「入部はしていません。今日はただの手伝いです」
「そうでしたか」
 校長は制服を乱さぬ二人の少年と、ブレザーを脱ぎネクタイもしていないが明らかに作業のための格好をしている少女を眺めて、どこか安堵したような、しかしそれでもまだ消え去らぬ妄念を目の裏に秘しているような顔をしていた。その顔を見て少女が抑えられぬ軽蔑を差し向ける。彼女のその眼差しに刺激されたらしい校長は口を僅かに歪めた。
「くれぐれも、火事には気をつけるように」
「はい」
 カルテジアは小さく応え、校長の横をすり抜けて廊下に出ていった。続けてニトロも出る。最後に続いたハラキリは校長に一瞥を加えた。その曲者の眼に、校長は何か公にはできぬ暗い欲を嗅ぎ出されたように感じたらしく、慌てて踵を返すと、まるでついさっきまでそうしていたのだと声高に宣言するように見回りを再開した。
「……大変だね」
 カルテジアがニトロへ囁いた。彼はそれには曖昧な笑みを返し、
「火事に気をつけろだってさ」
「もっと詩的な嫌味が欲しかったわ」
 その言い分にニトロは思わず笑う。カルテジアもくすくすと笑い、ハラキリは静かについてくる。廊下の先に数人の生徒が見えて、こちらに気がつくと何やら慌てて姿を消した。それを眺めながら、ニトロは訊ねる。
「ところで、その絵を燃やすとまでは聞いているんだけど、ただ燃やすのか、それとも何か特別なことをするのかな」
「ただ燃やすだけ。だからできれば室内でやりたかったんだけどね、でもそれだと内装に燃え移るかもしれないし、美術室には可燃性の物もたくさんあるし」
 彼女の言うように教室内で絵を一枚燃やし、もし何らかの過失を犯したとしても、現在の防火資材に守られた校舎そのものは焦げつきさえしないだろう。例え内装や画材に燃え移ったところで炎は防災システムによって小火ぼやにもならぬうちに押さえ込まれる。もちろんそれに気をつけて無事に作業を終えたとしても天井は煤で汚れてしまうだろうが、それさえ掃除をすればたちまち綺麗にできる。ただ、それでもやはり気にかかるのは、内装や画材以上に、
「絶対に皆の作品を燃やすわけにはいかないからね」
 しかし彼女は自身の作品を今から燃やすのだ。それが製作に必要なことだとしても――しかもその絵は自身の作でもないというのに――ニトロの胸にはどうしても躊躇いが残る。思い直すように働きかけたい気持ちが起こる。
 彼女は描き始めてから二年が経つと言っていた。それだけの時間をかけて“やっと描けた”絵は、それよりずっと短い間に燃え尽きるだろう。そこに込められている作者の精神も、あっという間に灰となる。
 ――いや、時間だけではない。精神だけではない。物質面から見ても、経済的な負担も重かったはずだ。
 現在の主流であり板晶画面ボードスクリーンとフリーソフト一つあれば無限の画材を手に創作を始められるCGとは違い、様々な画材をいちいち揃える必要のあるアナログな絵画は一種高級な趣味になっている。今や画用紙一枚だけでも値が張り、スケッチブックともなれば昔と比べて桁すら違う。時代を経るにつれて画材の値はそれ自身の市場を支えるために上昇し続けているという。
 それでもアナログ絵画が裾野も広く一定の居場所を確保し続けられているのは、やはり、『それでなければ』というものがあるからだろう。
 合成肉が、ペースト状の材料をそのまま食べても栄養的には十分なのに、それでも本物の肉の食感を求めて加工されるように。
 その気になれば輸液だけでも生存が容易に可能な世の中なのに、それでも毎日パンが焼かれているように。
 それでなければならないのだ。
 そうでなければ表せないものがどうしてもあるのだ。
 そうでなければ――
 ……ようやく、ニトロは胸の中から躊躇いを消した。カルテジアが絵を燃やすのも、そうでなければならないからだ。それなのに自分が外からとやかく言うのはむしろ冒涜に等しい行為であろう。
 何人もの好奇の目を向ける生徒とすれ違い、特別教室棟から外へ出た時、ニトロの耳を清廉な音が貫いた。屋上に発し、さらに高く空へ吸い込まれ、同時に地を勇躍するトランペットの軽快な音楽。それが聴く者を等しく鼓舞するように響き渡っていた。
 ニトロはカルテジアの顔を見た。決意がそこにある。
 ダレイは既に所定の場所にいた。彼の前にはなかなか大きなバーベキューコンロがある。一人で持ってくるには骨が折れたろうに、彼は汗一つかかずに待っていた。
「ありがとう」
 カルテジアが言うと、ダレイはうなずくだけだった。半分に割られた円筒型のコンロに網はない。彼女は早速コンロの底にカンバスを立てる。それを後ろからダレイが支える。30号の画布に描かれた苦悩する人が、夕日に照らされてその陰影を濃くしていた。
 校庭の先、高さ10mの柵の向こう、住宅地との境の道路にたむろする野次馬から歓声が轟いてきた。柵には外から校庭の様子が正確には判別できなくなる遮蔽ネットが掛けられているのに……ということはそれに穴を開けた者がいるのだろうか。その上空にドローンが数機飛び始め、もっと原始的に長い棒の先にカメラを取り付けて伸ばしている者が幾人も出る。さらにずっと向こうの空にはマスメディアのまばたきが見えるようだ。柵の向こうに警備のドローンが飛んでいく。警備員も駆けて行く。
 校庭で部活動中の生徒達もこちらに好奇心を向けていた。体験入部の新入生を指導している黄色いスニーカーを履いた陸上部の女子と目が合った気がして、ニトロは軽く手を上げた。それに全く別の女子が反応して何やら歓声を上げられてしまう。彼は苦笑して、ダレイの支える絵をジッと見つめている芸術家に目を戻した。

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