「そう。芸術は感情を永久に――いいえ、ここはこちらの言葉が相応しいわね。そう、永遠にするのよ」
「逆に言えば、永遠に感情を固着させられるものは全て芸術、というわけですか」
「――私の理屈では、そうだね。ジジ君はどう思う?」
「拙者の感覚では、芸術は技芸のためのすべ、あるいは才能のための術です」
「つまり語源通りということ?」
「ええ。そしてそれは学問の一分野、またコミュニケーションの一手段に過ぎません」
 カルテジアは興味深そうにハラキリを見つめる。その視線を受け、ハラキリはちらとニトロを見た。するとその目の動きに誘導されて、彼女はニトロにも問う。
「ポルカト君は?」
 ニトロはハラキリを微かに睨んだが、親友は素知らぬ顔で創作物を鑑賞している。ややあってから、ニトロは何とか口にする。
「……俺は芸術について論じられないよ。芸術と言われるものを見て、感動するだけ。ただ、ちょっと前までは単純に“美そのもの”が芸術なのかなと思ってた」
「今は違うの?」
 ニトロの脳裡にティディアと回った夜の美術館が蘇る。それから暇潰しに入った画廊や作品展、子供の頃に両親に連れられて行った美しい庭園や異星いこくからやってきた展覧会での感動を思い出す。次いでやはりティディアに『漫才しごと』の合間に連れて行かれた前衛美術展で得た大きな困惑と、仮想現実を用いた新しい芸術への大いなる当惑が心に巡る。
「今は、よく解らなくなってるかな。それでも『芸術』って言葉は便利な言葉だ、っていうのはずっとあるような気がする」
「それじゃあポルカト君にとっては何より言葉の問題なのかもしれないわね」
「そうかもしれない。だけどそのうち一周してまた“美そのもの”なんじゃないかって思うような気もするよ」
 カルテジアはおもしろそうにうなずく。その目には共感もある。彼女はそれから何かを掘り起こそうとするかのように訊ねた。
「それならポルカト君にとって、“美”とは何?」
 ニトロは肩をすくめる。
「それこそ『人それぞれに感じるもの』じゃないかな」
 カルテジアは一瞬、呆気に取られた。自分の言葉を巧く利用されたことに気づき、それがツボにでも入ったのか急に笑い出す。そして笑いながら彼女は言った。
「それだと芸術にはまるで形がないことになっちゃうわね」
「だから色々なものが生まれるのかもね」
 その言葉を聞いたカルテジアは何やら満腹に至ったようにうなずき、にっこり笑った。
「というわけで、自己紹介になったかしら?」
 それはもう強烈な自己紹介であった。ニトロもうなずき、一段落がついたところで気になっていたことを忘れぬうちにカルテジアへ訊ねる。
「ところでさっき『ティディア様のお傍にいるだけはある』とか言っていたけれど、あれはどういう意味かな」
「ああ、それはね、ティディア様は芸術を解される方だと思っているから、そのティディア様の影響が君には必ずあると思っているからよ」
 ニトロの顔が恐ろしく曇る。
 今度こそ彼の表情の変化を見て取ったカルテジアは、ぎょっとして身を引いた。
「随分と王女様への評価が高いんですね」
 そこにハラキリが問いを挟んできた。
「もしやカルテジアさんは『マニア』ですか?」
 直接的な問いに、ニトロはハッとした。カルテジアはニトロ・ポルカトの顔の曇った理由を解して苦笑する。
「そこまでじゃないわ。純粋に尊敬しているだけ。ティディア様の詩の朗読を聴く時、私はいつも泣いている。鳥肌が立って、大きな感動に恍惚となる。だから、正直言うとね、私はポルカト君が羨ましい。美術館を一緒に回ったこともあるんでしょう? そんなにも素晴らしい体験をしたなんて、嫉妬しないではいられない。――ただ、それだけね」
「それだけ?」
 ニトロが問うと、カルテジアは笑った。
「自分には得られないからといって、その対象を持つ人を攻撃するのは浅ましいことよ」
 その言葉に、ニトロは不思議なほど重い思いを感じた。彼からすればカルテジアは“自分には得られないもの”を持っているクラスメイトだ。それを思うと同時に、この自己の本位を確立している芸術家に敬意を抱く。クラスメイト――同い年の少女に、感銘すら受けてしまう。
「ま、そう思わないと創作活動なんてやってられないんだけどね」
 ニトロの視線に耐えられなくなったのか、ふいに洒落めかせてカルテジアは言った。実際、それは本音でもあったのだろう。ニトロは笑み、
「アーティスト間の嫉妬も凄いらしいね」
「それでも『マニア』の嫉妬ほどじゃあないかもね」
 うまく切り返されてしまった。ニトロは苦笑し、ハラキリは肩を揺らしている。
 やがてホログラムが消え、教室の明かりが段々と点いていく。目を慣らすようにゆっくりと。そして点灯しきったところで窓の遮光機能も解除された。その瞬間、
「うわ!?」
 ニトロは思わず叫んだ。
 彼が驚愕したのは廊下側の窓を見てのことである。カルテジアも驚いて悲鳴を上げていた。
 廊下側の窓の前に、校長がいた。
 彼は一人、仁王立ちでじっと美術室内に険しい顔を向けている。
 廊下から見ると窓は曇りガラスになっているためそこから内部の詳細を知られる余地はない。が、セキュリティカメラのあるため彼はその職務から内部の様子を容易に知ることができるはずだ。何もそんなに曇りガラスを透視しようというような勢いで目をかっぴらくこともあるまいに、一体何のつもりだろうか。そもそも、何故、そんなところで仁王立ちしているのだろうか。
 校長は美術室内に再び明かりがついたことに気づいたようで、その場でうろうろとし始める。ひどく気を揉んでいるらしい。時折廊下の左右に向けて威嚇の目を向けるのは、そこに追い払われてなお美術室へやってこようという生徒のいるためだろう。そして彼は何度かドアに手をかけようとするが、躊躇い、またうろうろと美術室前を周回する。
「何だろう」
 つぶやいたニトロに、ハラキリが答える。
「君がヌードモデルをしているという噂が」
「は?」
「学校の掲示板に」
「はあ?」
 携帯モバイルをポケットに仕舞うハラキリとは逆に、ニトロはモバイルを取り出す。確認すると本当に学校のWebコミュニティの全生徒向け掲示板――この時期は様々な部やサークルの勧誘の文句が踊り、そしてニトロがハラキリ・ジジを知ることにもなった場所――にそのような話があった。
「伝言ゲームのどこかで誰かがオリジナリティを発揮したんじゃないですかね」
「美術室でヌードだなんてわりとよくある発想じゃないか?……でも、それで何で校長先生は入ってこないんだろうな。気になるなら確かめればいいのに」
「おそらくは」
 ハラキリは下品に笑う。
「電気が消えていたことで別のことを恐れたんじゃないですかね。そしてそれが君と麗しの姫君との恋仲を裂くキッカケになれば、彼の野心は潰える。実際にヌードモデルをしていれば良い、それがデマであっても構わない、しかし“それ”は目撃するわけにはいかない。目撃すれば自分も当事者になってしまう。だが、当事者でなければ誤魔化しの道はいくらでも、ならばやはり確かめずにおこうか? いや、まだ“それ”が行われていないならば止められる。止められれば己に有利だ。だが、ここはやはり……と堂々巡りで」
「ジジ君は想像力が豊かだね」
 カルテジアは感心してハラキリを見る。
「しかもそれが正解な気がするわ。ね、良かったら文学部に入らない? 部員が少なくて困ってるのよ」
「遠慮します。読書は好きですが、それを“活動”にするとつまらなくなる」
「それは残念」
 言いながら、カルテジアは画材を片付けていく。彼女は平然としたものだ。もし校長の危惧がハラキリの予測通りなら彼女にも不都合な事態であるはずなのだが。
 ニトロの視線に彼の考えを察したらしく、少女はアクリル画の道具を教室の隅の水道に持って行きながら笑う。
「言いたい奴には言わせておけばいいのよ。真実はそれが知ってるし」
 と、教室の隅にあるカメラを身振りで示し、
「そんなつまらないことで騒ぐ連中にかかずらっても良いことないわ」
 そしてその語調と、パレットを洗い出す彼女の細い後ろ姿に、ニトロはひどく危ういものを感じた。彼女自身『失敗』したことがたくさんあると言っていたが、それはおそらく思う以上に圧縮された一言であったことを悟る。――それに、
「こんなことを聞くのは失礼だろうし、余計なお世話だとも思うけど……ご飯、ちゃんと食べてる?」
 その問いに、カルテジアは苦笑したらしい。洗い物を続けながら、
「熱中してるとつい忘れちゃうんだよね」
「食べないと頭も回らないんじゃない?」
「時々ね。でもそれ以上に読みたいし、描きたい。あ、でもカロリーブロックは常備しているわ。元々小食だし、ジュースだけでも平気なくらい」
「……今度から、昼ご飯とか一緒に食べないかな」
「それはなんだかデートのお誘いみたいだね」
「『咎山を登るオトロ』の作家がもっと長く生きていたら、と思うことはない?」
「……」
 カルテジアは水入れの絵の具の溶けて汚れた水を捨て、ニトロへ肩越しに振り返る。
「長く生きていたからと言って、あれを超える作品を描けたとは限らないんじゃないかしら」
「ということは、カルテジアさんはとにかく大傑作を創りたいのかな。そしてそれ以降自分では超えることのできないと思える作品が創れたら、そこでお仕舞い?」
 カルテジアは唇を結んだ。双眸も細められる。ニトロは、しかし堂々と言う。
「話を聞いていたら、きっとそうじゃない。カルテジアさんは多産の作家だ。それならそれに見合ったエネルギーを蓄えなきゃならないし、“永久機関”なり“永遠”なりを標榜するんなら、それこそしっかり活動してこそだ。なのにそれをないがしろにするのは一種の怠慢、そしてカルテジアさん自身への背信行為だと俺は思う」
「……『ニトロ・ザ・ツッコミ』か」
 ぽつりと彼女は言う。そして、ニトロに思わし気な眼差しを送り、
「話には聞いていたけど、本当に痛いところに“ツッコンで”くるね」
「過去の栄養状態は未来に影響するらしいよ。そりゃ今の医学に頼れば栄養不足からどうなったところで回復も楽勝だろうけど、そんな医療費を払うくらいなら創作の糧に回した方がずっと得だ」
 カルテジアは堪らず笑った。可愛いシールの貼られた水入れを洗いながら、彼女は言う。

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