「文学部では、何を?」
「文学部では
「てことは、創作はしていない?」
「そう思ってくれるのは嬉しいな」
カルテジアはまたくすぐったそうに言う。そう、ニトロの関心は、これだけの視覚芸術を作れる人物が文学部では何を作っているのだろうということにあった。彼の疑問を受け止めた少女は、暗がりからホログラムの光が照らすところに現れた。
「でも、私の文学と美術へのスタンスは違うの。私にとって文学は創作の糧であり、源泉。そして表出が絵や造形物。もちろん美的な感動を与えてくれるものを見たことで創作意欲を掻き立てられることもあるわ。例えば、ティディア様なんてそうね」
刹那、ニトロの顔に暗い影が走った。しかし、室内の乏しい光量がカルテジアにそれを見せなかった。
「ティディアが?」
ニトロは問うた。まさか、彼女は『マニア』なのか?
「ティディア様は、特異な存在よ」
カルテジアは灰褐色の瞳を輝かせて言う。
「ポルカト君は『華』というものを不思議に思わない? 純粋な外見だけなら同じくらいの人間でも、片方は地味で、片方は否応なく――それこそ賛否はともかく人を惹きつけることがある。それとも音楽家でもいい。同じ楽器で同じFの音を同じように弾いてみせても、片方はただFの音を出しただけ、片方は色気のあるFを生み出す。その差を科学的に証明することはある程度までは可能みたいだけど、ある程度以上は未だに解らない。特に存在感、なんてのがその一つでしょうね」
ニトロは、うなずく。
「今の世にも『華』のある人は多くいる。役者、アーティスト、コメディアン、芸能人、それらに限っても全国で数えればそれなりに数もある。けれど、ティディア様は、別格。もしティディア様を描くことができるのなら、私は残りの生涯の全てを失ったっていい」
――判断に、困った。彼女は『マニア』だろうか。その言葉だけを聞けばそう思える。しかし――そう、科学的に証明することは不可能な部分で、それはどうも違うような気がする。
そこでニトロは彼女に先を促した。美術部員にして文学部員の少女は素直な聞き手の素直な意思表示に言葉を引き出され、
「話を元に戻すと、でも、私の場合、ティディア様のような刺激は例外なの。私は霊感のほとんどを文学から受けている。一つの作品を読んでいる途中で感銘を受けたシーンを絵にすることもあるし、読了した時に浮かんだ心象が形になる時もある。ずっと後になってふと
「ああ、なるほど」
ふいに、ハラキリが得心のいったとばかりにうなずいた。全く気配を消していた彼の闖入にカルテジアが滑稽なほどに驚く。ニトロでさえも少し意表を突かれていた。しかしハラキリ自身は喉に刺さった魚の骨がやっと取れたという様子で、
「『影法師の愛は心臓に答えを求めるか』」
彼がそう言った瞬間、パンとカルテジアが手を叩いた。そして彼女も言う。
「『この街の思い出は、この手の上に載せられるだけでいい』」
ハラキリが口にしたのはタイトルで、カルテジアはその作中のセリフを言ったということをニトロは察した。
「やっと“因子”が全て繋がりました。先ほどのあの小さな絵には、あの物語の断片が一つに編み上げられていた。そしてそれを貴女の抱いた印象が纏め上げていた。いや、どうにももどかしい思いをさせられました。その編み上げられた
感想を述べたハラキリを絵の作者は至極嬉しそうに見つめた後、おどけながらも真剣に貴族風のお辞儀をし、それからニトロへ視線を戻すと、
「そしてもちろん、これもそう。ただしどの作品の影響かは判らないパターン」
多面的な仮面を示し、彼女は笑う。
「だから私にとっては、両方なくっちゃ駄目なんだ」
手を腰の後ろで組んで、カルテジアはニトロの隣に歩み寄る。
「ところで、何だか物足りなくない?」
問われ、問われたことで内々疑念を感じていたことを確信し、ニトロは答えた。笑顔はあった。大笑いもあった。腹が捩じ切れているんじゃないかという顔まであった。しかし、
「微笑みが足りない」
カルテジアはまた笑った。とても嬉しそうに。
「後ろに回ってみて」
ニトロは宙に浮く仮面の後ろに移動した。最後に見えたのは恥じらいの顔だった。ハラキリもついてくる。カルテジアはその場に残った。
ニトロとハラキリがホログラムの後ろに回り切ると、二人が前面にいた時にはなかった『鏡』がカルテジアの隣に現れた。
「さ、これを見て」
美術部員はホログラム製の鏡をニトロ達に示した。
二人は鏡を覗き込む。
「タイトル……『あなたにはみせない』」
少年達に直接は見られぬ鏡の中で、ホログラムの少女はどことなく妖艶にも微笑んでいた。彼らが正面に戻ってそれを見ようとすれば、きっとその微笑みは消えてしまうのであろう。
「――このタイトルを聞いて、君はどう思う? それが最後のタイトル。どう思って、どう感じて、君ならどんな言葉を“最後のタイトル”にする?」
その問いに、ニトロは惑った。カルテジアがタイトルを言った時、何かショックのようなものを感じたのは確かだ。それは一体何だったろう? それを言語にするなら。一つの感情として表すなら――いや、違う。考えた後、彼は言った。
「言葉には、しない」
カルテジアは目を丸くした。
「何か一つの言葉にしたら、多分、全部が不正確だ」
「そう!」
突如、カルテジアは歓声を上げて軽く飛び跳ねた。
「そうなのよ! 流石はティディア様のお傍にいるだけはあるわ!」
その瞬間、ニトロの顔にまたも暗い影が走った。しかしやはり室内の乏しい光量とカルテジア自身の歓喜が邪魔をして、彼女がそれを見ることはない。それどころか、例えそれを目撃していたとしても、作者としての歓喜の前には彼の懸念と疑念などは些事に過ぎなかっただろう。彼女はどこか夢見心地で言う。
「一つの、
語りながら、語ることによって興奮が増して来たらしい少女は、ニトロが圧倒され、ハラキリが観察しているのをよそに大いに続ける。
「もし! 一人の人間が一つの感情に支配されることがあるとしたら! その時、その人は究極の人間性を発揮するか、もしくは人間性を失うと私は思う。例えば怒りに支配された人はどう? 大抵の場合、どんなに怒っても人はどこかに冷静さを備えている。目の前の人を殴ればどうなるか解っているし、言葉を並べて怒鳴ることもできるし、用を足す時にはトイレに向かうし外に行くには靴を履く。でもそれらのことすら忘れるほどに怒りに我を忘れたら、その人は果たして人間性を保っていると言うのかしら? それは獣性に陥るのではないのかしら。あるいは神性を帯びるのかしら。古の人間は忘我の境地、感情を失した人に神性を見出していたとも言うけれど、それは時代を経た今になっても真理なのかしら。そしてそれ以外の場合は、それがどんな場合であれ――私は喜んだ、彼は怒った、彼女は哀しんだ、君は楽しんだ――そのいずれの場合にしても純粋にその感情だけに支配されているとは言えないのではないかしら。喜怒哀楽、もちろんそれらは間違いじゃあない。私は喜んだ。けれどそれは全体ではなく、つまり心の突端、その一時の、一瞬間の中に成立する『心』の代表者でしかないと私は思う」
爛々と瞳を輝かせる少女は長い黒髪をなびかせ、枝のような指を胸の前で絡ませて、まるで大いなる芸術の守護天使への祈祷のように謳う。
「だから、君が『何か一つの言葉にしたら、全部が不正確』と言ったのは正しい! もし“その時の感情”を明確にそのまま描写しようとしたら、それは絶対に一言では収まらない。一人の少女が正面からは決して微笑みを見せてくれないと知った時、その微笑を鏡越しに見た時、その人が一体何を感じるかはその人しだい。秘密の顔を見たことを喜ぶ人もいるでしょう、逆にそれを正面からは見せてくれないことに怒りを覚える人もいるでしょう、哀しくなる人もいるだろうし、背徳感を覚える人もいるかもしれない。でも、何故? その感情は、その瞬間、この少女の『あなたにはみせない』微笑によって励起されたもの。人それぞれに感じるもの。でもあなたは何故そう感じるの? 何故喜ぶ? 喜ぶからには喜びを導く琴線があるのでしょう。怒りを覚えるからには何か棘に触れるものがあるのかもしれない。一つの感情が表出する時、そこには必ず源流がある。その一つの感情を突端に押しやるだけの力がある。それを見ることができるのは、その本人だけ。そしてその本人が自らに生じた心の動きを覗き込む時、そこには文学がある!」
カルテジアの精神の爆発は、ニトロをもはや唖然とさせていた。彼女の見解は理解できる。無論、それが正しいのかどうかは判らない。ただ、彼女が確固とした信念を持つ芸術家であることだけは、彼は疑いようもなく納得していた。
「なるほど、そして視覚芸術によって引き出された文学にも貴女は共鳴して、また美術へと反照するわけですか」
「そう!」
ハラキリの言葉にカルテジアはまた嬉しそうに肯定した。一気に二人も自分の理解者が現れたことに対する孤独な作家の狂喜に等しいものが彼女の顔に現れている。
「まるで永久機関ですね」
と、ハラキリがそう言った時、少女はふと我に返ったように胸の前で組んでいた手を解いた。