「……帰る時にはちゃんと返せよ」
「ええ、しっかり私の匂いが染み込んだところで返すわ」
「正式にクリーニング代を請求する」
「ひッど!」
 ニトロはティディアの抗議には取り合わず、さらに食ってかかってきそうな彼女を制するようにヴィタへ問う。
「そろそろ七時かな」
「あと三分です」
 改めて見ればヴィタもラフな格好をしていた。何かとミステリアスな女執事の画力、そして美術分野への見識は気になるが――ニトロは目をハラキリへ移す。
「それじゃあ行こうか」
 ハラキリはうなずく。彼の後ろに控える美術部員の後輩三人と顧問は王女に声をかけたがっているようだ。が、ニトロはそれを拒む立場にも、許す立場にもない。さらには促す立場にもないと思い、自分の取るべき行動を取る。
「ティディアも。校長先生もそこで待ってる」
 廊下側の窓は未だに曇っていてはっきりと外は見えない。しかし無数の人影がぼんやりと散開していて、その中心に一人異常に肩をそびやかす者がある。
「あまり待たせちゃ悪いだろ」
「いくら待たせてもいいじゃない」
「お世話になってるんだ。――敬意は払うべきだよ」
 校長の思惑を思えば純粋に感謝を抱くことは難しい。その滑稽な態度に失望するなというのも無理な話だ。しかし、ニトロの言う敬意も真実であった。王女に良いように利用され続けていて、おそらくはそれに甘んじている、尊敬できる人間かと問われればがえんぜない相手ではあるが、それでも一つの敬意は抱けるのだ。そしてニトロは、その敬意だけは捨ててはいけないと思う。校長先生はアデムメデスの他のどの高校よりも大変な環境にあるここで、事実、様々な問題に対処し続けているのだから。
「ニトロは真面目よねー」
「反面教師がいるからな」
「紹介してくれる?」
「鏡を見ろ」
「きっと美女がいるだけね」
「よぉし、後でぶん殴ってやる」
「その後は優しくしてね? い・つ・も・ど・お・り」
「……」
 閉口しながら、ニトロはティディアと共に教室前部のドアへ向かう。そこに思い切って後輩の美術部員が三人揃って王女へ挨拶に来た。それに王女は穏やかに応じる……と同時にニトロと腕を組む。彼はそれを振り払えない。振り払えば美術部員にきっと“危害”が及ぶ。渋面極まる『王女の恋人』の後ろにハラキリが続いた。ヴィタがロックされていたドアを開き、と、出遅れていた顧問が慌てて挨拶に駆けつける。
 その様を眺めていたクオリアは、ふと己の作品に目を移した。そこにある灰は、展示する度、移動させる度、少しずつ失われ、いずれは全て吹き飛ばされるだろう。少しは皿にこびりついて残るかもしれないが、それもいつかは失われる時が来るはずだ。
 クオリアにとって、既にその作品は固着していた。
 愛着はある。しかし執着はない。それは既に過去の衝動である。反省は、ある。もっと良くできたのでは? あの絵の描かれるまでの、そして描かれたものが燃える様を映像化した部分は不要だったのではないだろうか。ティディア様のように理解してくれる人がいるのなら、ただ灰を真っ白な海原に置き、それだけでも良かったのでは? だが、それではあまりに独り善がりではないだろうか。誰にも解ってもらえないかもしれないと思えば心細い。しかし心細いと思うのはまだ自分が本当には作品に向き合い切れず、透徹できていないからかもしれない。――その惑いも、今は過去。全ては結晶となってそこにある。後は見る人に、見てくれる人に未来を委ねよう。
 彼女の胸には新たな衝動がある。
 その衝動は、熱だ。熱は揺らめき、己の熱に煽られ自ら波となり、風となり、体内を駆け巡り、私の心の底に溜まる何かを気化させて、しかもそれを心の外で固体にしようとエネルギーを増していく。
 疼く。
 彼女はダレイに訊ねた。
「演劇部は満足していた?」
「また頼むと」
「また頼まれようかな。私は、もっと創りたい」
 ダレイはうなずく。
 クオリアは、ドアを抜けていく新しい友人と王女を見送る。
 ニトロがドアを抜けると、そこには麗しの姫君と何とか言葉を交わそうという野望に燃えた生徒達が今こそはと結集しつつあった。まるで馬の群が統率を失ったまま一箇所に駆け込んでこようとしている、暴走の気配が廊下に漲っていた。
 その暴走が一度始まれば誰も止めることはできなかっただろう。
 しかし、その気配を容易に留め、それどころか跳ね返すものがあった。
 それは他でもない、ティディアの眼差しである。
 その目は生徒達に無分別を控えるよう柔らかく諭していた。優しい眼差しに、されど奥底に馬の大群すら飲み込む魔力を湛える黒紫の瞳に少年達少女達は訳も知らずに惹かれ、そして、畏怖した。それが無意識にも足をその場に釘付けにしたのだ。
 そこに露払いとして校長が先頭に立った。
 後陣にはハラキリとヴィタが控える。二人は絶妙な距離、外側から追い越すにも中間を抜けるにも躊躇を招く距離を取って並んでいて、しかも一人はこちらも美しい貴婦人であり、もう一人はどんな荒事にも動じないニトロ・ポルカトの親友である。それはもはや強大な城壁であった。
 これ以上ないほどに背筋を伸ばした校長が、まるでどこかに鼓手がいるかのごとく一定の歩調を取って進み出す。
 近づけなくとも姫君へ言葉や喜びを捧げながら追ってくる生徒達を引き連れて、ニトロもティディアと腕を組んだまま歩き出した。そう、腕を組んだまま、実に恋人同士のように。無論これは彼の本意ではない。しかし振り払う機を逸した後にはがっちり完全に捕獲されてしまった腕を“敵”から解放することができず、彼は胸の裏側を憤懣で焼いていた。しかもこいつはあつかましくもその乳房をこちらの腕へぐいぐい押しつけてくるから非常に鬱陶しい。肘を肋骨へ突き立てようにも上手いこといなされ、下手をすれば愛撫になってしまいそうだ。彼は歯噛む。彼女はほくそ笑む。
 一方、校長は己の背後で行われている静かな戦闘など露知らず、一歩一歩を噛み締めるように踏み込みながら、前方にいる生徒達へ教室側――つまり王女への接近を防ぐためニトロ(騎士として恋人を守るべき『ニトロ・ポルカト』)の歩く側の端に寄り、礼を尽くすよういかめしい声で指示を出していた。生徒達は幸せそうな王女の歩みを妨げてはならないと端に寄っていく。中には校長の意に反して中庭側に身を寄せる者もいるが、それはもちろん王女を可能な限り近くで見たいためであり、どこか夢見がちな顔には無謀な行為へ出ようという意志はない。それを見取った校長は、一際厳しく牽制の眼差しを送りながらも己の庇護にある者達をぎりぎりのところで黙認する。
 しかし己の庇護者気取りの女を一切黙認できないのがニトロ・ポルカトである。すり寄せられてくる頬を、肩を張り出して押し返す。さらに少しでも気を許せば恋人らしく囁きかけてくるであろう相手から逃れるように顔を横に向ける。その拍子に、廊下に面した美術室の曇り窓の向こうにぼんやりと佇む太い影と細い影が目に飛び込んできた。偽りの恋人への抵抗を続ける最中、ニトロの脳裡に別の思考が立ち上がる。
 あの二人はこれから片付けを始めるのだろうか。それとも明日早く登校して片付けるのだろうか。どちらにせよ閉門時間を過ぎるのは確実だから、二人だけでなく美術部全員が顧問と共に通用門を抜けねばならない。生徒はちょっとした手続きを踏まないといけないし、顧問は小言をもらうはずだ。もう美術室を通り過ぎる。それにしても今日は貴重な体験をさせてもらった。だけど、これはやはり迷惑をかけてしまったな――と、思ったその時、ぱっと窓が透き通った。
 その瞬間、ニトロとクオリアの目が合った。
 次の瞬間には、小さく手を振る少女の姿は視野から外れてしまった。
 しかし、そのたった一歩を踏み込む間に、彼は彼女の心をはっきりと捉えていた。
「いつか私達から栄誉を授けられるようになってくれれば嬉しいわね」
 ティディアが囁きかけてくる。
 ニトロは思わず振り返った。すぐ間近に、花壇に芽吹く双葉を見る面差しがあった。彼女のその表情に彼は一瞬油断しかけたが、簡単に唇で唇に触れられる距離であることに気づくと慌てて顔を背け、ぼそりと言った。
「……『私』な。俺も数えるな」
 ティディアはニトロの耳の後ろに息を吹きかけるようにくすくすと笑う。
「待ちなさ――待て!」
 急に校長が荒げた声に二人が振り返ると、彼の制止を強引に突破し、おさげの少女が夢中になって駆け寄ってきていた。その目には一つの望みのために身を滅ぼしかねない忘我の境地が現れている。それを王女は淡く嗜めながら、差し伸べられたその手に温かく手を触れてやる。
 ……そう、夢中だ。
 ニトロの瞼にクオリアが蘇る。
 彼女は夢中で、今もまだ夢中だ。そしてその夢は濃度を増している。それは妄念のためではない。情熱のためだ。最後に見たクラスメイトの瞳には青春が炸裂していた。そしてその青春は、彼女の情熱の続く限りきっと永久に失われないのだろう。
 ニトロには、それが羨ましかった。
 そして彼は、それをまだ羨ましいと思えることが奇妙にも嬉しくてならなかった。
 春、たけなわ。
 少年の頬には我知らず微笑がこぼれ、それは花の咲き乱れる季節に相応しく、それを見る王女もまた胸に萌える情動に、我知らず、そっと微笑むのであった。





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