案内人、そして依頼者に取り残されたニトロは少なからず当惑したが、結局、ハラキリと共に美術室の中頃へと進んだ。カルテジアは教室に九つ――3×3に並ぶ大きな机のうち、前列の一つを脇に押しやって手頃な制作スペースを作って、そこで作業している。傍らの机の上にはまた別の絵があった。先ほどの肖像画とは全く違う傾向の作品で、こちらは彼女の自由の手になるものだろう。他方、先ほどの物は、間違いなく、
「演劇部の手伝い?」
 ニトロが問うと、少女はうなずいた。
「よければ定期公演を見てあげて。君に観てもらえたらきっと喜ぶわ」
「俺はそんな大層なもんじゃないよ」
 プラスチック製のパレットと筆、それと随分可愛らしいキャラクターのシールが貼られた水入れ――肖像画は一目見た時には油絵かと思ったが、どうやらアクリル絵の具を主体に描かれていたらしい――を傍らの机の奥に追いやり、代わって油絵用の道具を手前に揃えていた少女はニトロの言葉を聞いて動きを止めると、相手をジッと見つめた。それは肌の細かな溝まで観察してくるような眼差しだった。ニトロは戸惑った。彼の心に警戒、あるいは回避への衝動が沸き起こる寸前、彼女は目を手元に戻した。その顔には何か納得のようなものがあり、
「君の認識ではそうであっても、相手の認識は違うものよ」
 その言い分に、ニトロは面食らった。少女は続ける。
「そして君の言う通り、君が大層なものじゃなかったとしても、観客が一人多いだけでも嬉しいものだから。それは君も知ってるんじゃない?」
「……そうだね、少ないよりは、多い方が嬉しい。だけど、それは俺の力じゃないよ」
「確かに君だけの力じゃない。でも、君だけの力じゃないだけで、そこには君の力もあるはずよ?」
 ニトロはまた面食らう。ハラキリは声には出さず笑っていた。カルテジアは机の上に置いてあった1m近いカンバスを画架に掛けながら、ずけずけと言う。
「謙虚は美徳ではあるけれど、あんまり謙虚過ぎるのは卑下になるし、場合によっては嫌味になるわ」
 痛いところを突かれた――ニトロはそう思った。しかしそう思いながらも容易には承服できぬところが彼にはあった。それは一面では意地であり、他面ではそれを認めることがすなわち“現状”をも認めることへの忌避である。その忌避は己の事情を根本から知らぬ者には理解されないだろう。だが、理解を求めようにも、それを明かせぬ事情もある。
 ニトロの中に渦巻く葛藤は言葉にはならずとも、その面に影となって現れた。
 すると、ふと手元からニトロへ目を移したカルテジアが叫んだ。
「その顔!」
 突然、しかも彼女の食いつくような勢いにニトロは驚いた。その瞬間、彼の表情から影が消える。カルテジアは今見た『その顔』を忘れぬうちにと画架に向き直った。机に置いてあったメガネを慌てて掛けて、合成木材製のパレットを持ち、筆を取り、煩わしそうに絵の具を用意すると凄まじい勢いでカンバスに描かれた人物の顔に修正を加えていく。
 その絵は暗い絵だった。
 真っ白な世界を背に、人が独り佇んでいる。その人は暗色を基調として描かれ、所々に点在する明色がその暗黒を際立たせている。その人は腰の後ろで手を組んで、うつむき、その顔には深く重苦しい苦悩があった。
 カルテジアは夢中で筆を動かしながら、うわ言のように言った。
「君の会見を見たの」
「ああ……うん」
 ニトロはうめくように応えた。その会見とは間違いなく『赤と青の魔女』――つまりスライレンドに現れた異常能力者ミュータントが起こしたとされる事件について、その最大の被害者にして一番の当事者である『ニトロ・ポルカト』が王女の付き添いの元で報道陣と質疑応答した時のことだ。
 カルテジアは筆を器用にパレットを支える左手に持たせるとペインティングナイフを右手に取って細かく絵を削り、
「その時のポルカト君は落ち着いて事件に向き合い、それと同時にメディアにも丁寧に対処していたけれど」
 ナイフを机に置いて筆を取り、パレットで乱暴に油絵の具を混ぜ、それを打って変わって繊細にカンバスに塗り込めながら少女は言う。
「その内奥ないおうには隠された苦悩があった」
 ニトロはどきりとした。
「それはとてもとても深くて、拭い去れない懊悩おうのうで、君はそれとも戦っているようだった」
 灰褐色の瞳はひたすらカンバスに、その苦悩する人物に注がれている。それなのに、ニトロは己が彼女の視線に突き刺されている気がした。思わず顔が固まり、押し黙る。
「流石、文学部」
 と、ハラキリが感心したように言った。
「『内奥』や『懊悩』なんて同級生から聞くとは思いませんでした」
 ニトロ・ポルカトの親友はそう言って笑う。するとカルテジアの手が止まった。彼女はきょとんとし、ハラキリに向き直ると納得顔を見せた。
「ダレイに聞いたのね。兼部してるって」
「そういうことです」
「でもまさかそんなところに反応されるとは思わなかったな」
「ほぼ初対面の人物にやけに遠慮なく物を言う、という点に反応されると思いましたか? まあ非常に興味深い論説も文学部らしいと言えば、らしいものでしたが」
 こちらも遠慮なく物を言うハラキリの言葉は、どうやら図星であったらしい、カルテジアは小さく笑う。
「それで失敗したことがたくさんあるもの」
 そう言って、彼女はメガネのレンズ越しにハラキリをじっと見た。そこには先にニトロを観察した時と同じ眼差しがある。しかし今度は何も得られなかったようで、わずかに臆病心を覗かせて、彼女は探るように言う。
「でも、ポルカト君には言っても大丈夫だと思ったからね」
 ハラキリは片眉を跳ねて、それを応えにする。その表情にカルテジアは何か興味を引かれたようだが、すぐにニトロに向き直り、
「まあ、でも、それもそうだよね。あんな事件に巻き込まれたら、そう簡単に乗り越えられるはずもないし」
 カルテジアの声には労りが現れていた。どうやら彼女はニトロの苦悩を異常能力者ミュータントと相対したことによる心的外傷に由来するものと解釈しているらしい。それを察したニトロは、ハラキリが広げてくれた間合いにも助けられ、余裕を持って笑みを作る。彼女も笑みで応え、それからカンバスに向き直る。
「さっきは、急に失礼。ごめんね」
 それが『その顔』と言ったことを指していることを悟り、ニトロは首を振る。
「驚いたけど、別に失礼だとは思ってないよ。それより、何で『その顔』だったのかを知りたい」
 カルテジアはカンバスにぐっと筆を押し込むように色を載せ、そこで微笑んだ。修正を終えたらしい。彼女は微笑んだままニトロへ振り返り、少し罰が悪そうな顔をした。
「この絵を描き始めてからもう二年が経つんだけど、どうもイメージする苦悩の顔が描けなかったの」
 ニトロはカンバスを見た。そこに描かれていた苦悩する人物は、前よりさらに深く悩み苦しんでいた。表面上はいくらか安らかになってさえいるのに、深い淵の水面が穏やかであるように、だからこそ煩悶の底は計り知れなくなっている。その変化に驚く彼の顔を見て、少女はくすぐったそうに眉を垂れ、そして続ける。
「私の求める苦悩の顔は、ずっと私の目の前にあった。だけど私にはそれがどうしても描けなかった。目の前にある顔はぼんやりとして、掴めそうで掴めなくて、けれどそこにあるからどうしても描き出したかった。でも、描き出したい、そう思えば思うほど目の前の霧は深くなる。霧は晴れない。そのせいでまた描けない。最悪の悪循環。正直、諦めかけていたわ。だけどそんな時に君のあの会見を見た。その瞬間、これだ! って思った。
 お陰でやっと描くことができたわ。君に会えたらお礼を言いたい気分だったけど、こんなことでお礼を言われても君は困るだろうし、いきなり言われたところで訳も判らないだけだよね」
 カルテジアは笑う。その笑顔は、清々しい。
「さっきまで満足できていたんだけど、でも、やっぱり実際に見ると違うね。今度こそ、やっと描けた。ありがとう、ポルカト君」
「お礼を言われても……確かに、ちょっと困るね」
 ニトロが言うとカルテジアはころころと笑った。その様子はやはり同年代の少女だ。ニトロはその笑顔の背後のカンバスを改めて観る。それは自分には似ても似つかず、どうやら彼女は『ニトロ・ポルカトの苦悩』に触れた際のエッセンスだけをそこに写し取ったらしい。……だとしても、その苦悩を描かせられるだけのものを自分が発していたのかと思うと重い気持ちにもなる。もし、去年のノイローゼ寸前だった『ニトロ・ポルカト』を見たとしたら、この美術部員はどのような苦悩をカンバスに描いていただろうか。
 ニトロはしばし沈黙した。ここからどのように会話を接げればいいのかちょっと解らない。ハラキリは彼女の発言を吟味している。ダレイはまだ戻ってこない。彼女は自分の言葉と作品が相手に与えた影響を観て取って、笑顔を消すとカンバスに向き直っていた。一歩離れたところから己の描いた苦悩する人を眺め、深く息をつくと、絵に歩み寄って静かにサインを入れる。
 一つの絵画が完成する瞬間を、ニトロは息を殺して見つめていた。
 カルテジアはまたカンバスから一歩離れて全体を見直し、うなずいた。
「――ダレイからは、絵を燃やすのを手伝ってくれって言われて来たんだけど」
 画家の動作の音、衣擦れと足音だけが響いていた沈黙を破り、やっとニトロは訊ねた。
 パレットと筆を机に置き、メガネを外したカルテジアはうなずく。
「うん。この絵を燃やすの」
「え!?」
 ニトロは思わず声を上げた。ハラキリも小さく驚きの声を発していた。

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