「では拙者も行くとしましょうか」
 ハラキリは空のペットボトルを専用のゴミ箱に放り込み、ダレイと連れ立って教室を出て行く。ニトロはその後に続いて廊下に出た。
 すると廊下に固まっていた十数人の新入生達が、瞳をまっさらな制服よりもきらきらと輝かせて三人を取り巻いた。……取り巻いたが、何やらひどく尻込みをしているようで取り巻いたまま近づいて来ない。どうやら荒事をくぐり抜けてきた『スライレンドの救世主』がさらに戦闘力の高そうな二人を従えてきたことで、新入生達は一種の威圧を感じているらしい。
 それを悟ると同時、ニトロは笑みを浮かべてしまった。それは敵意のないことを示すものであり、ハラキリに言わせればお人好しの困った短所である。しかしその短所は実際に効果を発揮し、『ニトロ・ポルカト』を伺いに来ていたミーハーな新入生達ははっきりと安堵した。もし何事もなければ彼の一番近くにいたおさげの少女を押しのけて、快活そうな男女の三人組が有名人へ突撃してきていただろう。しかし野次馬達の安堵は束の間のことに過ぎなかった。ちょうどその時、廊下の向こうからこちらへ居丈高に進んでくる人影があった。まるで剣を振り回して駆け込んでくる勢いである。それを見た野次馬達は慌てふためき、『ニトロ・ポルカト』への関心に後ろ髪を引かれながらも逃げるように解散していった。
 ニトロは、最後に去っていったおさげの少女から、その人影に目を移した。
 校長である。
 肩で風を切り、足音も力強く進んでくる彼は最上級の礼服に身を包んでいた。それは入学・卒業式で着てもちょっとどうかというような服装であった。彼は『王女の恋人』の視線に気がつくと、さらに胸を張った。すると彼の居丈高で周囲を圧倒しようという攻撃的な姿勢が一瞬にして消失し、代わってそこに粘りつくような媚態が現れる。その媚態と示威的態度は相容れない。それらは互いに反発し合い、そのため威厳をアピールしようという男の姿は途端にみすぼらしいものとなる。
 もう慣れた――とはいえ、そのような大人の振る舞いは、慣れてなお負の感情を若者の胸に与えるものだ。
 元より柔和な顔に、にこにこと人の好い笑顔を浮かべる校長とすれ違いながら、先頭に立っていたダレイが頭を下げる。校長は目礼を返す。ハラキリが目礼した時、校長は隠し切れぬ難色を示しながらうなずいた。ニトロが会釈をすると、校長はいよいよ胸を張りながら頭を下げるという離れ業をやってのけた。
 三人とすれ違った後、校長の磨き抜かれた革靴はカスタネットもかくやとばかりに甲高い音を放ち出し、しかし速度は急速に緩め、己の存在を相手の耳に確実に刻み込むために一歩一歩ゆっくりと離れていく。
 ……ニトロの胸に、軽蔑はない。
 ただ失望があった。
 失望は軽蔑ほど相手を卑小化することはなくとも、しかしその存在を軽くする。高貴なる人からの重用を望む校長先生の勇姿は、その燃える願望が増すほどに滑稽であった。そして、もはや哀れだった。
「ところで燃やすといっても、どこで燃やすんです?」
 ハラキリが口を開いた。校長とすれ違った瞬間から何となくまとわりついていた透明な膜が、その声に破られる。
「校庭だ」
 ダレイは言った。
「水場の近くでやる。それが条件だからな」
 彼の一言目には硬さがあったが、二言目にはそれもなくなっている。ハラキリがさらに聞く。
「焚き火のように?」
「バーベキューコンロを借りてある」
「なるほど。それじゃあついでに肉も焼きますか」
「ニトロがいるから、それもいいかもな」
「ん? それは俺に作れってことか?」
「得意だろ?」
「苦手じゃないけど、そういう場合は手伝おうよ。一緒に作ろう。バーベキューってそういうのが楽しいんじゃないか」
「俺はいつも運搬専門だ」
「いつも?」
「そうでなかったことはない」
「力持ちは頼られますからねぇ」
「ハラキリもか?」
「拙者は全工程でちょこちょこ手伝って、それでお茶を濁します」
 ダレイは笑った。ニトロも笑いながら、言う。
「要領がいいんだよな、ハラキリは」
「いえいえ、単純にセコいだけです」
 しれっとそう言ってのけられて、ニトロもダレイもまた笑う。
 教室棟から中庭を抜けて特別教室棟に移動した三人は、三階の隅にある美術室へとやってきた。
 特別教室棟は、教室棟に増して静かだった。最上階の音楽室から――窓を開けているのだろう――軽快な二重奏が漏れてきているが、その細くたなびく音楽が余計に静寂という形のないものに輪郭を与える。この階には人影も全くない。ひそひそ話も聞こえない。
 美術室のドアの前で立ち止まったダレイはドアを軽くノックし、開いた。
「戻った」
 ダレイの低い声に振り向いたのは艶のない黒髪を背に流す女子生徒だった。他に部員はいないのか、それともどこかに行っているのか、絵の具や油、その他種々様々な画材の匂いの染みついた広い教室には彼女一人しかいない。ブレザーを脱ぎ捨て、ネクタイを投げ捨て、シャツの袖をまくり上げ、何やらけばけばしい衣装を着た肖像画を相手にしていたらしい少女はダレイの後から入ってきた二人の顔を見て驚いたように目を開いた。
 一方、ニトロも驚いていた。
 その美術部員には見覚えがあった。
 だが、名前が出てこない。
 彼女は今年度から同じクラスになった女子で――
「おや、カルテジアさん」
 ハラキリが言った。その名を聞いて、ニトロも思い出した。そうだ。彼女を初めて意識したのは昼休みの時。食事も取らずどこにもいかず、さらに授業が始まってからも教室の隅でずっと読書に耽っていたクラスメイトだ。
「どこに行ったのかと思ったら」
 顔だけをドアへ振り向けていたカルテジアは三人に体ごと向き直り、言った。
「ポルカト君に、ジジ君まで連れて帰ってくるとはね」
 彼女の声は落ち着いていて、表面はとても柔らかいのに、底にはどこか堅さがある。
 その響きがニトロに不思議な印象を与えた。
 彼は改めて新しいクラスメイトを見た。教室で、彼女がブレザーを着ていた時にはさほど気にならなかったが、それを脱いだ今ではシャツの下からひ弱さが滲み出ている。まくり上げられた袖から抜き出る腕にも肉がない。長めのスカートから覗く膝は角ばり、頬はこけ、半ば拒食症を疑いたくなるところだ。それなのに目は活き活きとしていて、何か揺らぎのないエネルギーすら感じさせる。彼女に見つめられれば、人によっては拒否感を抱くかもしれない。
「でも、どうして?」
 その問いに、ニトロとハラキリは疑念を抱いた。ダレイとカルテジアの間で話が通じていないのか。線の細すぎる少女に比べるとなおさら大きく見えるダレイが言う。
「手伝ってくれるそうだ。人手はあった方がいいだろう」
「ほんと? それは助かる」
 嬉しげな少女の顔には独特の愛嬌があった。それを見るダレイはいつもの通り寡黙な様子で、ぼつりと言う。
「できたのか?」
 その目は肖像画に向けられている。
「ええ、できたわ」
 美術部員は誇らしげに胸を張る。小さな乳房のみならず、骨ばった胸郭までもが強調される。ニトロは心配になるが、それでも彼女の顔色の血色を見るとやはり病的なものがあるわけではないらしい。
「見てて」
 彼女はカンバスの裏に回りこみ、ちらっとこちらを見た後、いきなり両腕でカンバスを貫いた。
「あ!」
 と、声を上げたのはニトロだった。その反応に少女は目を細め、両腕を引き抜く。肖像画の肩口から表に飛び出ていたか細い腕が裏に消え、するとカンバスはとても穴が開いているとは思えない状態に戻った。描かれている人物の、派手な衣装のフリルや刺繍が上手く仕掛けを隠しているのだ。うら若い画家は実に満足気に微笑んでいる。
「ポルカト君の様子からすると、上出来みたいだね」
 ダレイがうなずき、歩み寄っていく。
 ニトロは感嘆を込めて、思い出したその“タイトル”を口に出す。
「『ザンクバックの悪魔の絵』か」
「その通り。流石はニトロ・ポルカト」
 少女の言葉にニトロは苦笑する。
「いや、有名だからね」
「それでも知らない人は知らないものよ。少なくとも、うちの部員は皆知らなかった」
 カンバスを画架から外し、美術部員はそれをダレイに渡す。
「顔の辺りはまだ乾き切ってないから」
 画家の注意を受け、ダレイは絵を汚さないよう抱えてドアへ向かう。そしてまだドアの付近にいたニトロとハラキリとすれ違う様に、
「よろしく頼む」
 と、その一言を残し、ダレイは美術室を出て行った。

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