燃える思い

(『第三部 ティディアの誤算』のおよそ二週間後)


 校庭や体育館には活動の声が溢れ、教室や廊下には談笑の声が響いているというのに、こうしてそっと耳を澄ませてみると放課後の学校は嫌に静かだ。昼間にはあれほどいた生徒達のいなくなった空間に、どこか恐ろしいほどの静寂が常に潜んでいる。
 ――その静寂の正体は、何であろうか。
 皆は知っている。
 ここはいずれ去るべき場所なのだと。
 定められた年月を経た後には友とも敵とも別れ、明るい未来への希望に胸を燃やしながら、そうして次に別れるべきもの達と出会うために失うべき場所なのだと。
 もちろん巣立ちの際に肩を並べて同じ道を行く者がいることもあろう。が、だとしても、その時には雛鳥の羽は奪われている。来るべき喪失からは、誰も逃れられない。
 その静寂は、つまり将来へ向かう自分達の足音であり、その足音の名はすなわち『不安』という。
 それは青春の影。
 若さと未来への希望に満ちた青春と切り離せぬ、もう一つの青春。
 不安は決して語らない。いつも思わせぶりに沈黙し、そっと希望に寄り添い忍び足でついてくる。希望はそのことを知っている。それなのに希望は不安を振り払わない。何故か? 何故なら、不安と希望は仲の良い姉妹であるからだ。
 不安は、今こそ青春を生きる者には厭わしい。その人は眩い希望ばかりを見上げて足元の影を見ない――それは醜悪で、溌剌と駆ける己には似つかわしくないものだと思うから。
 しかし年齢を重ねた者は憧憬を込めて述懐するだろう。その不安があればこそ青春は輝く――その陰影もまた美しい青春の輝きそのものであるのだと。
「なんてことを思うわけだが、どうだろう」
 春たけなわの光差す窓際で、ゴールキーパーの蹴り出したボールの行方を目で追いかけながらニトロは言った。すると彼の二つ前の席に座る親友がペットボトルを傾ける。炭酸の弾ける液体を一口飲んで、ハラキリは一つ息を吐く。
「疲れてるんじゃないですか?」
 ニトロは笑った。寂しげに。
「疲れてるのかもな」
 校庭の先に見える歩道には人だかりがある。そこはどの門からも程遠い場所であるのに、それでも教室から認められるほど人の頭が波打っている。
 何しろ本年度の始業式から五日が経った今日、『スライレンドの救世主』が『赤と青の魔女』事件の後に初めて登校してきたのだ。マスメディアも見物人も朝から大集合。放課後に至ってもその数は増える一方。そのため学校は厳戒態勢、周辺道路にも交通規制がかけられていて、警備員や警察のアンドロイドやロボットに守られて登下校をする生徒達は非常に窮屈そうである。それなのにニトロ・ポルカトは例外的に飛行車スカイカーでの登下校を許可されている――というよりもこれ以上の混乱を避けるためそれを強く望まれたのだから彼も心が窮屈である。クレイグとミーシャは気にするなと言ってくれた。その気遣いがありがたかった。フルニエはお陰で行きつけの食堂が満員だったと文句を言ってきた。しかし次の瞬間にはバカ話を始める後腐れのないその舌鋒が、あの事件の日、その事件が起こる直前まで一緒にスライレンドに行っていた友人から以前と変わらず聞けたことが、ニトロにはとても嬉しかった。
 ハラキリは、朝、韋駄天で迎えに来てくれた時には軽口を叩いていたが、学校に着いてからは猫を被って無用の言葉を発さない。しかしいつもより行動を共にしてくれている。放課後になっても一緒に校内に残っている事にはまた別の理由があるのだが、それでもニトロにとっては何より心強い。親友は薄紫色をした炭酸飲料を飲んでいる。ごくりと押し込む音がする。それから、息が押し出される。
「リラクゼーションでも受けに行きますか? 時間もあることですし」
 ニトロは目を教室に戻した。室内にはまだ十数人の生徒が残っている。そこに居残っているほとんどは、今年度から同じクラスになったクラスメイト達であった。
「ここを一度出てまた戻ってくる手間と、リラクゼーション一回」
「割に合いませんか」
「合わないな」
 いつも笑っているような顔のハラキリ・ジジは清涼飲料水を飲む。彼がそれを買いに行っている間、ニトロは新しいクラスメイト達から質問攻めにあっていた。しかしハラキリ・ジジが帰ってくるや、即席インタビュアー達は波が引くように『ニトロ・ポルカト』から離れていった。それはハラキリ・ジジという生徒への嫌悪や排斥の意図の表れではなく、ただそうしなければならないからそうなった、という空気のためであった。
 不思議なものだとニトロは思う。
 ハラキリはまた一口飲む。
 ニトロは訊ねた。
「どうだ?」
「この新製品は確かに、外れです」
「だから言ったろ?」
「実に言う通りで」
「金を無駄にしたな」
「まあ、話の種を買ったと思えば」
 ハラキリは炭酸飲料を飲む。顔をしかめることもなく平然と。しかも炭酸が胃から戻ってくるのを小さく小さく吐き潰しつつ、大して間を置かずに飲み続ける。そこでニトロはハラキリがその飲料をできるだけ速やかに飲み干そうとしていることに気がついた。
「……すっごい不味いだろ?」
「生ゴミを漬物にしたような味ですね。それが炭酸の刺激で倍増されて凄まじい」
「フルニエは癖になるって言ってた。くっさいチーズとか好きだしって」
「はあ、まあ、好き好きではありますが……」
「でも、あえて飲みたいとは思わないって言ってた」
「ですよね」
 うなずいて、ハラキリは薄紫色の液体を飲む。親友の実に満足気な納得と、しかし実に不満足な味わいとが入り混じった顔にニトロは笑う。そんな二人の様子を見慣れぬ新しい級友達がどこか不可思議そうな顔をしていたところ、閉め切られていた教室のドアが急に開けられ、その音に不意を突かれて幾人かが肩を震わせた。
 ニトロもその音に反応して振り向くと、ドアの外には教室内と同じく十数人の男女がいた。校章の学年を示す色は揃って黄色ばかりで、その色は昨年度までは三年生、今年度からは新一年生のものである。先ほど「たむろしてご迷惑をかけてはいけない」と校長に追い払われていたはずだが、どうやらすぐに戻ってきていたらしい。そしてそのまだ高校生に成り切れていない集団の先頭に、早くも成人の風格を備えた大柄な男がいる。
 その背の高く、ブレザーの上からも解る筋肉質の体躯は、ニトロもハラキリもよく見覚えのあるものだった。彼は窮屈そうにドアを抜けてくる。少なからず驚いて、ニトロは声をかけた。
「どうしたんだ?」
 部活動に行ったはずのニトロの友人――ダレイは、歩み寄りながらほとんど表情を変えずに答える。
「ニトロを探しにきたんだ」
「俺を? 電話してくれればよかったのに」
「校内にいるのは分かっていたからな。ハラキリも」
「ということは、拙者にも御用が?」
 炭酸飲料をじわじわと飲みながら、意外そうにハラキリが問う。ダレイはうなずき、
「二人に絵を燃やすのを手伝って欲しい」
 ニトロは眉をひそめた。
「演劇部の倉庫を整理でもしてるのか?」
「今日は美術部を手伝っている」
 ニトロはますます眉をひそめた。
 ダレイは蹴鞠キックアップ部と演劇部に籍を置いている。メインは前者だ。後者には演劇部の友人に舞台設営への協力を頼まれた際に入り、それからも必要な折に力仕事を手伝っている。だから、てっきり不要になった舞台道具の処分作業への協力要請だと思ったのだが……
「美術部とも兼部してたっけ?」
「ちょっとややこしいんだが」
 ダレイは一つ間を置き、
「演劇部の脚本を、文学部のが手伝っている。その文学部に、美術部と兼部しているのがいる」
「――で、ダレイはその美術部員と友達になっていて、そこから頼まれたと」
「そういうことだ」
「美術部員とのことなんて初めて聞くよ」
 ダレイはうなずく。彼は不必要なことは言わない。それで正しいという態度で、実際、彼にとっては正しい。自ら自分のことを話すことも滅多にないから、ニトロには単純に初耳だった。そのため驚きはしたが、それ以上に気にかかるのは、
「てことは、燃やすのは美術部の絵か?」
「そいつの絵だ」
 となるとなかなか穏やかな話ではない。何やら重苦しいものがニトロの想像力に及んできて、彼の眉間にはいよいよ深い皺が刻まれる。
「心配するようなことじゃあない」
 その様子を見て、ダレイが言った。
「燃やすといっても、それは創作活動だ」
「創作活動?」
「陶器は焼くだろ?」
「紙と土じゃ意味が全然違うだろ」
「結果として完成すれば同じだ」
 ニトロの眉はひそめられたままだった。燃やして完成する絵とは、何だ? 『焼き絵』なら聞いたことはあるが、それともどうも違うらしい。彼は強く興味を引かれた。
「まあ……それなら、ひとまず行ってみるよ。場合によっちゃ断るかもしれないけど、それでもいいか?」
「構わない」
 ダレイはうなずき、それからハラキリを見た。ニトロもハラキリを見る。ハラキリは悪意で作られたとしか思えない炭酸飲料の残りを一気に飲み干し、立ち上がった。

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