芍薬がレクを生かした理由は、無論、ティディアに語ったことが全てではない。
 この件におけるトルズク兄弟の最後の動向を芍薬に伝えたのは、レクに設置された『爆弾兼警報機』に付随する“情報提供機能”だった。つまり芍薬はレクを生かすと決めた時、ついでにレクを一種の情報収集用のロボットとして利用することにしたのである。しかもそれは通常のロボットにはない動きを可能とする。レク自身が不規則に働くだろうし、時に不合理な指示を出す人間マスターがA.I.には無い視点から有益な情報を掘り当てる可能性だってある。それは実に価値のあることだ。『マスター権限』のコピーも握ったままなのでレクをゾンビA.I.として活用する道だって残っている。もちろんそれはそうしなければならない時にしか行わないし、今後のトルズク兄弟のプライベートを覗き見、あるいは監視するつもりも毛頭ない。よもや『警報機』が鳴るような場合は例外であるが、それまでは他のロボットが運んでくるデータと同じ扱いである。
 そしてそのための区切りをつける最後の報告……その二人と一人の顛末が芍薬に伝えられたのは、ちょうどニトロがシャワーを浴びている時だった。芍薬は多目的掃除機マルチモニターを操作してベランダの小さな家庭菜園からハーブティーの材料を採っている最中で、専用の鋏でカモミールを切り取りながら、芍薬は情報を確認した。
 ――ひどくしょぼくれた声が聞こえてきた。弟のトルズクだ。
「トンデモナイコトヲシチャッタネ」
 兄は、答えない。
「デモ、何デ解放サレタンダロウ。モット怒ラレルト思ッタノニ」
 兄は答えない。
 弟は何かこびりつく暗さを底に隠して言う。
「ネエ、兄チャン、オ腹空イテナイ? コレカラドウナルカ解ラナイケドサ――」
「ナア、ムンド
「何!? 何ダイ? 兄チャン」
 しばらく沈黙がある。
 兄は苦しげに言う。彼の声の底にも何か粘りつく暗さがある。その暗さは弟のものより重く、底深い。
「俺ハナ、モウナ、イヤ、モット前カラナァ……」
「イインダヨ」
 弟が言った。力強く。しかし、声は泣いている。そんな弟に兄は何かを言おうとしているようだ。何かを言おうとして、言えずに吐く息だけが噛み殺される。兄の無残な様子に耐えられなくなったらしく、弟が悔いを滲ませ、一方では己の悔いを兄の慰めとするように口を開く。
「僕ネ、今、何ダカ僕コソガ兄チャンヲ追イ詰メテタンジャナイカッテ思ウンダ。ウウン、本当ニ僕ガ兄チャンヲ苦シメテイルンダ。ダッテ、僕サエイナケレバ「ソレハ違ウ!」
 ふいに兄が声を荒げて弟の言葉を遮った。その声が震えているのは怒りのためだけではないだろう。波打つような声を消え入らせながら、彼はぽつりと付け加える。
「ソンナコトハ言ワナイデクレ」
「デモ、本当ハズット思ッテ……」
 弟の声も震えていた。善かれと思った言葉が完全に裏目に出たことを悟り、彼はひどく狼狽していた。すると、動揺する弟を慰めるために気力が湧いたらしい兄がやっとしっかりと言葉を発した。だが、その暗い声はひび割れた笑いを伴い、
「アア、ソウ思ッテイルンジャナイカッテ、ズット思ッテイタヨ」
「兄チャン……」
「駄目ナ兄貴ダナァ、俺ハ。『ジェントルマン・ディンゴ』ノヨウニオ前ヲ守リタカッタ。オ前ノ好キナ彼ノヨウナビッグナ男ナツモリダッタ。ケレド彼ノヨウナ紳士ニスラナレテイナカッタッテコトニ、ヤット気ヅイタヨ」
「ソンナ」
「ツクヅク思イ知ッタ。ティディア様ノ御目ニ、オ言葉ニ、俺ハ俺ノ小ササヲツクヅク思イ知ラサレタ」
「……怖カッタネ」
「アア」
「……僕達、コレカラドウナルノカナ」
 弟は何か重大な事柄には触れないように、そう言っているようだった。
 ややあって、兄が答えた。彼もまた弟の触れぬことを避けて言う。
「逮捕サレルダロウナ」
 その言葉も、弟にとっては重大だった。思わぬほどの声が吐き出される。
「ソンナ!!」
「ティディア様ニアンナコトヲシタンダ。『ナ〜ンチャッテ』ジャ済マサレナイ」
 理性的に兄は言う。
「ダガ、キットオ前ハ大丈夫ダ。主犯ノ俺ハ刑務所行キニナルダロウガ、オ前ハ大丈夫ダ」
「ヤダヨ! 僕、兄チャント一緒ニ……」
「仕方ナイ。……仕方ナイサ」
「……デモ」
 そこで弟は息を止めた。兄の息遣いも失われている。弟はとうとうそれを言った。
「僕ハ一人ジャ……」
 その時だった。
「一人ではありません!」
 突然のオリジナルA.I.の声に、兄弟は驚愕したようだ。また息が止まる。そして次の瞬間、揃って声を上げる。
「「レク!?」」
 それは歓喜だった。その驚きと喜びに満ちた声からは、二人がずっと押し殺していた暗さの一部、それも絶望的な一部が瞬時に消し去られていた。
「無事ダッタノカ! アア、良カッタ!」
 兄が涙声で言う。
「俺ハテッキリ消去サレテシマッタモンダト……」
「『ニトロ・ポルカト』さんが助けてくださいました」
 レクの答えに兄弟がまた驚きの声を上げる。
 芍薬は、ハーブティーの作業を止めて注意を向ける。
「『ニトロ・ポルカト』ガ?」
「はい」
「何故?」
「解りません。しかしA.I.芍薬がそう言っていました」
「ソウカ……」
 うなだれたように兄が言う。
「ネエ、兄チャン。『ニトロ・ポルカト』ハ、モウ悪ク言エナイネ。ダッテレクヲ助ケテクレタンダ」
「アア、ソウダナ。本当ニ、本当ニ無事デ良カッタ、レク……」
「……はい、はい、マスター」
 レクは泣いている。
 しばらく二人と一人の泣き声と互いの無事を喜ぶやり取りが続く。
 芍薬は、三人の会話をバックに再び作業に戻る。
「ドウセナラ一度会ッテミタカッタネ」
 弟が言った。
「ヤッパリニトロ君ハ良イ人ダッタンダ。ドウイウ人ダッタノカナァ」
「イヤ……」
 兄が否定を示した。
 芍薬は手を止めた。
 彼は重苦しく言う。
「タダ良イ人ダトハ思エナイ」
「兄チャン?」
「アノティディア様ト『漫才』ナンカデキルンダゾ? ソレドコロカ『恋人』ナンダ。俺ニハ考エラレナイ。彼ハ普通ジャアナイ」
 芍薬は思わず笑ってしまった。
 弟もレクも感嘆と共に同意を示す。
 もう大丈夫だと確信し、また作業に戻る。
「マスター、ところで、ムービーメールが来ています」
 会話が落ち着いたところで、レクが言った。
「誰カラダ?」
「『ジェスカ・ポルカロ』」
 その送り主の名に兄弟が呻く。弟はあからさまに怯えている。恐る恐る、兄が訊ねる。
「何ダッテ?」
「とてもお怒りです。知られてしまったようです。というよりも、現在『トルズク・ブラザーズ・ビッグニュース』は全国トップクラスの注目度です」
「アア!」
 兄が声を上げた。それは歓声ではなく、痛恨だった。
「忘レテイタ! レク、スグニ消シテクレ!」
「ご、ごめんなさい、ワタシには無理です!」
「何故ダ!?」
「権限を剥奪されています、管理画面にアクセスできません」
「誰ガ!?」
 と言って、兄は呻いた。悟ったのだ。誰に奪われたかを。
「神ヨ、コレモ罰ナノデスネ」
 力なく、言う。
 だが、おそらく兄は誤解している。権限を奪ったのは王女ではなく芍薬だった。そして芍薬はあのページを三日後に削除されるよう設定し、それまで加算されるであろう広告収入は『個人報道インディペンデント・リポート被害者救援基金』に寄付されるよう手配していた。
「キット御父サンモ怒ッテルイダロウネ」
 ふと、怯える子どものような声で弟が言った。
 すると兄は、一転愉快そうに――しかしどこか力なく――笑った。
「ソウダナ、オ怒リダロウ」
 それでも弟は兄の笑い声に元気を取り戻したらしく相槌を打っている。そこにレクが問うた。
「ところで叔母さんにはどうお返事されますか?」
「他ニハドンナコトヲ?」
「戻ってきなさいと、叩き直してやるから、と」
「ソウカ。ソレジャア、ソウスルカ、ナア、ムンド? オ前ガ叔母サンノ所ニイルッテイウナラ、俺モ安心ダ」
 その言葉に、弟は返事をしない。しかしその沈黙で全ては理解できる。
「チャント俺ガ頼ンデオクカラ。父ニツイテモナ、叔母サンハ理解シテクレテイルカラ」
「……ウン」
「ソウダ、借金ノコトモ叔母サンニ相談シテオカナキャナ」
「……キットモット怒ラレチャウネ」
「頭ヲ下ゲルサ」
「一緒ニネ」
「……。
 アア」
 躊躇いがちだとしても兄が承知してくれたことに弟は嬉しそうに笑い、と、
「ア!」
 急に切羽詰った声を上げた。
「大変ダ、兄チャン! モウ貯金ガナイ! オ給料マデ日ニチガアルシ、コレジャア次ノ返済ガデキナイ! ドウシヨウ、叔母サンダッテスグニハオ金ヲ貸シテクレルトハ思エナイヨ、家賃ダッテアルノニ!」
 弟は心底慌てている。すると、
「ソノ点ニツイテハ安心シテクレ」
 と、兄が言った。何かごそごそ音がする。
「コレヲ見ロ」
「ベルトガドウカシタノ?」
「コノバックルニハ仕掛ケガアッテナ?」
 かちゃりと音がする。
 弟とレクが驚きの声を上げる。
「10万リェン札!」
「マスター!?」
 どうやら弟はもちろん、レクも知らなかった資金であるらしい。弟がちょっとパニック状態で兄に問うている。兄はどこか何かを恥じるように答える。
「子ドモノ頃カラノ貯エデナ。何カアッタ時ノタメニッテ、コレダケココニ隠シテイタンダ。レク、家賃モ含メテ給料日マデ何トカ持ツカナ?」
「はい!――あの、それと、マスター」
「ドウシタ?」
「実はワタシもへそくりがあります」
「エ?」
「1万リェンだけですが、昔頂いていたお小遣いの中からマスターの大昔の口座に入れておいたものがあるんです。足しになりますよね?」
「レク! アリガトウ! オ前ガイテクレテ本当ニ良カッタ!」
 そのマスターが感謝を伝える声には純粋な想いがあり、それ故、レクはまた泣いている。
 やがて、しみじみと弟が言った。
「ネエ、兄チャン」
「ドウシタ?」
「ヤッパリ兄チャンハ、今ダッテ僕ノヒーローダヨ」
 芍薬は、そこで記録の再生を止めた。

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