パジャマに着替えたニトロが部屋に戻ってくる。
 ハーブティーの準備は既に終わり、後は頼まれるのを待つだけとなっている。
 ニトロは勉強机兼食卓のテーブルにつき、ぼんやりと宙を見つめた。そして、
「芍薬」
「何だい?」
 てっきりハーブティーを頼まれるのだと思っていた芍薬は、ニトロの次の言葉に驚いた。
「何カ話スコトハナイ?」
「え?」
「服ヲ買ッテタ時、何カシテイタデショ?」
 マスターはまだ今日の各種ニュースを見ておらず、衣装合わせの際に『相方』もそれを話さず、またハラキリや他の友人からのメールにも触れられていなかったためトルズク兄弟の件をまだ知らない。だというのにそう問われ、芍薬はすぐには反応できなかった。それは驚きのためだったか、あるいは躊躇のためであったろうか。しかし芍薬は――人間ニトロの体感では――すぐに訊ねる。
「何故だい?」
「ナントナクネ」
 その言葉が妙に嬉しいと感じるのはマスターの勘への賞賛のためだろうか、それともそれが無根拠な問いであるこそであろうか。芍薬は悪戯を仕掛けるように微笑み、問う。
「外れてたら何て言うつもりだったんだい?」
 ニトロは笑む。つまり『何かしていた』と告白したオリジナルA.I.へ、
「ソッカ、ッテ言ウダケダッタヨ」
「そうかい」
 と言って、思わず芍薬は笑ってしまった。ニトロも笑う。笑いが収まったところで、芍薬は語った。端的に、ニトロも知っている登校時間中の校門での騒ぎから始めて、ある兄弟とそのオリジナルA.I.が経た過日かじつの終わるまでを。
 途中、ニトロは二度ほど酷く渋い顔をして、一度はとても複雑な顔をした。
 一度目の渋い顔は、きっと、もっと穏健で、もっと優しい手段はなかったのかと考えたからだろう。が、何の手も思いつかなかったらしく、結局何かを口にすることは無かった――いや、例え妙案を思いついていたのだとしても、マスターがその可能性を以てアタシを難じることはなかっただろうと芍薬は思う。彼が二度目に顔を歪めたのは、無論、ティディアを利用した点についてである。そこでも彼は何も言わなかった。
 複雑な顔をしたのはレクという名のオリジナルA.I.が、自分ニトロの命令によって助けられたようにしてしまったことに対してだった。しかしここでも彼は無言を貫いた。とはいえ、そのオリジナルA.I.が消されずに済んだことにはとても安堵している様子だったから、芍薬自身もまた、深く安堵していた。
「『ジェントルマン・ディンゴ』カ……」
 そして全ての話を聞き終えた後、ニトロは言った。
「ドッチノファンダッタノカナ」
 トルズク兄が何度か言及し、ニトロも興味を示した『ジェントルマン・ディンゴ』は今から二十年近く前の作品である。コミックとアニメがあり、人気を博したのは後者で、ハードボイルドとコミカルをほどよく調合した勧善懲悪ストーリーは当時の子ども達を夢中にさせたという。しかし原作は解りやすいヒーロー物ではなく、それどころか毒に満ちたアイロニカルなドラマだった。事件が起こったのはアニメの最終回である。不穏な空気はそのラスト三話目から漂っていたが、最終回にしてそれが凝縮した。痛快でかっこよく、紳士的なヒーローを描き続けていたアニメが急に原作のテイストを濃密に押し出したのだ。ラストシーンでは究極の正義を求めるディンゴが地獄のような白昼夢の中をさまよい、その最中にたまたま行き会った老人(実はディンゴの生き別れの父)を巻き込んで車道に飛び出すとそこに走りこんできたダンプカーに二人の轢かれる音が青空を映す画面に流れ、次いで目撃者達の悲鳴が響き渡り、それに被せるように鳴り響いた救急車のサイレンが次第にフェードアウトしつつ……番組は終わった。直後に流れた『ジェントルマン・ディンゴ変身セット』のCMとのギャップは凄まじく、多くの子ども達にトラウマを残したものである。
 壁掛けのモニターの中で首を傾げ、腕を組んで芍薬は言う。
「多分、アニメじゃないかな。それで『ラスト三話は無し派』だと思うよ」
 すると、ニトロが不思議な表情を刻んで言った。
「『ラスト三話ガアッテコソ派』ニ熱ク語ラレタコトガアルヨ」
 初めて聞く話に芍薬は目を輝かせる。
「いつの話だい?」
「小学6年ノ時。ソイツハ『デモ原作ガ至高』ッテ言ッテタヨ。原作通リノモノヲアニメデ見タイッテ言ッテ、テイウカ漫画ヲ元ニA.I.ニアニメヲ作ラセテ、自分デ声ヲ入レテイタ」
「できはどうだった?」
「『過チヲ犯ス者ハ愚カダ。シカシ過チヲ恐レル者ハ敗北者ダ。始メカラ己ニ負ケテイル者ガ、本物ノ男ニナレルハズモナイ』」
「?――ディンゴのセリフだね」
「俺ニトッテハ、ソイツノ座右ノ銘」
 そう言ってニトロは懐かしそうに、また寂しそうに笑う。
「今思ウト、モット他ノ言イ方ガアッタト思ウヨ」
「……」
 芍薬はニトロを見つめ、間を置いた。そうしておいてから話頭を転じるため、
「主様は、どっちが好きだい?」
「原作ハホトンド未読。アニメモ、観タコトガアルハソイツノ二次作品ダケナンダ」
「あ、そうだったのかい」
 少し気まずくなる。ニトロは過去を眺めるように黙し、芍薬は所在無げにユカタの袖を振る。やがて、ニトロがぽつりと言った。
「今度、全部読ンデミヨウカナ」
「原作を?」
「アニメハ見テイル暇ガナサソウダカラネ。取リ寄セテオイテクレル?」
「御意」
「ソレカラ、オ茶ヲオ願イ」
「承諾」
 芍薬は大きくうなずいて、早速多目的掃除機マルチクリーナーを動かした。アームの先に取り付けた調理用ハンドを器用に動かし、用意しておいたガラスの茶器とハーブを取り扱う。
「ソウイエバ」
 ニトロがふと思い出したように言う。
「昼間ノ格好ハ何ダッタノ?」
 ガチャンと、芍薬は茶器をぶつけた。割れなかったのは幸いだった。
「え……とね?」
 芍薬は目を泳がせた。モニターの肖像シェイプの周りに汗が飛ぶ。珍しい芍薬の様子にニトロは忍び笑うように言った。
「牡丹カ百合花ユリノハナニデモヤラレタノカナッテ思ッタンダケド」
 図星である。
 芍薬の肖像に大きな汗が浮かぶ。
「芍薬?」
 促され、芍薬はしぶしぶ話し出した。
 そしてニトロは笑った。今日一番の大笑いだった。無理もない。彼の目にはアフロ頭のいただきにカンザシを突き刺した芍薬の姿が焼きついているのである。しかし笑い過ぎであった。始めはマスターが笑ってくれるならいいかと思っていた芍薬も次第に機嫌を損ねていき、とうとうコメカミに大きな怒りマークを表し、
「主様のバカ!」
 怒鳴られたニトロは己の失態に気づいたが、もう遅い。モニターから芍薬の姿は消えていた。ニトロがいくら呼んでも芍薬は戻ってこない。何を言っても応答がないから、しまいには彼も機嫌を損ねてしまった。
 その夜、ニトロは久しぶりに自分で就寝前のハーブティーを淹れた。独りで静寂の中でそれを飲み、黙々と茶器を洗い、無言でベッドに入った。
 芍薬もニトロに「おやすみ」と言わなかった。
 何度も何度も寝返りを打った後、ニトロはやっと眠った。
 彼の胸の内は、その姿を見つめていた芍薬には想像することしか出来ない。そして想像したところで、それは、そうだ、百合花の言った通り自己満足に過ぎないだろう。
 それでも芍薬は思う。
 朝にはちゃんと仲直りをしよう。きっと主様も、それを望んでいてくれるはずだから。
「……」
 芍薬はマスターの寝顔から電脳世界へと目を移した。
 そろそろ日付が変わる。
 一日が終わり、また一日が始まる。
 芍薬はカンザシに触れ、触れた手を胸に当て、ぐっと拳を握りこんだ。
「さあ、今日も張り切っていこうか」

←22-16へ
メニューへ