「――レク!」
 兄が叫んだ。
「レク! レク!」
 弟が悲鳴を上げた。
 二人共に、レクならこの事態を何とかしてくれると信じているようであった。実際、信じていた。少なくともこの最悪の事態からレクこそは我らを救ってくれるだろうと信じ切っていた。しかし、
「ゴメンサァァイィィ、モウ捕マッチャッテマシタァァァァ」
 カメラを構えたままの姿勢で、ただ涙に濡れた声だけがアンドロイドの発声装置を震わせる。
 その言葉を聞いた時、既に凍りついていた兄弟の血が、さらに温度の下がるあまりに蒸発してしまった。二人は気を失い、その場で尻餅を突いた。しかし惨いことにその痛みが兄弟を覚醒させた。アンドロイドを見上げる形で地に座り込んだ二人は、慌てて周囲を見回した。
 気がつけば、何やら恐ろしい雰囲気を備えた男女が数人、少し離れたところで兄弟の退路を断つように佇んでいる。見るからに鍛えられた人達だ。その男女が並び立つ距離を結界にして、さらにその外側には騒ぎを聞きつけたらしい買い物客が集まり出している。
 逃げ道のないことを悟った二人は蒼白になった顔をゆっくりとそちらへ振り向けた。
 腕を組み、高級車のボンネットに無造作に腰掛けて、王女が、じっとこちらを見つめていた。その隣に立つスレンダーな美女の双眸が僅かに輝いて見えるのは、よもや我が身我が心が恐怖に圧されて狂気へ踏み込みつつあるからだろうか。
「あ、あの……」
 兄は何かを言おうとし、そこで自分が包丁を握ったままであることに気がついた。を握る手がひどく硬直している。己の手であるというのに、石と思えた。
 死。
 それを彼は突如として目と鼻の先に見た。
 退路を断つ男女は護衛に決まっていて、その身には人の命を容易に奪える武器があるに決まっている。それなのに、王女の前でこんな刃物をひけらかすなど!
「ああ、あああ」
 うめきながら兄は必死に手を開こうとした。しかし意のままにならない。彼は左手で固まった右手を、その指を一本ずつ必死に剥がしていった。弟がそれに気づいて手伝い、やっと放り出すことのできた包丁が硬い地面に落ちて大きな音を立てる。その音に、思わず二人は悲鳴を上げてしまう。
 二人は互いに抱き合うようにして王女を見つめた。
 畏れと敬意とを目に一杯に込めて、王女を見上げた。
 すると、それまでじっと兄弟を見つめるだけだった王女が、ふいに言った。
「続けなさい」
 一瞬、何を言われたのか、兄弟には理解できなかった。
 たっぷり三十秒ほどかかって――それは拷問のようであった――兄は理解した。
「え?」
 と、うめく。
 王女は、兄を見るでもなく、弟を見るでもなく、しかしじっと二人を見下している。
 兄のトルズクは完全に理解していた。
 王女は続けろと言う。
 何を?
 先ほどのことだ。
 どんなこと?
 強盗である!
 彼は絶望に満ちた。頭を抱えられるのなら抱えたかった。
 嗚呼! きっと王女はこれが『冗談』だとご存知あそばされないのだ!
 それなのに、それを「続けろ」と仰られる。
 流石は『クレイジー・プリンセス』であらせられる。
 そこまで思った時、兄のトルズクはふと絶望で真っ暗になっていた心に一筋の光明が射すのを感じた。
 そう、流石は『クレイジー・プリンセス』。
 その『クレイジー・プリンセス』は、面白いことが大好きでいらっしゃる。
 そうだ!
 最後に「な〜んちゃって!」と。これは全て『演技』だったのだと明かしたら。どうだろう? この恐ろしくも親しみ溢れる王女様はきっとお喜びくださるに違いない!
 彼は見出した希望に縋った。
 そうだ、そうに違いない。
 彼は這うようにして捨てた万能包丁を再び手に握った。万能だ、そうだ、俺は万能だ、やがてビッグになる、弟のヒーローなのだ!
「か、金を出せぇ!」
 懸命に声を振り絞り、彼は言った。
 弟のトルズクが息を飲む。
 兄は弟に決死の眼差しを送った。その目を見て、弟は兄に命を預けた。
「た、たすけてぇええ」
 勇気を振り絞り、蚊の鳴くような声を絞り出し、弟は兄に従う。兄は弟の姿に涙を浮かべ、そして手が白くなるほど包丁の柄を握りこみ、切っ先を人質の首に差し向ける。
「早く、金を、寄越せ! でないとこいつの、首を掻き切っちまうぞ!」
 がたがたと震える足を叱咤して立ち上がり、勇気を出したところで立つことまでは適わぬ弟を引きずりながら、兄は王女へと一歩近づく。
「いいのか!? こいつが死んじまっても! ほ、本当に、殺しちまうんだからな!」
 包丁を振り回し、真っ白な顔で目を真っ赤にして叫ぶ。
 王女は何も言わない。
 兄は当惑を押し殺して叫ぶ。
「ど、どうした! いいのか!? い、いいんだな!? 早く金を出さないと、でないとおま、お、お前のせいだぞお!?」
 やっと三歩進んだ。
「お、おおおい! おおい!」
 ハロルド・トルズクは大声で呼びかける。
 それでも王女は何も言わない。何の反応も示さない。ただ腕を組み、ただじっと見つめ、そして微動だにしない。
「ああ、あああ、ああああああああ!」
 兄は叫んだ。続けて何かを早口でまくし立てるが、それはもう意味の分からない金切り声でしかなかった。兄のセリフに合いの手を入れるように助けを求め続けていた弟は乾き切った唇を、もう動かせない。
 小さな四歩目で、兄のトルズクも言葉を失った。
 もう半歩だけ進む。
 あと少しで王女の足元に辿り着く。
 しかし、もう動けない。
 兄弟は王女を見つめた。
 王女は彼らを見つめている。
 ハロルド・トルズクは何かを言おうとしたが、やはり言葉は出てこない。喉笛を素通りした空気が無意味に漏れる。
 完全に意気阻喪した兄弟は、そのままよろめいて倒れられたらどんなに楽だったであろう。王女の眼差しに耐え切れず意識が朦朧としかけた時、
「続けなさい」
 ふいに、王女がまたも言った。
 はっと兄弟の意識が戻る。
 その拍子に兄弟は気づいた。
 王女の瞳は鋭い刃を示している。
 鋭い刃を示して、その魔物のように美しい女は「続けろ」と言っている。
 ……何を、続けろというのだ?
 決まっている。
 それはもう決まっていた!
 全てを悟った兄のトルズクは、王女へ救いを求める眼差しを向けた。眼のみならず体全体で慈悲を乞うた。
 しかし王女は無言でそれだけを示している。
 兄の体が震えた。硬直した右手から落ちることのない万能の刃が光を反射してきらきらと光った。
 周囲に集まっていた野次馬達も、事情は理解できずともその異常さは理解できていた。ただの一人も声を発さない。その沈黙がまたハロルド・トルズクの心を押し潰し、彼の魂に爪を立てる。兄は弟を見た。この刃で、弟を刺せというのか? 重要なのは行為である。小事を成すにも万事を捨てねばならない。だが、この俺がこの弟を刺すのか? 何故? 何のために? 一体どうして? 決まっている、自分がそう言ったからだ。王女は何も命じたわけではない。ただ続けろと言っているだけだ。続けることそのものは我らの意図したものである。だがそれを行為してどうしろというのだ? どうなるのだ? 何をなそうとしていたのだ? 『常に問い、常に解かんと欲し、常に望まずして希求せよ。してまた常に行うべし』――行うべし?
 眼前に立つ王女がどんどん大きくなっていく。
 一方、己の体は際限なく小さくなっていく。暴かれた虚構の下から肥大化した自意識が現れて、空気に晒された肥肉はすぐさまひび割れて、音も無く一つ一つ崩れ去り、あっという間に蚤のように小さくなっていく。
 空から、声が降ってくる。
「続けなさい」
 常に無感情に繰り返される王女の言葉に、ハロルド・トルズクの体は雷に打たれたように激しく硬直した。彼は人間のものとも思えぬ悲鳴を上げた。
 そして彼は頭から倒れこみ、地に伏した。
「兄ちゃん!」
 弟が兄に寄り添おうとする。兄はそれを左手で跳ね除け、硬直して動かせない右手を何度も地に叩きつけることで握り込んでいた包丁を何とか捨て去り、膝を折り、そして何も持たぬ左手を、ぼろぼろになった右手を、揃って天に掲げた。アデムメデスにおいて最も恥辱を伴う『屈服の伏礼』を以てハロルド・トルズクは願った。
「お許しください!」
 涙を流して彼は叫ぶ。
「お許しくださいませ! ティディア様! どうか、どうか!」
 慌てて弟も同じ礼を取った。
「お許しくださいませ!」
 金切り声で兄に倣う。それを塗り潰すように兄が叫ぶ。喉が破れて血の噴き出んばかりに、例え蚤より小さかろうとも失えぬ最後の一粒が彼に叫ばせる。
「これは全て私の犯した罪でございます! 弟とレクは私に唆された憐れな者達でございます! 私はどんな罰も受けます! 何でもいたします! どうかお許しくださいませ! どうかお慈悲を下さいませ! ティディア様! 『我等が母』とならん偉大なる王女よ、神の眷族たる姫君よ、その寛大なる御心によって、どうか!」
 兄と同じようなことを弟も述べ立てるが、それは言葉ではなくただの泣き声だった。
 アンドロイドの喉の奥からも細い音が鳴る。それが意味するところを、この場においては王女の執事のみが聞いた。だがその意味も、額を地に擦りつける男の言と何ら変わりはない。
 しばし、沈黙が続いた。
 兄弟もA.I.ももう何も願わず、王女の裁決を待っている。
 やがて王女は言った。
「続けなさい」
 ハロルド・トルズクは顔を振り上げた。
 そこには我を忘れた憤怒が垣間見えていた。
 しかし、その憤怒は一瞬にして掻き消えた。蝋燭の火が一息で吹き消されるように潰されてしまった。彼は王女の静かな瞳に、極寒の吹雪すら生温く、深海の底ですらまだ浅い、己には到底理解することのできない魔性を認めたのである。その魔性はこちらのことなど何も思っていない。――何も無い。その魔性はこちらを目にしているのに、彼女が見ているのは『無』だ。何も無い。何も無い。何も、ああ、俺は、無なのだ
 ハロルド・トルズクの目は見開かれた。
 見開かれたまま、乾き切った。
 それを見て弟は兄の腕に縋った。縋る相手に力は残っていなかった。弟は兄にしがみつき、しがみつくことで兄の崩れ落ちることを防ぎ、そうして声も無く泣いた。もしその重みがなかったとすれば、虚に侵された男は、ふいにあらゆる光を恐れ、特に太陽の光に己の存在を照らし出されることを恐れて走り出し、そのまま絶対に光の届かぬ場所を求めて暗闇へと身を投げていたかもしれない。
 王女は執事に一瞥をくれ、車内に戻った。
 それと同時に周囲にいた護衛達が執事の元に集まってくる。執事が口早く命令を下すと、すぐさま護衛達はトルズク兄弟を抱えるようにして一台の大きなファミリーカーへと連れて行き、その中へ押し込んだ。
 執事が運転席に戻り、王女を乗せたその車のヘッドライトが点き、緩慢に動き出す。
 車線に残っていたアンドロイドが、まるで石像が動き出したかの様子で道を開けた。
 車はアンドロイドの横まで来ると静かに止まった。
 音もなく助手席の窓が開く。
 アンドロイドは何も言わず、ただ今も動き続けているカメラを渡した。
 それを受け取ったティディアは猛烈に不機嫌に、そのアンドロイドの美しく潤む人工眼球をじっと見据えた。だが、アンドロイドの唇は石像よりも固い。
 再び車が動き出す。
 護衛が二人先導に立ち、気がつけば凄まじい数となり、しかもやっと騒ぎ出した野次馬達に道を開けるよう声を張り上げた。道は容易に開いた。現在の『クレイジー・プリンセス』の機嫌を損ねるのは得策ではないと、どんな愚か者であろうとも心の底から理解していたのである。
 王女の車に続いてトルズク兄弟を乗せた車も走り去っていく。
 そして、アンドロイドだけがその場に取り残された。

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