「キマシタ!」
 立体駐車場の一画。車を誘導する順路からして死角になる壁の裏に隠れるトルズク兄弟の下に戻ってくるや、低音量に絞った声で、しかし興奮は隠さず両手を振りながらアンドロイド――レクは言った。
「キマシタ、キマシタ! ニトロ・ポルカトノ乗ッタ車デス! 間違イナイデス!」
「よぉーし」
 兄のトルズクが大きく息を吸う。弟のトルズクは大きく丸い体を小さく丸めて小刻みに呼吸をしていた。過呼吸になりそうな勢いである。
「大丈夫か、弟よ」
 心配そうに兄が問うと、金髪ロングのカツラを被った弟は何度もうなずいた。その顔はレクによって綺麗にメイクがされている。汗に強い化粧品が使われているにも関わらず、それは早くも崩れ出しそうな有様である。碧い目も興奮のために潤ませて、弟は兄の落ち着いた暗緑色の瞳に縋るように言う。
「だだだ、大丈夫かなあ、兄ちゃん」
「大丈夫だ、なあ、レクよ」
 ここに来ても兄は堂々としたものである。彼に問われたアンドロイドは足元の鞄からビデオカメラを取り出し、生中継の準備を進めながらふっくらとした唇で笑顔を刻む。
「ハイ! 成功確率ハ現在モグングン上昇中デス! 我ラガ正義ノ報道チャンネルヘノアクセス数モガンガン上昇中! 『前説』モ大好評! 最高デス!」
「ほら、レクもこう言っている。そして俺も言おう。俺達は絶対成功する!」
 思わず声が高くなり、それが壁に響く。通りがかった客が不思議そうにこちらを見るのを兄が目で追い払う。その男性客は威嚇する兄の目つきよりも女装した弟の恐慌迫る様子に驚いて、慌てて目をそらすと足早に通り過ぎていく。
「アト30秒デス!」
 目前の車線の先に、二つの灯りが見えた。夕刻。立体駐車場の中は外よりも早く夜の中へと歩を進めており、屋根の低い層の重なる箱型施設の内側は陽光と人光とが互いを打ち消しあう逢魔ヶ時の薄暗さ、かつその車の進んでくる方向はちょうど落日の線上に位置していて、天井と外壁の隙間からは強烈な斜光が差し込んできている、ただでさえ視界を弱らす薄暗さに逆光が加わり、その車に誰が乗っているのか兄弟には確認出来ない。眩いヘッドライトと、それらを前面に据える輪郭だけが黒々と見える。しかしそれが何の問題になることもない。その車に奴が乗っているとレクが言うのだから間違いはない。兄は一度大きく息を吸い、ふっと鋭く吐いて気合を入れる。
「弟よ、あとは行うのみだ。行うのみなのだ。大丈夫だ、お前はやれる、俺もやれる、レクは当然だ。『行為こそが重要』と聖典にもあるだろう」
「『国造りの章 5−1』――うん、うん、やるよ、兄ちゃん、僕もやるよ」
「アト15秒」
 エンジンの音がそこかしこで反響している。タイヤの地を擦る音がここかしこに反響している。
「神よ、我らに恵みのあらんことを」
 兄が祈りながら、足元の鞄の中から万能包丁を取り出す。
「神よ、我らに慈悲を与えたまえ」
 弟も祈りながら、ぐっと背筋を伸ばす。
「アト5秒」
 カメラを構え、兄弟の武運を祈りながらレクは数える。
「4、3、2、
 1」
 兄弟は揃って車線に飛び出した。
 兄弟はちゃんと考えている。轢かれたら大変だ。だから飛び出したのは車が余裕を持って止まれる距離を保ってのこと。その車は、急ブレーキをかけることもなく止まった。
 そして、
「ぎゃーーー!!」
 兄に腕を捻り上げられて(いるように見せて)弟がけたたましく甲高い悲鳴を上げた。
「タた助ケてーぇええ!」
 必死に声を裏返して叫び、弟は膝丈のスカートから抜き出す太い足をばたばたと動かし車へと歩み寄っていく。恐怖に怯えているように見せるため髪を振り乱し、振り乱しすぎてちょっとカツラがずれていることにも気づかない。それを逃がさぬよう腕を絞り上げ(ているように見せて)兄が声を張り上げる。
「おらぁ! 出て来いこのヤロウ!」
 真新しい万能包丁をヘッドライトにきらめかせ、彼は弟と共に車へ向かっていく。ライトは威嚇するようにハイビームになっていた。それが逆光と合わさって目を射るように眩しく、さらにフロントガラスには天井の照明が反射しているため車内の人間の姿はまだ見えない。だが、彼はそこに座っているのは『ニトロ・ポルカト』であると確信していた。近づくに連れて明らかになる。羨ましくてならない高級車、目の暗む眩しさの中でも分かるほど美しく磨かれたボンネット。彼の中で、彼も知らず、何かに火がついた。本来手に入れているはずなのに手に入れられていないものを前にして、彼は怒号を上げた。
「出て来いッつってんだろうがバカヤロウ!」
 兄弟は考えていた。
 さて、『スライレンドの救世主』を試すには一体どのようなシナリオが最善だろう?
 兄弟は“悪漢に襲われる女性”をスタート地点に熟考を繰り返し――計画そのものには手心を加えず、ただ聴くばかりだった芍薬は呆れる他なかったのだが――話は最終的には『強盗と人質にされた女性』という狂言としてはさらに犯罪性の増した路線で纏められていた。
 兄は獰猛に叫ぶ。
「この女がどうなってもいいのかこのクソヤロウ!」
 演じているうちに本当に悪漢になったかのような高揚感を覚え、兄はバンパーを思い切り足蹴にした。その衝撃に車が小さく揺れる。それに彼はまた興奮し、とにかく悲鳴を上げ続けるおとうとを乱暴に引き寄せ、ナイフよりもずっと大きな包丁をぷらぷら弄びながらその切っ先を乱れた金髪へと近づける。間違いなく切れる刃物を不用意に身に寄せられて、演技だと解っていても弟の悲鳴が真に迫る。
 レクは物陰から、陰に紛れてビデオカメラを回し続けていた。
 兄は思う。そのカメラに車から誰も出てこないという“真実”を捉えたら、その時は『スライレンドの救世主』が死ぬ時である。もし出てきたら、さあ、生中継を見ている諸君、ひとまずは喝采で彼を迎えてやってくれ!
「おら出て来いよニトロ・ポルカトぉ!」
 その名を叫び、再び兄はバンパーを蹴る。
 と、その時、運転席のドアが開いた。
 兄はいくばくかの驚きと、そして隠せぬ感心のため小さく声を上げた。弟はここぞとばかりに大きなだみ声で助けを求める。そこで兄は慌ててその声に負けぬよう声を張り上げる。
「おお、やっと出てきたかニトロ・ポルカト! 金を寄越せよ! でねぇとこの女の首を切っちまうぞ!」
 と、助手席のドアも開いた。
 それに兄弟は恐ろしく驚いた。
 運転席のドアが開き、そして助手席のドアも開いた……つまり、二人?
「ああ、そうか、聞いたことがあるぞ、噂のA.I.か、シャクアクとか言ったか? アンドロイドだな、おうし、お前は出てくるな!」
 ぶんぶんと包丁を振り回して兄は叫ぶ。隠せぬ怯えが顔に表れている。これは想定外。『スライレンドの救世主』にならともかく機械人形シャクアクにやられたら何にもならない。
 だが、相手は聞く耳を持たなかった。運転席からすらりとした人影が現れ、次いで、助手席からは異様な存在感が現れる。
 兄弟は、思わず、あとずさっていた。
 その存在に何を理解するまでもなく三歩、五歩と退いてしまっていた。
 しかしはっと気を取り直した兄はぐっと留まり、さらに下がろうとする弟を押し止め、熱くなった頭を朦朧とさせながら虚勢を絞り上げる。
「おお、おお、出てきたなこのヤロウ! 金は持ってるだろうな!」
 そう言って兄は包丁を勢いよく人質の喉に突きつける。人質は悲鳴を上げる。その刃が皮膚に触れていないのは奇跡的なことかもしれなかった。それほど兄は興奮していた。兄の熱く荒い吐息に弟は不安になる。演技のために流れていた汗に冷たいものが混じる。
「金をよこさねぇと本当に殺すぞ! それ以上近づくな! 止まれ!」
 声をかすらせ“強盗”が必死に叫ぶのを平然と聞きながら、落陽を背負った二人がそれぞれヘッドライトの後ろから歩み出てこようとする。相手が『ニトロ・ポルカト』とそのオリジナルA.I.だと思い込む兄弟は未だ気づかない。二つの人影が逆光の陰からライトの光に溶け、また人影となって眼前に現れる。
「止まれって言ってんだろこのや――ろう?」
 叫び続けていた兄が、ふいに、語尾を呆けたようにぼやけさせた。ヘッドライトが消えて、人影が人間となる。
「あれ?」
 と、思わず弟も演技と不安を一瞬にして忘れて目を丸くする。
 兄弟はやっと気づいた。
 車内から歩み出て来た二人は、どちらも女だった。ヘッドライトが消えてなお未だ沈まぬ太陽の光陰に紛れているが、だからとて見紛うはずもない。片方は全身黒尽くめのスレンダーな美女で、もう片方は短いジャケットとシャツの裾から実に情欲をそそる腰のくびれを覗かせている。白い肌に影を作るのはへそのくぼみで、それがまたなまめかしい。悪漢役をやっていながらも、いや、だからこそ、頭に血の昇った兄はその色香に抗いようもなく目を釘付けにされた。サングラスをかけたその女はすこぶる上玉だった。そしてその女は、ひどく不機嫌に唇を歪ませていた。彼女はひどく気だるげにサングラスを取り――
「「あ!」」
 その瞬間、兄弟は揃って驚愕の声を上げた。
 全身の血液が一瞬にして凍りつく。何故レクの言った通り『ニトロ・ポルカト』は現れず、全く違った人物が車から現れたのかという疑問を抱く暇もない。全身を駆け巡っていたアドレナリンは霧散し、もはや演技も何もない、全て虚構が完全に消滅する。
「「ティディア様!!?」」
 その尊顔が影に紛れていようと、それこそ見紛うはずもない。
 立体駐車場の明かりの下、太陽光を背負って立つのはこのくにの第一王位継承者――『クレイジー・プリンセス』ことティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナその人であった。
「「え、え、え?」」
 兄弟はすっかり慄き、膝を震わせ、後ろへ、後ろへと歩を進めていた。逃げようとしているのではない。膝が萎えて尻餅をつきそうになるのを互いに支えあっているうちに自然と後退してしまっているのだ。だが、しばらくすると兄弟はやっと『逃げる』という発想に辿り着いた。なのに逃げ出せない。二人の目は影の中に閃く蠱惑の美女の眼光に魂ごと吸い付けられ、顔を背けることすらできない。
 冷たい眼差しが兄弟に注がれていた。
 極寒の地の吹雪すら生温い眼差しが、兄弟の心を縛り付けていた。
 ふいに、ドン、と、兄弟は背に何かが当たったのを感じた。それは王女の眼差しに支配される世界で幻のように思えたが、違う、現実であった。その衝撃が半ば気絶しかかっていた兄弟の意識を呼び戻し、その勢いでやっと背後へ振り返った兄弟はまた「「あ」」と声を上げた。
 兄弟の背にいたのは、ビデオカメラを構えるパンツスーツ姿のアンドロイドであった。

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