「気ニ入ッタノカイ?」
そのプリントTシャツは芍薬のプランにはないものだった。ニトロは白いシャツに猛々しいフォントで書かれた一文を見つめ、
「これ、何語?」
「――東大陸ノ『クレプス-ゼルロン山脈』辺リノ古イ文字、ソノ言葉」
「あ、じゃあアデムメデス語か」
「一応ネ。デモモウ文献ノ中ダケノ言語ダヨ」
「そっか。意味は?」
「『肉ヲヨコセ、肉コソ命』」
「そりゃ物騒な」
文の下には臨戦態勢の肉食獣がデザインされている。
しばらく眺めた後、ニトロはそれを丁寧に棚に戻した。
「買ワナイノカイ?」
「うん」
「ジムニ着テイケバイイノニ」
「それを考えてたんだ」
ニトロは笑い、その言葉に芍薬は笑う。
「でも、意味を知られたら曲解されそうで怖いや」
「マドネル殿ニ?」
「マッスルを輝かせて握手を求められるかもね」
芍薬は笑い、その明るい笑い声にニトロも声を潜めて笑う。
試着室に空きができていた。ニトロはそちらに向かった。試着室前にいた店員が彼を案内する。――と、奥の試着室から何やら言い合う声が聞こえた。どうやら、A.I.と意見を戦わせている者がいる。痩せるとか、絶対とか、今度こそとか切れ切れに言葉が届いてくる。ニトロは思わず笑みそうになるが、店員は慌ててそちらに向かった。
「お客様――」
店員が客に言葉をかけている後ろで、ニトロは試着室に入る。彼がカーテンを閉めたところで芍薬が言った。
「トコロデ主様。ジムデ思イ出シタケド、コレ以上筋肉ヲ大キクスル気カイ?」
ニトロは学校で制服から着替えてきたデニムシャツを脱ぎ、大きな姿見を見つめた。彼は狭い室内に一人きりで立つ己の鏡像を見て、少し考え、
「たまにそういうことを考えたこともあるけれど」
おかしそうに笑い、シャツをハンガーに掛けながら彼は言う。
「でも、俺が目指したいのはマドネルさんじゃなくて、やっぱりハラキリだからね」
芍薬は――密かに安堵しながら――目を細めた。
「承諾。ソレジャア、トレーニング内容ヲ変更スルヨウ伝エテオクネ」
「変更しなきゃいけないところがあった?」
「筋力強化ノトコロ。特ニ制限ガカカッテナイカラ、コノママダトヤルダケヤッチャウヨウニナッテル」
「ああ、そういえば」
「多分、最低限必要ナダケツイタラ、ソノ後ドウスルカッテ確認シテクルツモリダッタンダロウケドネ、ハラキリ殿モ忘レテルノカ、ソレトモ面白イカラ気ヅクマデ黙ッテイヨウッテ思ッテルンジャナイカナ」
「後者だろうね」
「御意」
ニトロは笑い、芍薬もまた笑った。――あまり笑えることではないが。
……そして、笑えることではないのがもう一つ。
ショッピングセンターのもうすぐ傍まで、その車はやってきていた。
例の兄弟は既にショッピングセンターの立体駐車場で待機している。
現在、夕方の買い物客とディナータイムの客とが混じり合い、全階でほぼ満車状態のその立体駐車場には電灯の交換作業中ということで使用不可とされるスペースが一つあった。そこには一応脚立などの道具が置かれているものの、一向に作業の始まる気配はない。そのスペースは、ある人物のために“予約”された空間なのだ。
その状況を確認し、また監視し続けているのは、一機の女性型アンドロイドである。兄のトルズクがさらに借金を重ねてレンタルしてきた高級機で、操縦しているのは当然オリジナルA.I.のレクだ。兄は『
一方、兄がアンドロイドを借りてくる間、弟のトルズクはなけなしの貯金を全額下ろしてくると、やはりこのショッピングセンターで彼らの計画に必要なビデオカメラや女装セットを用意して回った。彼は万事計画通りに行動していたのだが、その中で一つだけ例外があった。キッチングッズストアで万能包丁を購入したのである。計画通りにナイフではなく、急遽こちらに変更したのは万能という響きが弟の心を打ったからであった。これこそ兄に相応しい!――と。それを聞いた兄は喜んで梱包を解いたものである。
兄弟がそれぞれに活動する間、レクも溌剌として働き続けていた。スーツを買わんとする兄には的確にサイズを伝え、諸々のアイテム、特に全く知識のない化粧品を揃えようという弟にも的確に助言を与える。その言葉は正確無比で、常に敢然としていた。
兄弟はいつにも増して優秀なレクの働きに感動していた。
マスター達に誉められてレクはもはや有頂天だ。
しかし、レクは知らない。知ることを禁じられていることも知らない。兄弟がそれぞれ『ニトロ・ポルカト』とすれ違っていたことを。そして今も同じアンドロイドの中、己のすぐ傍らに、もう一人のオリジナルA.I.が佇んでいることを。
その車が、ショッピングセンターの駐車場入口に差しかかる。
ニトロは新しいサマージャケットを試着して、ご満悦だった。確かにサイズは一つ上でちょうどいい。下ではきつ過ぎた肩幅が、こちらではまさにジャストだ。生地とデザインの風合いも良い。しかも、何より自分の体形が変わったためだろうか、以前よりよく似合っているように思える。新調してばかりのスーツや、作りにゆとりのある制服では自覚し得なかったトレーニングの成果を実感する。彼は実にご満悦であった。
「主様」
そこに、芍薬は水を差した。ニトロから見て鏡の中に姿を表し、
「バカガ来タ」
ニトロの顔が一気に冷める。
「今どこに?」
「駐車場」
「
「
「逃げられる見込みは」
芍薬は、一方で黙し、ここでは言う。
「有ル」
「じゃあ逃げよう。どうせ後で会うんだ」
急いでジャケットを脱ぎ、ニトロは言う。しかしまた芍薬は水を差す。
「ソレヲ買ッテ行ク余裕モアルヨ」
「え?」
意外そうにニトロは目を丸くして芍薬を見る。伊達メガネの中で、鏡の向こう側から、芍薬は彼から贈られたカンザシを煌かせる。
「大丈夫、チャント誘導スルカラ。ソレニ挙動不審ニナッタラ正体ガバレチャウカモシレナイ。ソウナッタラ逃ゲラレナイ」
それは筋の通ることだ。ニトロはうなずく。
「裾上ゲ中ノダケハ配送シテモラウヨ。別料金ガカカッチャウケド――」
それは仕方がない。ニトロは芍薬に許可を出し(芍薬はその料金は自分の小遣いから出すことにした)、それから素早く元の服を着ると外に出た。
「お決まりですか」
店員がいそいそと満面の笑みで問いかけてくる。ニトロは少しうつむき、帽子の影に顔を隠しつつも口元には愛想の良い笑みを浮かべる。
「こちらは戻したいんですが」
店員は示されたジャケットを回収しながら嬉しげに、
「では、こちらはお買い上げですね」
そう言う様子があんまり嬉しそうだから、ニトロもつられて嬉しくなって、思わず通常の声で答えてしまう。
「はい、お願いします」
「ありがとうございます。それではこちらでお会計をお願いいたします」
幸い、それだけで正体がバレることはなかった。ニトロからカゴを引き取った店員はいそいそと彼をカウンターへ連れて行く。道すがらメンバーズアプリのことなどを聞いてくるが、ニトロは一連のビジネストークを適切にやり過ごす。
そのやり取りを聞きながら、芍薬は“主意識”を立体駐車場へと移動させていった。