ニトロは憂鬱だった。
 この後ティディアと衣装合わせをしなければならないことが、憂鬱でならなかった。
 しかもその場所は王城近くのブランドショップ、それも王家の運営するアパレル会社の三号店である。つまり敵地だ。そこで舞台用のスーツを試着するわけだが、そのスーツも夏に向けて販売促進されている新しいラインナップからと既に決められている。ティディアは昔からある、最近ちょっと売り上げの下がったクラシカルな男物のスーツを着る。良い宣伝になることだろう。つまり利敵行為である。
 しかし、それらはまだいい。
 それにも増して歯痒いのは、これがあのバカにとっては一種のデートであるということだ。嬉々としてあれこれと着せ替えてくるだろう。スーツだけで済むはずがない。シャツもある。ネクタイも選ぶだろう。ネクタイピンや靴、果ては下着類まで同ブランドで新調させてくるはずだ。さらに奴は間違いなく試しにネクタイを自分に結ばせろと言い出す。必要以上に顔を近づけて、あわよくばそれ以上を狙ってくるだろう。ああ、考えただけでも鬱陶しい。彼は心底憂鬱でならない。――とはいえ、その憂鬱も、今は押し殺せていた。
「コレナンカドウダイ?」
 カジュアルなサマージャケットの並ぶコーナーを背にして立つ芍薬が楽しげに言ってくる。その明るい声はニトロが片耳につけたイヤホンを通して聞こえるもので、165cmに整えられた肖像シェイプのその涼しげなユカタ姿も、彼の伊達メガネが現実世界と重ねて見せる映像である。芍薬はすらりとした手で己の横を示していた。そこにはニトロの体形を反映した3Dモデル――顔のディティールなどは省略されたマネキンがある。芍薬は背後のハンガーラックから実際に一着取り出すようにデータを引き出して、さっとマネキンに着せて見せる。
「ホラ、似合ウヨ」
 なるほど、と、ニトロは思った。先ほどコットンパンツを買った店にもちょっと良いサマージャケットがあったのに、芍薬が購入を待つよう言っていた理由に合点がいく。が、彼は気を惹かれつつもコーナーの上にポップアップされている値段を見て眉を曇らせた。意図的にもごつかせた小声で、彼は言う。
「う〜ん、でも、ちょっと高いかな」
 すると芍薬は切れ長の目を柔らかく細め、
「品質ヲ考エタラ相応ダヨ」
「さっきのは?」
「断然コッチ。カエッテ得ダヨ」
「うーん」
 そう言われたら確かめなくてはならない。ニトロがハンガーラックに近づくに連れ、その前に姿を表示していた芍薬は本当に“そこにいる”かのように身を退かせた。赤い鼻緒のゾーリが軽やかに床に擦れる音が、店内の賑やかな音に混ざって耳にそっと触れた気がする。現実に溶け込む仮想世界に立つ芍薬の傍らで、仮想を内包する現実世界に立つニトロは、サマージャケットの生地にそっと手を触れる。
「なるほど」
 触れるや否や小さくつぶやき、彼はぐっと身を寄せ商品をじっくり眺め出した。そして心を惹かれた色の――それは芍薬が目をつけていたものでもある――ジャケットをハンガーラックから抜き出して、前後のデザインを改めて確認し、裏地にも目を通す。
「ボトムスは何でも合いそうだね」
 ニトロがそう言うと、芍薬は彼の視界の奥に適当な大きさのウィンドウを表し、そこで3Dマネキンのコーディネートを変えてみせた。ジャケットはニトロの手にしたものに固定し、ボトムスは現在所有しているものを次々と表示していく。最後に先ほど別の店で買い、今は裾上げをしてもらっているコットンパンツが映ったところで、
「うん」
 ニトロはうなずき、手近にあった買い物カゴを取り、それにジャケットを入れた。と、そこで芍薬が言う。
「モウ一ツ上ノサイズデ試シテミテ」
「あれ、このサイズじゃ入らない?」
 この店のジャケットはSやL表記で、細かく分かれてはいない。そこでいつものサイズを手に取ったのだが……
「ココノハチョット小サメニ作ラレテルンダ」
 ニトロはタグを見る。そこに記されている胸囲などを見て、多少小さめに作られているとしても去年はこの範囲で収まっていたと怪訝な顔をする。
「そんなに体型変わったかな」
「キット実感スルヨ」
「そっか……袖丈とかは?」
「ムシロチョウド」
 ニトロはうなずき、提示されたサイズのものを一着カゴに放り込む。先にカゴに入れたものもそのまま持っていくことにした。芍薬の言葉を疑うわけではないが、
「折角だから着比べてみるよ」
 そう言うと、どこか嬉しげに芍薬はポニーテールを揺らした。ニトロは深めに被った帽子の下から試着室へと視線を送る。――満室だった。少し待ちそうなので、空きが出るまでTシャツでも見ていようと踵を返す。と、芍薬の姿が視界から消えた。だが、ニトロには背後についてくる芍薬の気配が感じられる気がした。
「マスターニハコチラガ最適ト存ジマス」
 店内をぶらつくニトロの耳に、ふと、そんな言葉が届いた。
 ちらりと見れば、ポロシャツのコーナーで若い男が彼のA.I.と相談していた。彼が手にするモバイルの上には秘書然とした女性ホログラムが浮かんでいる。あるCG製作会社が販売している人気のA.I.用肖像シェイプだ。どこか無機質ながらも品の良い語り口で秘書はマスターの3Dモデルにポロシャツを着せ、他の服とも様々に組み合わせながらマスターに勧めていく。男は難しい顔でひたすらそれを見つめ、眼前の実物は見ていない。秘書は説明を終えるとマスターの返答を待って押し黙った。そのA.I.が『オリジナル』と『汎用』のどちらであるのかはニトロには判断がつかない。しかし、芍薬にはそれが汎用A.I.だと感覚的に解っていた。
「オ嬢様ニハ、コノ赤ガオ似合イデスヨ」
 他方、男の横では若い女が執事姿のA.I.の言葉を聞いている。その肖像シェイプは最近人気の俳優に良く似ていた。こちらの女も立体映像ホログラムを見つめるばかりで実際に商品は見ていない。執事はパフ袖のシャツ――それは眼前のポロシャツのコーナーどころか、この店のどこにもない――を着たマスターの姿を甘く誉めそやす。女はご機嫌である。そのA.I.がかなり際どいジョーク、それも市販の汎用A.I.の倫理コードにはおそらく弾かれ、かつ親密な信頼関係がなければ通用しないジョークでマスターを笑わせているのを耳にして、ニトロにもその執事が『オリジナル』であることが解った。と、その時、若い男が女に、おいと声をかけた。どうやら執事のジョークが気に障ったらしい。男と女の間にいさかいが起こった。その断片から二人は恋人であると窺い知れる。途端に険悪になった二人に挟まれて、執事は可哀想なくらいうろたえていた。
 その様子を横目にニトロは通り過ぎていく。
「もうちょっと色の深いのがいいんだ」
 今度はニトロと同い年くらいの少年が無地のTシャツのコーナーでつぶやいていた。型の古い携帯電話モバイルでモスグリーンのシャツを映しながら彼のA.I.と相談している。音声は無かったが、その画面に変化があったようだ。
「わかった」
 彼はうなずくやモバイルをポケットに入れて歩き出す。その顔に失望がないのは別の店に望みの品があるのだろう。店から出て行くその少年とすれ違い、中学生くらいの少女が店に入ってくる。彼女は胸に小型犬――まるきり本物に見える機械動物アニマロイドを胸に抱き、まるでそれと散歩をしているような調子で歩を進めてくると、
「あ、あれカワイイ。似合うかな」
 目についた立体ホロポスターを目にして少女は言った。ブルーのホットパンツとピンクのシャツを着こなす十代のモデルがポーズを取っている。それを見て、彼女の胸に抱かれるアニマロイドが首を振り、
「ナシダフ」
 キャラクタライズされた語尾をつけ、小型犬の姿を借りたA.I.は断じた。
「うん、やっぱカワイクナイや」
 すると少女はA.I.の判定に何の疑問も挟まず意見を翻した。そうしてすぐに興味を別の場所に移し、やはり散歩をするような足取りでレディースコーナーの棚の間に消えていく。
「失礼」
 と、ふいに、プリントTシャツを見ていたニトロに背後から声がかけられた。驚いた彼はびくりと身を震わせ、慌てて振り返る。声をかけてきたのは中年男性だった。ニトロは男性の素振りで相手の意図に気がつき、すぐにその場から退いた。男性は不機嫌な様子でニトロが塞いでいた棚から彼には明らかに小さすぎるサイズのシャツを手に取り、それをじっと見た……というよりもメガネにじっと映し、やおらうなずくと、苛立った様子で通販がどうのとブツブツ言いながら去っていく。どうやら電話をしているらしい。眼鏡ウェアラブルか、あるいは埋め込み式インプランタブルフォンを通じているのだろう。男性は歩きながらハンガーに掛けられているリネンシャツを迷いなく手にし、そのまま試着もせずにレジへと向かう。僅かに耳に入ってきた内容からして、配送料を節約するため、ついでの用事として家族にでも頼まれたのだろう。
 ニトロは軽く視野を右に動かし、
「ちょっと驚いた」
 伊達メガネのフレーム内にすっと入り込んできた芍薬に小さく言った。隣に並んでいるかのように“そこにいる”芍薬は笑む。実際、芍薬も、緑色の目をしたマスターがその正体を見破られたかと思っていた。
 そしてまた芍薬は、人間とA.I.との様々な関係性が見られる店内の様子を見つめて物思いにも耽っていた。
 高校生ほどの少女が三人、花柄のシャツを見ながらわいわいと話し合っている。彼女らは彼女らだけで手にするシャツについて語り合っている。ただの冷やかしかもしれないが、もし購入するとしたら友達と自分の意見だけで買うだろうか? それともA.I.に――それがオリジナルにしろ汎用にしろ――判断を仰ぐだろうか。
 同じ店に一緒に服を選びに来ながら、先ほどの恋人達は全く別のものを見ていた。仲直りしたらしく今も一緒に歩いているが、それでも心は並んで歩いているのだろうか。
 改めてプリントTシャツを眺めていたニトロが、ある一つを手に取る。それをニトロのかける伊達メガネに備わるカメラを通して見て、芍薬は問う。

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