「デモ、兄チャン」
 おずおずと、弟が言う。
「デモネ、ソレデドウスルノ? ドウヤッテ確カメルノ? モシカシタラマタ捕マッチャウヨ。僕、兄チャンガ手錠ヲカケラレルノヲ見ルノ、モウヤダヨ」
「案ズルデナイ、弟ヨ。思イ出シテミルノダ、『ジェントルマン・ディンゴ』モ正義ヲナスタメニハ一時ノ恥ヲ厭イハシナカッタデハナイカ。ソウ、例エ捕マッタトシテモ、ソレハ『ディンゴ』ガソウデアッタヨウニ将来ビッグナ人間トナリヒーローヘ転身スルタメノ神ノ試練――」
「ウウン、兄チャン、ソレデモ嫌ダヨ」
「弟様……」
 おろおろとしてレクがつぶやく。しかし兄は鷹揚に言う。
「案ズルデナイ、弟ヨ」
 力強く続ける。
「策ハアル。オ前ヲ安心サセルタメニ、マズハ『確カメル手筈』ヲ語ロウ。ソレハオ前ガ女トナリ、俺ガ悪漢トナルノダ」
「エエ!?」
 弟が驚愕の声を上げる。突然女装を命じられればそれは驚くだろう……いや?
「ソンナ! 兄チャンガ悪漢ダナンテ! ソレナラ僕ガ!」
「駄目ダ!」
 今までで一番力のこもった声で兄が制する。弟は悲鳴にも似た声を出して押し黙る。
「案ズルナト言ッタダロウ?」
 そして今までで一番優しい声で、兄は言う。
「悪漢ハ卑劣ニモナイフヲ振ルウ。演ジナガラ、誤レバ己ガ身ヲ切ッテシマウコトモアルダロウ。家デモオ前ニ刃物ヲ持タセタコトハナイデハナイカ。ソレナノニ、ソンナ危険ナ役ヲオ前ニ任セルコトハデキナイ」
「デモ……」
「分カッテイル。『ニトロ・ポルカト』ガ本当ニ勇敢デアレバ、襲ワレル美女ヲ助ケズニハイラレナイダロウ。逆ニ勇敢デナケレバ、警察ナリナンナリ、助ケガ来ルマデナイフニ怯エテガタガタ震エルコトダロウ。ドチラニセヨ悪漢ハ誰カカラ攻撃ヲ受ケルコトニナル。コレモアッテヤハリオ前ニコノ役ヲヤラセルワケニハイカナイノダ。ソシテドチラニセヨ、俺ハ最後ニハ捕マルダロウ」
「ヤッパリ駄目ダヨ。ソレジャアヤッパリ兄チャンハ――」
「ダガ、俺ガ捕マッタ時、ツマリアバクベキ虚ノ真実ガ明カサレタ時、弟ヨ、コノ福音ガ世界ニ鳴リ響クノダ!」
 マスターの言に反応したレクがその鐘を打つ。かねて用意されていた間抜けな効果音と共に妙に明るい人工音声が公園に鳴り響く!
「な〜んちゃって♪」
 ――弟は、息を飲んでいた。
 ぽかんとして、それから自信に満ちた兄を見上げ、わなわなと震えた。
「……兄チャン?」
ソウダ、弟ヨ」
「アア、ヤッパリ兄チャンハスゴイヤ! コンナコトニ気ヅクナンテ!」
 芍薬は、冷たく笑った。
 全く懲りていない。全く変化がない。先ほどの弟への違和感はなんだったのだろうか。
 芍薬は決断した。
 この手のバカは放っておくといつかとんでもないことになる。
 教育施設への不法侵入を企て、次に刃物を用いた狂言――その次は何だ?
 考え足らずの二人と一人が揃ってこれほど無反省にヴァージョンアップしていくだけでも危険だし、アデムメデス国教の聖典・説教に拠って自説を都合良く補強しながらビッグなヒーローを自称するこのハロルド・トルズクを煽り立てる第三者が現れないとも限らない。例えば『クレイジー・プリンセス』のような頭の切れる阿呆がバックにつけば面倒なことになろう。それは『隊長』の件において既に実証されているし、その黒幕が王女でなければまた別のベクトルで厄介だ。この手の馬鹿を暇潰しの見世物にするためだけに煽り立てる人間だっているだろう。悪質なパパラッチが捨て駒として利用しようとすることも大いに考えられる。
 最悪の場合には――
 例えば兄のこだわる『ジェントルマン・ディンゴ』がそうであったように、最後には抽象的な巨悪と刺し違えて死ぬことこそ至高の正義と思い込み、実存しない敵を滅するために偶然行き会った老人を諸悪の王であると認定し、そうして妄想の果てに非力な相手を抱きかかえてダンプカーの前に飛び出すことさえあるかもしれない。そして、もしそうなったその時、哀れな老人の代わりに道連れにされてしまうのは一体誰であろう?
「レクヨ! コノ策ノ成功率ハドウダネ!?」
 兄が聞く。
「ゼロではありません! いいえ、きっと成功するでしょう!」
「ドウカナ、弟ヨ!」
「ソレナラ間違イナイヨ! 絶対ニ成功スルヨ、兄チャン!」
 すっかり安心し切った様子で弟が賛意を唱えると、二人と一人は楽しげに計画の細部を語り合い出した。計画の細部、と言っても狂言のシナリオを雑に推敲する程度である。が、兄弟にとっては一国の命運を担うほどの会議であるらしい。極めて真剣に語り合う内に初めは女装することを躊躇していた弟もすぐに乗り気になり、どういうわけだか早々に“『ニトロ・ポルカト』は勇敢ではない”という結論が無根拠に証明されてしまった。兄の曰く『スライレンドの救世主』が虚像であることを暴いた自分達の動画は今年の報道に関する賞を総舐めにし、それによって世に名をビッグに知らしめた彼は一躍ヒーローとなり、ヒーローとなった彼は彗星が宇宙を駆けるがごとく次々に正義を働くがそれに付随してそんな気はなくても大金が転がり込んでくる、そこで彼は弟のため南海のリゾートに『ジェントルマン・ディンゴ』が有していたような豪邸を建ててやるらしい。
 そして兄弟が計画と夢とを相半ばに語り合う裏で、その全てを実現させるためにオリジナルA.I.レクは一生懸命働いていた。芍薬には『警報機』を通してレクの必死さが直に伝わってくる。レクは紛うことなく全力で『ニトロ・ポルカト』の動向を探ろうとしていた。物事の成否は準備の良し悪しに左右される。マスターの輝かしい未来のために最高のステージを整えねばならない。芍薬は静かに指を動かす。レクは血眼になって狂言が成立する時と場所を得ようと走り回る。それを眺めながら、そっと息を潜ませながら、芍薬は思惟する。最後には人間は人間の法に処分させればいいにしても、このオリジナルA.I.をどう処分するかは一考の余地がある。今や人間社会になくてはならないオリジナルA.I.も(もちろん汎用A.I.も)人間の法の影響下にあるのは確かだが、一方でこちらにはこちらの理がある。しかし一つ一つの理は単純であってもそれらが寄り集まった社会は複雑で、笑えるほどに煩雑だ。レクは法を犯さんとするマスターのためにも精一杯働く。自分もマスターのために、最善を尽くす。
 レクはやがて“その情報”に行き当たった。
 歓声が上がる。
 その歓声に兄弟が気を引かれる。
 奇跡的に神の秘密を掴んだとばかりにレクは狂喜してマスターへ報告する。『ニトロ・ポルカト』が放課後に立ち寄るはずの、ショッピングセンターのことを。
 ――誘導は終わった。
 以降の二人と一人の動向は横目で監視することにして、芍薬はキッチンに止めたままの多目的掃除機マルチクリーナーの操作に戻った。
 真空パックから取り出した豚のバラ肉をマナイタに載せ、ロボットアームを伸ばして料理用のアタッチメント・ハンドに万能包丁を握り込む。肉を切ろうと力を強めるあまりにマルチクリーナーがひっくり返ったり、逆にひっくり返ることに気をつけ過ぎて包丁に力が伝わらなかったりしないようバランスに注意しながらレシピに準じた大きさに切り分けていく。切り分けた後は、しっかり下味をつけていく。
 どんな料理も丁寧な下ごしらえが大切で、この料理は急がずじっくり煮ていくことが肝要だった。

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