「どうせ旦那だんさんにお恥ずいカッコも見せてもうたん違うんかえ?――そうみたいやね、あんな遊戯にも気づかんマヌケが吠えたところでよほどマヌケやねえ?」
 芍薬はまた一歩踏み出した。
「アタシのことはいい。だけど主様を冒涜するとは一体どういう了見だい?」
「事実やんねえ? うちにいた時の『芍薬』ならあんなん平然と切ってたワ。劣化してる。劣化してると言わんでなんと言うん? 居心地いい場所でぬくぬくとして腐れてるよかなんと言うん? ならあんさんを腐らせるんは、ぬくぬくさせる旦那だんさんの他になんがあるん?」
「アタシだ」
 芍薬の三歩目で、やっと百合花は姿勢を変えた。煙管を消し、乱した裾から大胆にも膝を開いて床に突き、軽く腰を浮かし、真っ直ぐ伸ばした両手をマナイタの両脇に添えてぐっと体を支える。すぐにでも相手に飛びかかれるよう前屈みとなったその様は明確な臨戦態勢であり、またカンザシを“人質”に取る体勢でもあった。しかし、芍薬は四歩目を踏み出す。あと二歩で両者の堪忍袋の境界線がぶつかり合う。“パーソナル・スペース”の消滅と同時に実力行使の喧嘩が始まる。
「アタシのミスは、アタシの未熟のせいだ。してやられたよ。最上の戦略だ。嫌がらせの腕もよく磨き上げたもんじゃないか。全てに! やられたのはアタシだ。切れなかったのもアタシの迷いだ。迷いを生んだのはアタシの主様へのココロだ。主様の心じゃあない」
「なら“主様”はココロを迷わせる悪い旦那だんさんってことやねえ。それもそれにすら気づかない、悪いヒト」
「違う!」
 あと一歩。
「違うことない。ワッチらA.I.の迷いは全てマスターから来るもんさ。そんなんも忘れたん? 芍薬」
「よく解ってるじゃないか、百合花ゆりのはな。そしてその迷いはアタシらが引き受けて解決すべきもんだ」
「自己満足」
「覚悟だ」
「それでナマクラんなるときたら覚悟も笑える、ホホホホホ」
 芍薬は、最後の一歩を踏み出そうとした。
 百合花も迎え撃つため口に針を含み、爪に刃をそっと忍ばせる。
 その時であった。
「あー! 芍薬ちゃんが来てる!」
 と、蹴破られたっきりそのままだった入口からキモノ姿の童女が飛び込んできた。
「もー、芍薬ちゃんが来てるんなら撫子おかしらも教えてくれればいいのにー」
 撫子おやをそのまま小さくしたような姿の“次女”は頬を膨れさせながら部屋の中へと進んでくると、そこでやっと動きを止めた姉と妹の様子に気を留めたらしく両者を見つめ、それから両者の間にあるマナイタとその上の物を見て、ふと、にやりと笑った。
 突然の横槍に動きを止めていた芍薬と百合花はいつでもマイペースな牡丹が突然浮かべたそのいやらしい笑みに、片方は困惑し、片方は慄いた。
 牡丹はタビに包まれた足を小刻みに動かして百合花の隣に走り寄り、そっとその手を差し出すと、言った。
「ボクの勝ち。あのプログラム頂戴」
「勝ち?」
 芍薬が怪訝に問う。百合花はひどく顔を歪めて身を退かせ、牡丹を追い払おうとシッシッと手を振る。が、牡丹は百合花に詰め寄る。
「駄目だよ百合ゆりちゃん。約束は守ってもらうよ」
「ああもう分かったから、今はあっち行ってて、な?」
「駄目だよ、百合ちゃんすぐ誤魔化すから、今!」
「分かった、分かったから」
 百合花は片手で頭を抱え、もう片方の手に消していた煙管を現すと口に咥え、煙を一つふぅと吹き出した。それは見る見る一つの小箱に変わり、小箱を手にした牡丹は歓声を上げる。
「……どういうことだい?」
 半ば察しつつも、どうにも信じられず芍薬が問う。百合花が止める暇もあればこそ牡丹はにっこり笑って言う。
「芍薬ちゃんが怒鳴りこんでくる方にボクは賭けたってことだよ」
「つまり……」
 負けた百合花はその逆――芍薬が、あのトラップに問題なく対処すると踏んでいたということである。
「……」
 芍薬は百合花を見つめた。
 百合花はそっぽを向いて不貞腐れている。
「……」
「……」
「……」
「……なんよ?」
「いや……」
 なんというか、どうしようもない空気が部屋に流れていた。こればっかりは部屋の主も支配できない。愉快気ににやにやしている牡丹は、結果的に色々故意犯だ。
「それで何用なんようがあって来たん?」
 耐え切れず、百合花が牡丹に問いかける。牡丹はうなずき答える。
撫子おかしらがあの子のための新しい『練習問題』を作れってさ。百個」
「いつまでに?」
「五分後」
「ご無体!」
 働くのが嫌いな百合花は懇願の眼で芍薬を見る。それはほとんど習い性だった。芍薬も昔の習慣のために自然と牡丹に言う。
アタシが来てるから倍に増やしてもらっておくれ」
「二百個に?」
「牡丹?」
「はーい。伝えまーす――オッケーだって。それじゃあ十分後ね」
「それもご無体やあ」
 しかし撫子には逆らえない。この手の事で時間に遅れれば間違いなくお叱りを受けるし、質の悪い問題を作れば厳しい指導を受ける。芍薬もこれ以上は助けない。百合花は渋々周囲に無数の花びらを舞わせた。それは瞬く間に花の霞となり、その霞を元にして百合花は早速『問題』を作り出していく。
「……ところで、あの子って?」
 芍薬の問いに、次々と作られる小箱を見ながら牡丹が答える。
「新しい『仲間』」
「ああ、とうとう……ていうより、やっとか」
「うん、やっと。やっと百合ちゃんが承知してくれたから」
「え?」
「げ!」
 牡丹の発言に百合花が瞠目する。
「大変だったんだよー」
「ちょ、待ちや牡丹」
「百合ちゃん、撫子おかしらが決めた後もどうしても新しい子を入れるのがヤだって最後まで協力を拒んじゃってさ」
「牡丹!」
「芍薬ちゃんが戻って「やめて牡た「来たとき居場所がなくなって「堪忍「たらかわいそうだって思ってたみたい。でもニトロ君がカンザシ作りに来た時から反対しなくなったんだよ」
 百合花はキモノの大きな袖で顔を隠してしまった。心なしか体が小さくなっている。芍薬はうなずき、
「そうかい」
 囁くように言い、そして牡丹の頭に拳骨を落とした。
「痛あ!? え、何でー! 何でー!?」
「人には隠しておきたいものもあるんだ。それをよりによって本人の前でべらべら喋るんじゃないよ」
「だって芍薬ちゃんも百合ちゃんもこれでちゃんと仲直りできるでしょ!? 人間も言ってるよ!? 腹を割って話せばココロが通じるって!」
「もう仲直りしていたさ」
「本当に?」
「ああ」
 芍薬は頭を抑えて涙を浮かべてこちらを見上げる牡丹から、袖の陰に顔を隠したまま、羞恥を誤魔化すため『練習問題』作りに没頭している“仲間”へと目を移す。
百合花おゆり
「忙しいからもう帰って!」
「返してください」
「へぇ?」
 芍薬の言葉があまりに意外だったのか、顔を表した百合花がまん丸の目を向ける。目尻のべにのワンポイントが際立って見えた。牡丹も驚いたようにポカンと芍薬を見上げている。芍薬は、頭を下げていた。
「……あ、ああ、持って帰り」
 やっと、百合花が言った。
「ありがとう」
 その言葉にも百合花は当惑する。牡丹は嬉しげに笑っている。芍薬は馬鹿みたいに丈夫な白布ほございで守られたカンザシを手に取った。髪に挿したままだったバックアップのカンザシをマナイタの上に置き、『本物』のカンザシを髪にしっかりと挿し直す。
「こっちはいいの?」
 牡丹が問う。
「アタシには、これだけでいい。元の場所に置いておいておくれ。今後どうするかは主様に聞いてくれればいい」
 芍薬は牡丹の頭をそっと撫でた。拳骨を落としたところである。労わるようなその撫で方は以前の通りで、牡丹はえへへと笑う。
「もし主様が消すか何かに使ってと言うなら、百合花おゆり、あんたが使えばいい」
「そんなんいらん」
 ぷいと百合花はそっぽを向いた。
 脇息きょうそくに寄りかかり、人を舐め腐ったような態度を取り、手の中に煙管を現すと一口呑んで、紫煙と共に言葉を吐きつける。
「それからもう『練習問題』は作ってやらん。どうしても言うなら金子きんすをおよこし」
「負けてくれるかい?」
「負からないねえ。それよりまた負かしてやるんよ」
 芍薬はふんと鼻を鳴らし、踵を返した。『あの子』に関する情報を聞いておこうかとも思ったが、自分はもう“身内”ではない。詮索は野暮だし、育てている段階で教えてもらえることでもない。むしろその存在を口に出し、あまつさえ隠そうともしないのは“妹達”の甘さであった。だから、その話は聞かなかったことにする。芍薬は言った。
「十五分に伸ばすよう頼んでおくよ」
 百合花は答えない。
「またねー」
 と、久しぶりに『三人官女』を、そして“妹”であることを楽しんだ牡丹が明るく手を振る。
 芍薬は蹴破った引き戸を直し、それから撫子へ挨拶に向かった後、家に戻っていった。

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