一方『ティディア・マニア』に関する情報には不穏な物が数多い。その『恋人』への襲撃予告もちらほら見えるが、それ以上に怖いのは“もらい事故”である。妄情もうじょう故に暴走した人間があのバカにだけ突っかかってくれるのは良い。しかし、それがもしマスターも一緒にいる場所で実行されたらとても困る。その場合、計画段階では行動目標に主様が含まれていなかったとしても、急に矛先を変えて襲いかかられることもあり得るのだ。というか既に何度かあった。さらに特殊な事案も存在する。いくら主様がバカを嫌っているからって――それを相手は知らないにしても――“白いドレッシング”や“血のゼリー”や“髪を練りこんだパスタ”やらを送り届けることなんて承知するはずがないだろう、あの変態どもめ。最悪な部類では“薬指”なんてものもあった。それはたまたま一緒にいたハラキリ殿が確認したので隠密に処理できたが、でなければ主様にどえらい心傷を残していたに違いない。
 思い出したら腹が立ってきたので芍薬はその記憶メモリに付随する感情の目盛めもりを制限した。
 気を取り直し、扱う情報の種類を変えることにする。
 最後にネット上の『マニア』に対する王家のA.I.の動向を確認してから、今度は王家全体の情報を集めていく。
 さらには貴族社会の情勢や国内外の政治にも手を広げる。
 そうして電脳世界ネットスフィアに果てしなく増え続ける情報から何を拾い、何を捨てるか、人間の脳では気が狂っても果たせない量を取捨選択し続け、常に移り変わる状況に合わせて収集プログラムの設定を調整していく。
 やがて作業に区切りがつき、芍薬は情報収集ソフトのウィンドウを消した。代わってメインコンピューターの記憶野からマスターの体形に関するデータを取り出して、それと同時に幾つかの服飾店から商品情報を取り寄せる。
 今日は、マスターと夏服をいくつか買いに行くのだ。
 本来物をあまり持たない性分のマスターであるが、一人暮らしを始めてからの一年で服だけはやたらに増えてしまった。もし『変装』という事情がなければ現在の五分の一にも達していなかっただろう。コンピューターが発展し、A.I.も普及した現在、一度人目に晒された『変装』はほぼ半永久的に有用性を失ってしまう。ネットに情報が残るし、それを元にすればA.I.が分析し正誤の判定を下すのは容易だからだ。組み合わせを変え続けるにも限界がある。着回すことは不可能ではないが適切に――例えば一つの変装を短い間隔で再び採用すると人間は騙しやすい――間隔を取らなければ難しい。かといって変装せず無防備に素性を知らせて人を集めてしまえばそれだけ事件も招きやすく、事件を招けば間違いなくバカも召喚されてしまう。そうとなれば味を占めたマニアやただの馬鹿が事件を無闇に起こす危険は高い。変装するのは決して有名人気取りだからではないのだ。むしろあのバカさえいなければ変装しなくたって構うまい。そうすれば、実家の自室を倉庫代わりに使うことにもならなかった。
 加えて、マスターは去年に比べて体形が変わっている。まず、いくらか背が伸びた。ウエストは細くなったが胸囲は厚みを増している。特に背が伸びたことによりボトムスは冬にいくつか買い換えた。トップスはまだ以前の服が全く着られないというほどではないにしても、それでも物によってはアンバランスになる。元々小さめだったシャツは肩の辺りがパツパツで見た目にもおかしなことになろう。逆に以前より似合うようになった服もある。スーツやジャケット類がその代表だろう。
 やたらと服が増えるのは困ることだが、マスターに似合う服を選ぶのは芍薬にとって楽しいことの一つであった。
 最新のデータから作り上げたニトロ・ポルカトの3Dモデルに、服飾店から引っ張ってきた商品データを着せ替えていく。デザインを吟味し、サイズを確認し、商品と主の肌の色との調和を確認し、既に持っている服との組み合わせも考慮し、候補を絞っていく。着心地ばかりはここでは確認できないため、そこはマスターの出番だ。実地で話しながら楽しく選んでいくのだ。ひょっとしたらここで候補から外した服をマスターは選ぼうとするかもしれない。その時は、その認識の差異がまた楽しい。
(――そうだ)
 芍薬は思い至った。
 マスターは体形が変わった。現在もトレーニングを続けている。これからも体形は変わっていくだろう。しかし、どのように?
(これ以上大きくなってほしくないけど……)
 マスターが、例えばジムのトレーナー、特にマドネル氏のようになりたいと言うのなら正直止める。その決意が本物であれば結局は応援するだろうが、それでもまずは止める。限界まで止めるのを諦めない。だって主様にあんな筋肉、絶対似合わない。しかしハラキリ・ジジの作ったトレーニングメニューをこのまま続けるならこれ以上の筋肥大は確実だ。そうだ、主様はベンチプレスの重量を増やせたことを喜んでいた。
(……ちゃんと確認しないとね)
 試しに3Dモデルをマッチョにしてみる。
 モデルの主様はにっこり笑っている。
 天使の悪夢!
 すぐに消す。
 芍薬は頭を切り替えるために自分のトレーニングを行うことにした。
 撫子おかしらの『三人官女サポートA.I.』の同輩だった百合花ゆりのはな。三人官女の中で最もプログラムの構築と解析に秀でたオリジナルA.I.の作った『練習問題』は、つまり極悪なウィルスや、特定の条件下でのクラッキングへの対処等の訓練プログラムだ。訓練用であるため対処に失敗したとしてもそのウィルスやクラッキングが実際に環境コンピューターを破壊したり練習生トレーニーの命を奪ったりすることはないが、あの性悪は時々悪戯をする。洒落にならないことをする。ある時、牡丹が対オリジナルA.I.用ウィルスの駆除訓練に失敗して、五分の四死んだ。その時、百合花おゆりはいつも無事に済むと解っていなければ嫌だというなら辞めてしまえと言い放ったものである。牡丹はほとんど暗黙の了解破りであらかた殺されたことより百合花おゆりに負けたことを悔しがっていた。悔しさのあまり自身を蘇生させるのを後回しにして即再チャレンジしようとしてしまうほどであった。――気持ちは解らないでもない。
 専用のフィールドを展開し、三つの小箱の一つを開ける。
 すると芍薬の眼前に時限爆弾が現れた。やけに古めかしい様子で、一見したところ大して複雑なものでもない。既にタイマーは動いていた。人間の知覚に換算すれば、残り59秒。
 タイムアタックである。
「おっと」
 芍薬は即座に爆弾の解体に取りかかった。
 一見したところ大して複雑ではない――が、簡単には解体できないようにできているのが百合花らしい。当然幾つもトラップが用意されていて、そのトラップはそれぞれ広く知られたオールドタイプで解除法も常識的なものである。が、とにかく一つ解除するのにやたらと手間が掛かる。目前にひらけ、しかも簡単に見える道筋を容易に辿れないのは苛立ちを招くものだ。こちらの実力を知っている百合花のことだからちょうど1分程度でギリギリ解除できるように作っているのだろう。なれば、試されているのは、
「忍耐と集中――精神力」
 ついでに言えばオールドタイプへの知見もだが、よほどセキュリティに不真面目でなければ知らないでいる方が難しいものだ。
 芍薬は着々とトラップを解除していく。そして、ラスト手前のトラップに手をかけながら、芍薬は思わず口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
 赤と黒。
 オールドタイプもオールドタイプ。二色の配線のうち間違った方を切れば爆発、という古典的手段。しかし二択だからこその難易度のために未だネタに出来る大問題。が、これも定石がある。それもいくつもある。例えば“透かして”内部を見ればいい。例えば爆薬を“凍らせれば”いい。現在外しているのは爆薬のカバーが外されるとスイッチの入る装置である。それと並行して芍薬は内部を透かして見ようとし――止めた。
「チ」
 舌を打つ。爆薬のカバーが“透かし”に反応するトラップだ。内部にはきっと凍結防止のトラップがあるだろう。芍薬はカバーと連結するトラップを完全に外そうとし、その際、もう一つのトラップを発見した。それはカバーと連結するトラップを完全に外した瞬間に発現するものである。ここに至るまでに解除してきたトラップの流れからすると油断を誘発する心理的要因の強い罠であった。時間をさらに食わせるためだけの嫌がらせに近い。実際嫌がらせである。しかし芍薬は平静を保ち、カバーと連結するトラップにさらに手を入れて無害化した上でその“抜け殻”をそのまま繋いでおき、それからやっとカバーを慎重に、かつ手早く開いた。凍結防止のトラップが、やはり内部に存在していた。
 残り5秒。
 芍薬は配線を素早く確認した。
 切れば良いラインは――黒。
 芍薬はハサミを手に黒を切ろうとし、と、その瞬間、二色の配線が3Dモデルへと変化し、芍薬の眼前にすっくと立ち上がった。
「!」
 芍薬は、息を飲んだ。
 その眉目が怒りのために吊り上がる。
 その3Dモデルは『ニトロ・ポルカト』の姿をしていた。
 赤髪と、黒髪。
 切れば良いのは黒。
 しかし、黒髪の『ニトロ・ポルカト』はまるきりマスターの姿である。
 つまりマスターを切れというのだ。
 試されるのは、精神力。
 芍薬は眉目を吊り上げたままハサミをクナイに変えた。
 いかに姿形に偽りはなかろうとも、これは、マスターではない!
「芍薬」
 と、二色のマスターが呼びかけてくる。
 残り2秒。
 芍薬は構わずクナイを黒髪くろせんへと――
「そのカンザシ、気に入ってくれたみたいだね」
 残り1秒。
 芍薬は思わず息を飲んだ。
 五日前、マスターから貰ったばかりのカンザシ。
 アタシがニトロ・ポルカトのA.I.になって一年の記念に贈られたプレゼント。
 それを知るのは――
 図らずも手が大切なカンザシへと向かい、クナイが黒髪くろせんのニトロから遠ざかる。
「あ!」
 タイムアップ。
 爆薬が炸裂する!

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