芍薬が
すぐに芍薬は自宅での仕事に戻った。
トイレや洗面台等に設置されている健康管理システムを確認する。異常な値はない。昨晩遅くまで勉強していたマスターはまだ眠そうだ。彼が洗面所で身だしなみを整えている間に、芍薬はリビングにある
「よう」
愛想も何もないアイコンから明るい声がする。芍薬は腰に手を当て、軽く首を傾げる。
「何だい、随分上機嫌じゃないか」
「今日の俺は一段と輝いているからな」
唐突なセリフに、しかし旧知の芍薬は納得し、
「ああ、洗ってもらったのかい」
「コーティングまでバッチリだ!」
「そりゃ珍しい。良かったじゃないか」
「ああ、もう久しぶりだぜ。ハラキリはなあ、もっと頻繁に洗車をしてくれりゃあ不満はねえんだがなあ」
「あんまり綺麗すぎると目立つから嫌なんだろ?」
「今回だって何度も頼んでやっとだ。いいか? 洗車ってのは重要なんだ」
「ああ、知ってる知ってる」
芍薬はひらひらと手を振った。どんなことであれ、車のことを語らせると韋駄天はうるさい。しかもその名に反してゆっくりじっくり語り聞かせてくる。
「それで、スケジュールに変更でもあるのかい?」
韋駄天は少し不満気に車のミニチュアを震わせたが、
「変更なし。九分後に屋上に着く」
「承諾。他に連絡事項は?」
「バーガー屋でのことは?」
「委細承知」
「だろうな」
スピーカーの底で笑うような音を立て、それから韋駄天はミニチュアカーの窓を開け、
「ちょっと待っておくれ」
芍薬が韋駄天を止める。すると“外”から音が届いてくる。
「芍薬、助ケテクレナイカナ……」
情けなさそうな声に、芍薬は笑顔で応えた。
「御意」
慣れているはずなのにどうにもネクタイがうまく結べない――そういう日もあるものだ――マスターの元にマルチクリーナーを走らせ、ロボットアームとアタッチメント・ハンドを巧みに操作して学校指定のネクタイを手早く結んだ。
「ウン、バッチリダ。アリガトウ」
芍薬は言葉の代わりにマルチクリーナーの手を振った。それから韋駄天に向き直ると、その肖像代わりのミニチュアカーのライトが瞬いていた。
「大味なアームでよくやるもんだな。アンドロイドなら簡単だろうに……ニトロはまだアンドロイドを買わないのか?」
「折に触れて頼んでいるんだけどねえ」
「貧乏性はニトロの欠点だな」
「欠点ってほどじゃないよ。それに別に悪い
「ニトロにとってアンドロイドは要だと思うがな」
「否定はしない」
「ほらみろ、ならやっぱり欠点だろう。お前だって不満なはずだ」
「不満だなんてことはないよ」
少し芍薬がむっとしたので韋駄天は話の路線を変えた。
「それで、その不向きな“手”でどれだけ訓練した?」
「覚えておく必要のないことさ」
「まあ、そうだな。だが、その操作マニュアルを公開すれば喜ぶ奴が多いんじゃないか?」
「そうだねぇ、大元はフリーのを参考にしてるから還元するのが筋だろうけどね。けど結局役立てられるかはそいつ次第になるだけさ」
「どういうことだ?」
「あんたの車と一緒だよ。動かしてみなきゃ判らないことがある。マスターの体形、
「なるほどな。路面状況に応じたアクセル、ブレーキ「ああ、そこまででいいよ」
「おい」
明らかに不満を示す韋駄天を制するように、芍薬は小首を傾げてみせた。その拍子にマスターから貰ったばかりのカンザシがきらめく。韋駄天は芍薬の意図を察し、ミニチュアカーを不動のままに短いため息をつき、開けた窓から三つの小箱を放って寄越した。
「
カラフルな千切り絵で飾られた小箱を受け取り、芍薬はうなずく。韋駄天が続ける。
「もう『
芍薬は笑った。
「いい訓練になるからね、コネは活用するもんさ」
「そりゃあそうだなあ。あいつは性悪だからいい“問題”を作ってくれるしな」
芍薬はまた笑った。韋駄天はミニチュアカーの窓を閉め、
「用件は以上だ。ニトロには洗車したことを黙っていてくれ」
素直な人間からの素直な感想を聞きたくてたまらないのだろう韋駄天の胸中を思い、芍薬は
「承諾。主様はきっと褒めてくれるさ」
「ああ、今日はいい天気だ」
その言葉を残して、韋駄天のアイコンは消えた。
韋駄天が通知してからちょうど九分後、ニトロは朝の光にきらきらと輝く韋駄天に乗り込み、その車の所有者と共に学校に向かっていった。
その後、芍薬の元にニトロを何事もなく学校に送り届けたという非常に上機嫌な韋駄天の報告が入り、そのまたしばらく後には正門で在校生を騙る青年が警備アンドロイドに拘束されたという報せがあった。何でも拘束された男を助けようとアンドロイドの足に縋る青年もそのまま一緒に待機していた警察に連行されていったらしい。ネットのコミュニティのいくつかに、その場に居合わせた者達のコメント付きで『騒動』の写真や動画がアップされていた。芍薬はそれらと併せて学校のセキュリティからの情報を確認し、うなずいた。髭を剃った兄は思ったよりも高校生として押し通れそうな感じはあったものの、それはあくまで“感じ”に過ぎず、やはり誰の目も欺くことはできていなかった。警備アンドロイドだけではない、『ニトロ・ポルカト』を見ようという野次馬の誰をもである。一方でその愚か者の校門に向かう挙動は自信に満ち溢れたものであり、自信に満ち溢れていたからこそ拘束された瞬間の彼の顔、そして懇願する弟と共に連行される彼の混迷した喚き声が
(自分達じゃなく、他の人間に稼がせてどうするんだい)
一番人気のその動画を投稿した者は、広告収入からちょっと贅沢なディナーを食べることが出来るだろう。
芍薬は、あのオリジナルA.I.レクに取り付けた『警報機』からの信号のないことを検めたところで、この件を脇に置いた。
マスターが学校に行っている間にもやるべき事は無数にある。
まずはあのバカの動向の確認である。何よりも力を入れて常時監視はしているが、その監視網をあのバカはあの手この手で掻い潜ってこようとするし、それを助ける配下やA.I.達も最高に手強い。実際に王家広報に出向き、担当のオリジナルA.I.と直接会話して己の目で確認する。あれはちゃんと予定通りに王・王妃と共にNPO団体代表らを朝餐に招いているだろうか。――いる。その後の分刻みのスケジュールにも、今のところ、変更はない。午前中にまた両親に付き添い顔を出す人道支援団体の会合の準備もつつがなく、午餐を共にするアドルル
次に芍薬は各種情報収集のためサブコンピューターに常駐させている特製ソフトをウィンドウに呼び出した。随時