「確かに、ある意味では、働くということになるだろう」
「兄ちゃん!」
 再び弟が声を張り上げる。それを兄の口から飛び出した短刀が刺し止める。
「だが、それが誰も成し遂げたことの無い事であれば。どうかな?」
 予想だにしない言葉に貫かれた弟は呆けたように口を開け、やがて、兄へぐっと顔を寄せて、問う。
「――兄ちゃん?」
「ここだけの話なのだが」
 と、兄も弟に身を寄せるようにして、まるで秘密会議でもしているかのごとく声量を落とす。が、それでもその声はろくにパーティションも切られていない店内では十分周囲に聞こえるものだ。
「『ニトロ・ポルカト』――この者の写真は高く売れるのだ」
 弟は困惑した。いや、混乱していた。兄の言葉が信じられなかった。兄がそんな薄汚いことを言うなんて! だが、兄は弟の混乱にたじろがない。その目には確信があり、また正義がある。兄は続ける。
「それも普通の写真ではいけない。誰もが見たことのない傑作でなければ、いけない」
「兄ちゃん……つまり、どういうことなの? ニトロ君なら僕も知ってるよ? でも“普通じゃいけない”って、どういうことなんだい? ううん、それより人の写真を勝手に売るなんて、そんなの正しい人のすることじゃないよ!」
「『ニトロ・ポルカト』、彼は品行方正で知られている。ティディア様の恋人でありながら図に乗らず、勇敢で、今では『スライレンドの救世主』とまで呼ばれている」
「知ってるよ。僕、兄ちゃんの次に尊敬してもいいかなって思ってるもん」
「ああ、弟よ、お前はなんと純真なのか。しかしな、あれくらいの年代の男が、あんなに有名になっていながら品行方正でいられるものではないのだ。それは普通ではない。異常なほどに真面目か、本当に異常か、そうでなければ普通は調子に乗るものであるものだ。彼も例外ではあるまい。皆、ティディア様に気を遣って大声では言わないが、『ニトロ・ポルカト』が人目の届かぬところでは実は王様気取りだという話は随分ある、いや、絶えたことはないのだ。学校では毎日違う女子を侍らせている上に――保健室にはな、弟よ、ある時間は誰も近づいてはならないらしいのだ。ニトロ・ポルカト以外は
「兄ちゃん! でも、それは噂だろう!?」
「そうだ、噂だ、しかし根の無い草は茂らない。もちろんこれは誰にも確かめられたことのない話だ。だから、俺が確かめるのだよ」
「……兄ちゃん?」
隠された真実を解き明かすのもヒーローの仕事だ」
 そこで兄はふっとニヒルに笑った。
「いや、仕事、と言うには崇高すぎるかな?」
「ううん、そんなことはない、それは素晴らしいことだよ!」
 一瞬にしてこれまでの意見を反故にした弟は熱烈にそう言ったところではたと気づく。
「でも、兄ちゃん、どうやってそれを調べるの? それは学校の中に入らないと嘘か本当か判らないんじゃないのかな」
「その通りだ!」
 パン、と手を打って、兄は歓声を上げた。
「その点に気づくとは流石は我が弟。その通りだ。絶壁を登らねば蜂蜜は得られぬ。そしてその絶壁は難攻不落と音に聞く。何しろあのティディア様がお手をお貸しになっての警備陣であるのだから。しかし、手はある」
「何? 兄ちゃん、一体どんな手があるの?」
「これを見ろ!」
 と、兄は足元にあったバッグを取り上げ、中から何やら包みに覆われたものを取り出した。それは服であるらしい。しかも制服である。兄は口髭を大きく歪ませるほどの笑顔を浮かべ、
「ヒーローはピンチへの備えも怠らない! こんなこともあろうかと手に入れておいたのだ。なんと本物をレクが見つけてくれてな!」
「ガンバリマシタ!」
 ふいに兄弟のテーブルの上から声が響いた。置きっ放しだった携帯電話モバイルから突如鳴り響いた声であった。どうやらオリジナルA.I.が胸を張っているのだろう、弟は感激の目でモバイルの画面と、兄の得意気な顔と、兄の手にする学生服とを交互に何度も見やる。その眼差しにいよいよ自信を漲らせた兄が言う。
「世に溢れる偽物とはわけが違う。入手経路は企業秘密であったが証明書付きであるから間違いない。少々値は張ったが、なに、この料金もすぐにペイできる。保険……いや、先行投資というところかな?」
 ならば100万の借金のうちにその料金も含まれているのか。それとはまた別会計であるのか。そのように推察する周囲と違って弟は資金の出所を案じる素振りもなく、ただ兄の言う『本物』の響きに酔っている。
 確かに、その制服はよくできていた。このトクテクト・バーガーの店員は1km先にあるその王都立高等学校の制服をよく見知っているが、それでも一見しただけでは真偽を見破れない。デザインはもとより、生地の質感にも違和感がない。ことによると本当に『本物』かもしれない。――が、だからといって、それが何になるだろう?
 既に多くの客らがモバイルを手に、思い思いのインターネット・コミュニティに情報を載せていた。優秀な王家のA.I.や警察のA.I.はその情報を見逃すまい。そしてそれを待つまでもなく、ひょっとしたら王女様からお褒めの言葉をもらえるかもという儚い希望を胸に直接当局へ通報している者も存在する。
 さらに言えば。
 そもそも論として、
(ソレヲドッチガ着タトコロデ)――と、芍薬も思った――(高校生にゃあ見えないだろうさ)
 しかしその人間達は微塵もそうとは思わぬらしい。
「デモ兄チャン、ソレハ僕ニハ小サスギルヨ」
 弟は嘆く。あくまで純朴に、嘆いている。兄は慈愛に満ちて言う。
「馬鹿ナコトヲ言ウモノデハナイ。コノヨウナ危険ナコトヲオ前ニサセルワケガナイデハナイカ」
「トイウコトハ……」
「ソウ、兄ガ着ルノダ」
「ソンナ! 兄チャンハモウ三十ヲ過ギテルンダヨ!? イクラナンデモ無理ダヨ! サスガニバレチャウヨ!」
「無理カ……ソウダナ、常識デ考エレバソウデアロウ、ダガ、弟ヨ、俺ガコノ髭ヲ剃ッタラ。ドウカナ?」
 弟は息を飲んだ。兄を丸々とした目で見つめ、やおら賛嘆に顔を赤らめ叫んだ。
「凄イ、凄イヤ兄チャン! ソンナコトヲ思イツクナンテ!」
 と、叫んだ後、またも弟は興奮を一気に冷ましてがくりとうなだれ、あくまで鷹揚に胸を張る兄を上目遣いに見つめる。その目には深い嘆きがあった。弟は声を弱めて、言う。
「アア、デモ兄チャン、ソノ髭ヲ剃ッテシマウノ? ソノ自慢ノ髭ヲ……ソレホドノ覚悟ナノ?」
 兄は力強くうなずく。
「無論ダ」
 弟は顔を覆った。
「アア、アア、兄チャン、ソレナラ、ソレナラキットバレナイヨ。デモ、アア、兄チャン、ソノバッチリキマッタ髭ヲ剃ッテシマウナンテ」
「泣クナ弟ヨ。事ヲ成スニ犠牲ハ付キ物ナノダ。オシエニモアルダロウ? 『小事ヲ成スニモ万事ヲ捨テヨ』」
「『めノ章 1−3』」
「……ソウダッ」
 どこか動揺した兄の声を聞きながら、芍薬はため息混じりに思う。
(主様がここにいたら、きっとツッコミ疲れて汗だくだろうね)
 芍薬は兄弟が『ニトロ・ポルカト』と口にした直後からこの会話を聞いていた。それもすぐ傍で。芍薬が潜んでいるのは、他のどこでもない、当の兄弟のテーブルの上に置かれた携帯電話モバイルの中、それも所有者のプライベートエリア――そのコンピューターの管理を任されたA.I.であっても自由に手を出せない領域である。
 朝の登校前の忙しい時間帯。ニトロ・ポルカトの通う高校最寄りのファストフード店にて展開されている“寸劇”の情報を得た芍薬が、この問題の人物のコンピューターに侵入するのは笑えるほど容易であった。
 理由は二つある。

→22-03へ
←22-01へ
メニューへ