ある日の芍薬
(あるいはオリジナルA.I.変奏曲)

(『第三部 『心』より』の数日後)

 ドン!――
 その時、アデムメデス三大ファストフードチェーンの一つ『トクテクト・バーガー』の店内に破滅的な音が鳴り響いた。
 評判の良いモーニングセットで日中のエネルギーを得ようとしていた客達がびくりとして振り返る。中には面倒事に巻き込まれないようにとサンドイッチを見つめながら、耳だけはそちらに向けている者もある。注文のやり取りをしていた店員と客は驚いて言葉を飲み込み、共に揃ってそちらを見た。
 朝の光の射し込む窓辺に、二人の男性客が座っている。その片方がテーブルに打ちつけた拳をぶるぶると震わせていた。痩せ型で、どちらかといえば女性的な顔をしていて、童顔である。鳶茶の髪に暗緑色の瞳。自慢げに整えられた髭が実に似合っていない。その顔の造作と髭のアンバランスさが正確な年齢を曖昧にしていた。一方、テーブル上で大仰に震え続ける拳の前にいるのは顔も体も全体的に丸い男だ。年の頃は……いかほどであろうか? 丸く膨らんだ頬が年齢を曖昧にしていて、四十代にも見えるし、逆に成人したばかりであってもおかしくない。金髪碧眼。今時そばかすを残しているのはポリシーのためであろうか、あるいは除去施術が怖くて避けているのだろうか、横から見ても分かるほど垂れ気味の眉は本人の性格を正しく表しているようで、彼は非常に気弱そうに背中を丸めて髭面の男を窺っている。
 シンと静まり返った店内にアイドルグループの流行歌が流れていた。底抜けに明るい合唱が止み、キッチュなメロディの間奏が始まると、まるでそれに合わせるように、
「おお」
 衆人環視、好奇心と警戒心の渦中、髭の男が唸った。そして、叫ぶ。
「おお! 弟よ! 昨夜の敗北により、ついに我々の借金は100万を超えてしまった!」
「ああ! 兄ちゃん!」
 髭のセリフに丸い男が声を上げる。それは実に痛々しく、聞く者の同情心を思わず引くほど嘆きに満ちていた。
 ――だが、やがて、店内は平時を取り戻していった。
 音の大きさのあまりに何が始まるのかと思ったが、問題の人物が暴れ出すようなことはなさそうである。
「おかしいとは思わないか」
 叫んだ際の慨嘆から幾らか落ち着きを取り戻した口調で、しかし大声で髭の男が言う。
「いや、これは実におかしいのだ。俺達は何をやってもうまくいく最強の兄弟のはずであるのに、何故こうもツキに見放されているであろう!?」
「判らないよ、兄ちゃん!」
 ……声が大きくうるさいのは迷惑であるが、出だしに比べれば音量も落ち着いている。注意するかどうかぎりぎりのラインといったところだろうか。だからこそまた迷惑ではあるが、あまりに酷ければ店員が動くだろう。客らは眉をひそめて食事を進める者と会話の内容に好奇心を刺激された者との二派に別れ、レジに立つ店員はひとまず経済活動を再開し、店長だけは店の利益を守るためにカウンター内の隅で警戒心をむき出しにする。厨房でただ一人働く人間チーフスタッフはフル稼働する自動調理システムに作業を急かされて店内の騒ぎに気づいていない。
 髭面の兄が拳を持ち上げて言う。
「そう『判らない』!」
 彼はそこで大きく首を振り、一端目を閉じて動きを止めた後、敢然と意志を貫かんばかりに両目を開くや、
「だが、弟よ、判らない時、人間は一体どうすべきであるのか?」
「そりゃあ兄ちゃん……判らないからにはどうしようもないよ」
「違う! 弟よ! 判らないのなら判らないからこそ考えねばならないのだ! 聖典にも言われている――『常に問い、常に解かんと欲し、常に望まずして希求せよ。してまた常に行うべし』と!」
「『シボウの章 5−2』だね!」
「お、おう」
 言葉が途切れた。
 何人かが再び彼らに目を戻す。
 兄は軽く目を泳がせていた。
 弟は兄へ輝く瞳を向けていた。
 兄の手元にはSサイズのコーヒーが、弟の手元にはパンケーキのモーニングセットがある。それにしても似ても似つかぬ兄弟だと、誰かが思う。
「弟よ、さあ、冷めないうちに食べなさい」
 ニコリと笑って、兄が紳士的に進める。
 弟は分厚いパンケーキにとろりと艶めくメープルシロップをじっと見つめた後、
「でも、兄ちゃん、やっぱり僕だけこんなに食べるなんて」
「いいんだ、弟よ。兄はダイエット中なのだ」
「兄ちゃんは太ってないよ? ダイエットなんて必要ない、太ってるのは僕さ」
「何を言うのか、お前は太ってなどいない」
「でも皆はデブって言うよ」
「デブとは何であろうか!」
 弟の言葉に兄は突然怒声を上げた。それに驚いた弟を慈悲の眼で見つめ、声の底に嘆きとも憐れみともつかぬ響きを込めて、兄は語る。
「それは太っている者への侮蔑である。しかし太っているとは何か。それはベストな体形からプラスに外れているということだ。しかし弟よ、お前は昔は小さかった。その頃は病気ばかりしていた。しかし大きくなってからはどうだ? 医者から仕事を奪ってやったではないか。お前にはそれがベストなのだ。ベストな体形を“デブ”とは言わない。さて、兄は間違っているか?」
「ううん、間違ってない。兄ちゃんはいつでも正しいよ!」
「それではその兄は、昔に比べてどうかな?」
「変わってないよ。いつでも僕のベストの兄ちゃんさ」
「いいや、変わったのさ、弟よ。体重が2kgも増えてしまった」
「――! そんな!? 兄ちゃん!」
「だからいいのだ、弟よ、昔からそうであろう? 俺は少食だ。お前はたくさん食べる。俺の残した飯を美味びみそうに食べるお前を見る俺はそれで満たされる。だから、さあ、食べるのだ」
「――うん! 分かったよ、兄ちゃん!」
 弟は涙ぐんでパンケーキを頬張る。それを兄はにこやかに見つめ、そして、
「弟よ、考えねばならなかったのだ。だから兄は一晩考えた。考えて、悟った。これは神の試練なのだ、と」
「神様の試練?」
 弟は頬をパンケーキで膨らませ、その頬よりも大きく目を見開く。兄はうなずく。
「俺達はビッグになる運命だ。それは間違いない。なのに何故昨晩は大本命馬がスタート直後につまずき転倒してしまったのであろう。そこから読み取れることは一つだけである。――『立てよ、ヒーロー』――そうだ、神はそう仰っておられるのだ。試練を何一つ乗り越えることなくヒーローとなった者があるか? 否! ヒーローにこそ苦難は訪れる、ヒーローのみが、恐るべき逆境に巡り合う!」
 兄は勢い、握りこんだ拳を振り上げ叫ぶ。
「順風満帆は凡夫の道! 100万リェンの重荷を負った我らこそは神の試されたもう選ばれし兄弟なのだ!」
「ああ! 兄ちゃん!」
 パンケーキを飲み込んで、手にしたフォークを象徴イコンのように両手に握って弟は顔を輝かせる。――が、すぐに彼は消沈し、うなだれた。
「どうした? 弟よ」
「でも兄ちゃん。100万なんて大金、どうやって返していけばいいのかな。もちろん働くよ? でも僕の時給じゃいつになったら返せるのか判らないよ。……まさか!」
 と、ふいに弟は恐ろしい事実に気づいたかのように顔を真っ青にし、にこやかな笑みを浮かべる兄を凝視し、声を震わせる。
「兄ちゃん、まさか兄ちゃんも働く気なの? 駄目だよ、兄ちゃんがこつこつ働くなんてやっぱり似合わないよ、兄ちゃんはいつだって格好良くって、いつだって格好良くなくっちゃいけないんだ! いつだって自由で颯爽としてなくっちゃいけないんだ! なのに」
 今度は弟がテーブルを叩き出しそうな様子である。このおかしな兄弟の会話に、既に店内は注目し切っていた。どうやら無職で、弟に養ってもらっているらしい兄は尊大に手を差し出し、
「弟よ、落ち着くのだ」
 その促しを聞くや、ややもヒステリックに立ち上がりそうになっていた弟は膝を屈した。半ば浮いていた腰が落ち、がだん、と、椅子が悲鳴を上げる。
 弟がいくらか落ち着いたところで兄は鷹揚にうなずき、言った。

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