「サクランボです。ミリュウ様もお召し上がりになりますか?」
「うん。その水筒は、お茶?」
 ヴィタの差し出したタッパーからサクランボを一つ摘んで口に入れ、ミリュウは目を細めて美味しそうに唸る。ヴィタは少女が果実を飲み込むタイミングを見計らい、
「白湯です」
「ただのお湯?」
「はい。ここでは例えリストリー・メイでも満足することはできないでしょう」
 リストリー・メイは紅茶の代表的な最高級銘柄である。
 ミリュウはヴィタの意図をすぐに理解し、目を輝かせた。
「あなたは美食家ね」
「お褒め頂き、光栄です」
「わたしにも一杯くれる?」
「コップがありませんので……」
「あなたの使ったものでいいわ」
「よろしいのですか?」
「確実に毒が入ってないでしょ?」
 その物言いに、ヴィタは不意を突かれて思わず笑った。姉の執事を破顔させたミリュウは頬を赤らめて喜ぶ。
「あ、そうか」
「どうなさいましたか」
 ヴィタから程よい温度の白湯の入ったコップを受け取り、ミリュウは答える。
「サクランボも、バラ科ね」
 ヴィタは目を細めた。
 ミリュウも目を細め、そしてコップを両手で持ち、口を寄せて熱を確かめるように少し息を吹きかける。その所作は上品な作法からは外れるが、それこそヴィタへ心を許している証拠でもあった。
「ルッド・ヒューラン様は、今はどうされているのですか?」
 途切れた会話を接いだヴィタの問いに、ミリュウはまた目を細める。己の執事の名を忘れないでいてくれたのが――それは当然ではあるのだが――嬉しいのだ。
「セイラはお茶を用意してくれてる。中庭でって話してあるんだけど……ヴィタもご一緒しない? ルッドランティーがお嫌いでなければ、だけど」
「喜んで招待されたく存じます」
「良かった。あ、でも、お姉様から頂いた休憩時間は、どれくらいあるの?」
「18時までです」
「長いのね」
 確かに主人が仕事をしているというのに、それを助ける役目も負う執事が取るには長い休憩だ。妹の疑念に対してヴィタはうなずき、
「ティディア様のお計らいです」
 そう言って、薔薇園へ目をやる。それを見て、姉の意図を悟り、ミリュウは涙ぐむように目を輝かせた。
 穏やかな風が吹く。
 快い暑気が洗われて、流れる。
 ミリュウはゆっくりと白湯を口に含み、馥郁たる薔薇の香りを吸い、そして飲み込む。はあと息を吐いた妹姫は姉の執事に目を向け、
「やっぱり、あなたは美食家ね」
「お気に召されたようで何よりです」
 ヴィタはサクランボを差し出した。
 ミリュウが摘み、ヴィタも摘み、互いに口に放り込んで瑞々しい果汁に舌鼓を打つ。
 少し間が開き、その間にまた一粒ずつ食べる。
 やがて、ミリュウが真っ直ぐ前方を見つめたまま、コップを回すように揺らしながら、言った。
「聞いてもいい?」
「お答えできることなら」
「『変身』できるって話だけど」
「そういえばまだご覧にいれていませんでしたね」
「うん――わあ!」
 振り返ったミリュウが驚きの声を上げた。その驚きはヴィタの思わぬほど大きく、その驚きのために激しく揺れたコップからは白湯がこぼれてスカートの端にかかる。
「あッ」
「! これは失礼致しました」
 急いでハンカチを取り出した猫顔のヴィタにミリュウは首を振る。スカートの濡れた箇所を軽く摘み上げながら、
「大丈夫、もう大分だいぶ温くなっているし、あまり当たっていないから」
「しかし」
「これはわたしの失敗。ううん、自分から言い出しておきながら驚いちゃって、わたしこそ失礼しちゃった」
「いえ……」
 素直にそう言われてはヴィタも流石に戸惑い、しかし気を取り直し、
「驚かせようとしたのですから、驚いてくださって失礼なことなどありません。それよりもお手にまだ湯のあることを失念していました。わたくしの失態です」
「ううん、いいの、本当に大丈夫。――でも……」
「はい」
「……」
 ミリュウはうつむき、上目遣いに、躊躇いがちに、されど期待を込めて言った。
「触ってみてもいい?」
 ヴィタは目をまさしく猫のように細めた。
「ご遠慮なく。しかし、その前に、おみ足に触れる非礼を承知で申し上げますが、拭かせていただけますでしょうか」
 ミリュウは少し間を置いてから、うなずく。
 ヴィタは一度席を立ち、姫君の前に回った。跪き、濡れているのがスカートの横側、直接太腿に触れるかどうかといった場所であるのを確認して内心安堵した。実際温かったにしても反省しなくてはならない。すっかり驚かせることへ意識が行き過ぎてしまった。
 王女たれば側仕えに世話されることも茶飯事であろうに、それでも恥ずかしそうにしている少女を楽にするため、ヴィタは、
「失礼致します」
 と、スカートを手にし、濡れた箇所を二つ折りにしたハンカチでクリップのように挟んだ。ぐっと力を一度入れる。それだけで水はスカートから吸水力の強い生地に移った。
「失礼致しました」
 辞儀をし、ベンチに座り直す。
「ありがとう」
 ヴィタは会釈を返し、そして期待の目を向ける姫君に頬を差し出した。
 チャコールグレイの和毛にこげの生えた頬に、少女の細い指がそっと触れる。するとその目がまたも輝いた。思わずといったように彼女は言う。
「素敵な毛触りね」
「お気をつけ下さい、ミリュウ様」
 堪えられずヴィタは苦笑する。
「もちろん文化にもよりますが、多くの獣人ビースターにとってそのセリフは“睦言むつごと”です」
「ごめんなさい!」
 慌てて手を離したミリュウの顔は再び紅潮していた。ヴィタは相手を無闇に刺激しないよう落ち着いた調子で言う。
「大変嬉しい誉め言葉でもあるのですが、せめて『毛並み』と仰っていただけたら“色合い”も変わりますので」
「うん、気をつける……でも、大変なところで失敗しなくて良かった」
「はい」
「お姉様にもっとご指導頂かないと……」
「このことは、よほど親しい間でもなければ話題に出ないと思いますが」
「ラミラスは獣人ビースターの多い星だもの。これからのことを考えたら、見過ごせない。どんな拍子にぶつかるか判らないわ」
 それは確かなこと。反論もない。ヴィタはうなずき、それから、
「他にお聞きになりたいことはありますか?」
 次第に元の顔に戻りながら訊ねる。ミリュウは猫から猿孫人ヒューマンに戻っていく麗人の様子に口をぽかんと開けていたが、やおらはっと気がつき、ふと目を暗くした。
「――ファルド・ネグスト・リードラムについて」
「お答えできることなら」
「このまま刑務所長を続けさせる可能性は、ある?」
「ありません」
「そうよね」
 ミリュウはもう熱さのない白湯を飲み干す。ヴィタがコップを受け取り、水筒に被せて軽く閉める。サクランボを一つ、また一つと食べてヴィタはミリュウの次の言葉を待った。もちろん妹姫の意図は既に理解している。件のネグスト・リードラムは代々ガレンツァル領ディストレクト刑務所のおさを務めてきた貴族の当主で、その先代は国王陛下のご友人。……父に相談を受けた親思いの娘がその力になりたいと思うのは自然なことだろう、それが誰よりも崇拝する姉に意見するという板ばさみに合うことであったとしても。王の三女は苦しげに言う。

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