聞く者の心を柔らかに慰撫するかのような声が、風に乗ってやってくる。素朴なことばが、ミディアム・テンポのメロディに甘やかにも切ない想いを託して芳しい香りの中を麗しく漂う。
 それは五百年前のラブソング。
 およそ三月みつき前、春、ある老婆が、初めて恋を知った曾孫娘のためにこの曲を歌った。その歌は亡き夫がプロポーズの際に彼女へ贈ったもので、ピアノの弾き語り用にアレンジされたもの。その歌を聴いて感激した曾孫娘が友人に自慢するために曾祖母の映像をインターネットに載せたところ、何の悪戯か、世の注目を一気に集めたのである。
 カビ臭いほど古くもまっさらに新しい流行歌は次第にヴィタへと近づいてくる。左方、ロザ宮正面の薔薇園入り口からこちらへ歩いてくる。時折立ち止まる。歌は途切れない。花を愛でながら、彼女は歩いてくる。その歩調は舞い上がるかのように軽い。
 やがて、白薔薇の揺れる中に女子高生が現れた。
 穏やかな風に長く美しい黒紫の髪がさらとなびいていた。
 夏用の白い長袖シャツの上に、ボタン留めのクラシカルなデザインのベストを着るミリュウ姫が、歌いながら、ロゼット咲きの白薔薇へ口づけをするように唇を寄せている。
 香りを楽しみほころぶ王女の顔に、ヴィタの心が自然と和む。その我が心の動きを彼女は不思議に思い、また非常に興味深く感じた。姉姫とは全く違う空気を纏う妹姫を、真っ直ぐに見つめ続ける。
 微風に崩れた髪を整えるよう耳にかけながら、ミリュウは歌う。
 愛を謳い君を想うリフレインを口ずさみながら、彼女は軽やかに歩を進める。
 ふと、重みのない糸に触れたかのように彼女の歩みが止まった。
 活き活きとした黒紫の瞳が、涼やかなマリンブルーの瞳の中で硬直した。
 歌を紡いでいた唇がゆっくりと息を止める。
 第二王位継承者の、どの姉よりも劣るとはいえ醇美なる面が一瞬、薔薇よりも白くなる。
 直後、どの姉弟よりも両親に似るその尊顔が薔薇よりも紅く染まった。
 同時、ヴィタは激しく胸を高鳴らせながら、思わず緩みそうになる頬を懸命に固めながら、少女の紅顔こそ合図とばかりに起立した。胸に手を当てサッと頭を垂れ、
「ミリュウ様がいらっしゃいましたこととは露にも知らず、誠に失礼致しました」
 手早く、手短に、女執事は軽々と大声で大嘘をつき、そして続ける。
「座したるままご挨拶も遅れました非礼、賢慮並ぶ者なき姫様の天にも勝る寛大なる御心によって平にご容赦頂けますよう、卑しくも我が忠心より何卒なにとぞ御願おんねがい申し上げ奉ります」
 伝統と古い習慣を極めて重んじる一部の上流社会のパーティーでなら聞けるかもしれない大仰にして芝居がかった言い回しにミリュウはしばらくぽかんとし、場合によってはむしろ慇懃無礼となるであろう謝罪の文句をやっと飲み込むや、次第に、笑い出した。
 ころころと転がるような笑い声を聞きながら、ヴィタは頭を下げ続ける。垂れた藍銀色の髪に隠れた顔には笑みがある。
「頭を上げて」
 朗らかにミリュウが言った。
 ヴィタは顔を上げた。その顔も瞳と同じく涼しげで、そこに怯えは微塵もない。先ほどの文句を既に忘れたかのような趣すら存在している。これを本物の忘却の顔と見るか、王女に罰を与えられたとしても異論はないという忠臣の覚悟の顔と見るか、はたまた命知らずの役者の度胸そのものと見るかは人それぞれだろう。ミリュウは『クレイジー・プリンセスの執事』へ感嘆と納得の入り混じった微笑を贈り、
「赦します。ヴィタ・スロンドラード・クォフォ、この美しい薔薇の園をそのようにして眺めるものではありません。楽になさい」
 こちらも明らかに芝居がかった調子で言う。するとヴィタは突如感無量とばかりに顔を上向け、
「太陽を仰ぎ神梁しんりょうの深きより無上の感謝を捧げます、うるわしの君、きよらかなるミリュウ様」
 大古典時代の演劇に出てくる一句を呼び名だけ変じて詠じ、ヴィタは今一度深く頭を垂れる。そして頭を挙げると、ミリュウがこちらへと歩み寄ってきていた。その顔に人知れずの歌を目撃された恥はもはや一筋の影もない。
「こんにちは」
 ヴィタが改めて挨拶を述べようとした寸前、今度はミリュウが先んじた。ほのかに見開かれたマリンブルーの目を黒紫の瞳が悪戯っぽく覗き込む。その眼差しにも「楽にして」という意志がある。
「こんにちは、ミリュウ様。お帰りなさいませ」
「ただいま。
 今日はいい天気ね」
「はい、とても好い日和です」
「休憩中?」
「はい」
「お姉様はどうされているの?」
 ミリュウの目には期待があった。着崩すことなくボタンのしっかり留められた紺のベストの下に高鳴る心臓が見えるようだ。もし姉も休憩中だと答えれば、この妹君は挨拶をするため脇目も振らず飛んでいくことだろう。だが、ヴィタは言う。
「お手紙を読み、返事を書くと。その後は書類を片付けると仰っていました」
「そう」
 あからさまにミリュウは失望し、うなだれる。とはいえ姉の仕事を自分の挨拶ごときで邪魔することはそれこそ論外であると気を取り直し、それからまるで長らく離れている恋人の安否を尋ねるように、
「お姉様のご機嫌はいかがかしら」
 ヴィタは苦笑しそうになった。しかし相手の望む答えを速やかに言う。
「非常に麗しく存じ上げます」
 その一言で全てを察したようにミリュウは心底嬉しそうに笑う。
「そう、良かった」
 柔らかに微笑む彼女は小首を傾げるようにしてヴィタへ問いかける。
「隣に座ってもいい?」
「もちろんです」
 ヴィタはバスケットをベンチの端に移し、席を空けた。ベストと同じ紺色のスカートを押さえ、ミリュウは品良く腰を下ろす。彼女の目に従ってヴィタも腰を下ろした。涼やかなマリンブルーの瞳を見つめ、妹姫は言う。
「こうして話すのは初めてね」
 二人きりになったのもこれが初めてだった。
「どう? この庭は。気に入ってくれたら嬉しいのだけど」
「気に入らぬはずがありません。実に素晴らしい。これまでにいくつもの薔薇園を見てきましたが、間違いなく最高のものであると断言できます」
「そう言ってもらえて良かった。お姉様からお預かりしている身でこう言うのは思い上がりだけど――」
 笑顔で、小首を傾げてミリュウは言う。
「でもね、自慢なんだ。皆、とても愛情を込めてお世話してくれているのよ」
「ええ、それは我が子への愛情にも並ぶことでしょう。見事な仕事です」
「どうもありがとう」
 庭師への賛辞を我がことのようにミリュウは喜ぶ。そして、
「あなたも育てているの?」
「はい。五株ほど」
「何?」
「『グランデマーテル』『ミステリアス・ミストレス』『ロマン・ロマンス』『ブルーブルー』『プティ・マルツァリノ』です」
「『ロマン・ロマンス』はわたしも大好き」
 ミリュウの目が輝いた。
「個人的にね、お姉様に一番お似合いになる薔薇だと思っているの」
 半剣弁高芯咲きのその薔薇は、中心にかけては純白で、花弁の端にかけて品の良い山吹色へと変化していく。うっとりするような香りが名の由来であるが、ヴィタには少し意外だった。
 もし、自分が挙げた五種を提示して道行く人に選ばせたら、おそらく『ミステリアス・ミストレス』が最もティディア姫に相応しいと支持を集めるだろう。こちらは剣弁高芯咲き、中心は鮮やかな赤で、花弁の端に向けて黒紫へと変化していき、最後にふちは僅かに青みを帯びる。そのグラデーションは妖しげな魅力を伴い、酔わせるような甘い香りもあってファンも非常に多い。その意味でも蠱惑の美女に似合うものだろう。
 ヴィタの顔に疑念を読み取ったミリュウはどこか誇らしげに言う。
「『ロマン・ロマンス』は他の何よりお姉様の御瞳おめ御髪おぐしを際立たせるわ」
 なるほど、と、ヴィタはうなずいた。確かに『ロマン・ロマンス』は『ミステリアス・ミストレス』と並べると後者を活かす。そう考えると『伝説のティディア・マニア』の言い分は的確だ。
「ヴィタには『ミステリアス・ミストレス』が似合いそう」
「そうですか?」
 それもまた意外である。むしろ真紅の大輪『グランデマーテル』が無難だろうに。
「うん。あなたの目はとても澄んでいて綺麗だから、『グランデマーテル』もいいけど、それより『ミステリアス・ミストレス』みたいな存在感の方がお互いに引き立て合うんじゃないかな」
 なるほど、と、ヴィタはまたうなずいた。意識しているかどうかは判らないが、その構図は“蠱惑の美女と藍銀色の麗人”――まさに彼女の姉が狙った効果に即している。流石は妹様、といったところだろう。ヴィタは賛辞の代わりに言う。
「ミリュウ様には『ピュアパール』ですね」
 それは丸弁の優しい香りの純白の薔薇。小ぶりだが非常に丈夫で四季を通じて人の目を癒し続ける。冬にも咲く代表種でもあり、この庭園にも欠かせぬ花だ。
 ヴィタの言葉にミリュウは嬉しげにうなずき、その拍子にヴィタの向こうに視線を止め、気づいてはいたが話題にしていなかったバスケットを覗き見るようにして、
「何を食べていたの?」

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