快い暑気が風の吹く度に若返る。空には薄い山吹色に染まるすじ雲が浮かび、天上には天上の風があるのだろう、地に吹く風とは違うリズムで緩慢に形を変えていく。その悠々と雲の変わりゆく様は、天上の風が、我こそが星を巡る風の王であると鷹揚に宣言しているようである。しかし天上の風は知るまい、地を覆う、この
その
息を飲む。
胸が詰まる。
静かに息を吐き、ゆっくりと息を吸う。平均的な人のレベルに落とした嗅覚へ一杯に空気を送り込むと、彼女の脳裡には繚乱たる薔薇の姿が蘇り、鮮やかに花開く。彼女は目の前に咲き誇る花々と記憶の内に咲き乱れる花々とを同時に見て、身も心も花園に埋もれた。ロディアーナ宮殿の中庭から蔓性の低木を編んで作られた薄暗いトンネルを抜けて、狭い出口から世に名高いロザ宮の薔薇園に足を踏み入れたその場所で、彼女はしばし時を忘れて風に吹かれていた。そして風が吹く度に、新鮮な香りが何度も彼女を恍惚とさせるのであった。
「素晴らしい」
ややあって、第一王位継承者の新しい執事はつぶやいた。
四季を通じて一時も花の絶えることのなく、夢のような花園の中に在って美しさを増す瀟洒なロザ宮を飾ることにより、また自らの美しさをも増す悠久の薔薇園。
現在におけるアデムメデスの薔薇の歴史はこの小さな庭園から始まった。覇王が王妃の慰めにと造った宮を常に飾るために品種改良を国家事業として進めたことが、その起源。各地から最高の専門家が最良の種苗と共に集められ、以降、様々な薔薇がこの庭のために生み出されてはアデムメデスの各地へと還流されていったのである。
冬にこそ最盛期を迎える品種が生まれたのもここだ。
わずかに青い色素を持つ希少種から鮮やかな青薔薇も作り出された。
黒薔薇も実現された。
ロイヤルカラーである黒紫の薔薇が実現したのは、ちょうど18代目の生まれた年だった。
(『アエテルヌム』)
その黒紫の薔薇が可憐な白薔薇を
ヴィタは顔を上げ、今一度庭園を見渡した。
日に照る緑の葉を瑞々しい絨毯にして、白から真紅にかけてのグラデーションが複雑に、しかし秩序だって波打っている。黒紫は景色を引き締めるためにアクセントとして配置されていて、されどそのロイヤルカラーはこの全景を際立たせる
ヴィタは一歩踏み出す。
この庭園は季節、あるいは企画によって彩りを変えるため、薔薇も地植えにされたものだけでなく、鉢植えのものも主として使われている。その鉢にしても花壇の装飾として演出されているものもあれば、一見鉢植えと知られぬよう地中に埋められているものもある。それらの技巧も見事だ。庭の形式・手法としては造園当時と変わらないのに、いささかなりとも古臭さを感じさせることはない。それどころか普遍を感じさせた。そしてそれを助けているのが、葉の色である。主役たる花色の下地となり、日を受け栄養を作り出して花株を力づける緑の葉。花の色を活かすための青なす敷布も光り輝き、その生命力は栄える花々よりもなお深く、深いが故に、色めく花々をまた際立たせる。
(『ピュアパール』『ルイレル』『シーロタヘ』『ローザ・アルブス』『ビアンペスカ』――)
園を歩き、目についた花の名を思い浮かべてヴィタは歩く。同じ白でも複数の品種が植えられ、その
石造りのロザ宮の足元に、小さなベンチがあった。舞踏会が開かれる際には華やかな光をこぼす大きな窓も今は暗い。ベンチは大窓の死角に置かれていて、例えば窓が開かれている時、ダンスに疲れた人がホールから内廊へ抜け出て夜風に休む時、窓際で交わされるその会話はこのベンチに座る者に筒抜けとなろう。まさに盗み聞きのための特等席である。このような空間を設けた人間はきっと底意地が悪かったに違いない。ヴィタはベンチに腰を下ろした。そしてこのベンチの設置者の悪さをさらに知る。ちょうど左右にある少し背の高い薔薇の木立と、庭に地植えされた品種の配置の妙で、ここは庭園内の多くからも死角になっているのだ。
しかし、ただ盗み聞きの機会を生むためだけにここにベンチがあるわけではなかった。
「――」
眼前の風景を見てヴィタは思わず微笑む。
このベンチから正面を眺めると、左右の木立のために景色が切り取られる。この庭をロディアーナ宮殿の中庭と区切るための緑木の壁が真正面にそびえ、逆光のために深い暗緑色をとなったそれを背景にした薔薇の色は明るく映えて実に美しい。もっと日が傾けば木の壁の上には金色の後光が差し、緑の壁を飾る蔓薔薇――『マルツァリノ』の黄に白の絞りの入る無数の小輪はロザ宮の壁から跳ね返る陽光を受けて星のように輝くだろう。それは何と素晴らしいことだろう。
ヴィタは持ってきたバスケットを傍らに置き、中から水筒を取り出した。蓋を開け、その蓋に中身を注ぐ。白湯であった。
それから彼女はタッパーを取り出した。蓋を開けて、艶のある赤い実を一つ取り出し口に放り込む。薄い皮を歯で押し潰すと、ほんの少しの抵抗の後、甘い果汁が口の中に弾けた。爽やかな香りが広がり鼻腔の中で庭園の芳香と馴染むように混ざり合う。
「うん」
ほころぶ唇から吐息が漏れる。
主人に休憩を命じられた後、ロディアーナ宮殿の厨房で詰めてきたサクランボをまた一つ摘んで頬張る。ヴィタはまた微笑む。種がなく、肉厚で、美味なるようにと作られてきたこの品種も素晴らしい。とても甘いのに後味は爽やかで、飽きも来ないからいくらでも食べられる。軸はあらかじめ取ってきてあるから、次の一つも摘んですぐに放り込む。
希代の王女の執事に任ぜられてから、もう
楽しい時間は速く過ぎるものだとヴィタは思う。任を負って以降、いや、我が姫君と初めて目を合わせた瞬間から一秒たりとも退屈を感じたことはない。主人にして同志の『クレイジー・プリンセス』、彼女の提供してくれる私の立場は実に素敵な景色ばかりをみることができる。この素晴らしい薔薇園をこうして満喫できるのも特権的な立場の賜物。そして何より『ニトロ・ポルカト』である。彼と親愛なるバカ姫様の作ってくださるメインディッシュはこのサクランボ以上に飽きがこない。時々曲者がスパイスをもたらしてもくれるし、以前の『隊長』のようなイレギュラーがアクセントを加えてくれるのも実に良い。もちろん第一王位継承者の執事として退屈な人間を相手にしなければないことも多々あり、そのような時には“退屈”ではあるが、実はそのような時にも心の裏側は期待に満ちている。一瞬後には何をしでかすか解らぬティディア様は、瞬きの直後、一体何をしているだろうか、どんな言葉を暴れさせているだろうか。それを思えば
「ふふ」
休憩に入る直前に届いた報告を思い返し、ヴィタは笑む。その映像の中でニトロ様は実に素っ頓狂に驚いていた。それがあまりに素っ頓狂な驚き方だったから、ニトロ様を狙ってマンションのエントランスに侵入してきた『ティディア・マニア』も逆に驚き目を剥いて飛び上がり、すると両者の奇妙なにらめっこが始まり、ああ、監視カメラという存在の何とありがたいことか、その録画された実に滑稽な邂逅にはどうにも吹き出さざるを得なかったものである。数秒後、本分を思い出した暴漢が切り落とされたばかりの街路樹の枝を振り回す姿は狂気を滲ませながらもどこか間抜けで、その男を取り押さえるためにニトロ様が居合わせた隣人と繰り出したコンビネーションはちょっとしたコントのようであった。隣人は溌剌と老いた男性で、腕っ節よりも声や位置取りで暴漢を圧倒する。その援護を受けてニトロ様は買い物袋から咄嗟に取り出したトウモロコシで暴漢を牽制する。白眉は二人に敵わぬと見て取った暴漢がエントランスから脱走を試みた時、芍薬が自動ドアを閉めたことだ。よく練られたコントでもあのタイミング、あの衝突っぷり、壊れたバネ仕掛けの人形のようなあのひっくり返りっぷりはなかなか拝めない。ニトロ様自身「コントか!」とツッコンでいた。老人も思わず笑っていた。暴漢は頭を打って目を回していた。それからはその元警視の隣人と、ちょうどエントランスにやってきた非番の現役警察官が的確に処理していたので、こちらは安心して大満足である。
それにしてもニトロ様を助けた老人の暴漢に対する態度は堂々としたもので、ニトロ様もその覇気に助けられた所は少なくないだろう。あのような隣人がいることは何より頼もしいことであるはずだ。
となると、報告を受けたティディア様は何も言ってはいなかったが、
(これで懸念が一つ、消えましたね)
それと同時に我が同志の企ての一つも消えてしまった。
ぬるめの白湯を飲みつつヴィタは思う。
その二つを天秤に掛けると、まあ、懸念の消えることの方が重いだろう。自分としては見られるかもしれなかった“引越し屋さんコント”がなくなるのは惜しいが、それが消えたらまた別の企てが生まれるだけのこと。それは例えば先日の銀行のようなもの。ニトロ様のフライングクロスチョップは、目をつむるまでもなく薔薇の花園に重ねて思い描ける。あのようなものがまた見たい。そして見られるだろう。あの少年は、きっとどのような
サクランボを二つ放り込み、それぞれを左右の奥歯で噛み潰す。ヴィタは微笑み、そして真顔となった。生来人間より鋭い聴覚に意識を集中する。
歌声が聞こえた。