購買に立ち寄ってから、クレイグ達は屋上に上がってきた。開け放されたドアを抜けると一面の天然芝が緑に輝いて、訪れた生徒達を大らかに歓迎する。芝が根を張るのは特殊なシートであり、その下は固いコンクリートであるのだが、足を踏み入れるとそうとは思えぬほどの柔らかさが靴底を通して伝わってくる。転落防止のために背の高い柵が内側に仰け反っている様はまるで庭園のアーチを思わせ、屋上中央には大きな鉢に植えられたレモンの木が五株ほど並べられていて、その小さな並木が青天井のこの場に涼しい木陰を作っている。木陰と、柵の下にはベンチが幾つか置かれていた。
クレイグ達が上がってきたのは教室棟の屋上であり、右手には同じ風景を持つ特別教室棟の屋上がある。両方共に生徒に人気の場所であった。が、今も多くの男女が思い思いに昼休みを楽しんでいるとはいえ、その数は常より明らかに少ない。遠近の空に
お陰でクレイグ達は難なく場所を確保できた。南側の柵を背にして、いつ頃のことか工作サークルが柵に勝手に取り付けた簡易庇――扇の形をして、普段は折り畳まれているそれをキャシーの友達が勇んで広げると、その傍らの背の低いベンチに影が落ちる。一人の女子とその彼氏、そしてキャシーが日陰に守られたベンチに座り、他は芝に座った。キャシーの目の動きで彼女の友達が脇に退き、自然とクレイグが彼女の側に座る。が、それに気づいているのはキャシー以外にいない。彼女の友達とクレイグ自身も気づかず、外から見つめるミーシャさえも気づかなかった。ミーシャはダレイの隣に胡坐をかいて座った。食事はハーフサイズのベーコンエピとクロワッサン、それとジュースだ。キャシーは話題のフードデリバリー業者のランチボックスを持ってきていて、洒落たサンドイッチをクレイグ、それから他の男子達に振舞った。
会話の中心にいるのは、常にクレイグである。
しかし、その中心は常にキャシーに寄り添おうとしていた。
誰がどう話を進めようと画策しているわけではない。キャシーがそうしているわけでもない。それでも自然と話を引きつけるのはクレイグであり、そしてキャシーなのである。ある人はそれを華と言うだろう。またある人はそれを演出力と言うだろう。
ミーシャはキャシーに羨望を抱いていた。
彼女みたいに笑えたらと思う。
クレイグは楽しそうに黒紫の髪の人気者と話をしている。
ダレイがチーズとサラミを齧りながら黙々とバゲットを一本食べ切っていくのを皆が笑って見ていた。キャシーの感嘆にダレイもまんざらではなさそうだ。ニトロ・ポルカトの協力で――といっても、結局二人を結びつけた花火大会をポルカト自身は『ウェジィ』の騒ぎのために見逃したのだが――めでたくカップルとなった二人は今月末の王女の誕生日に何が起こるかを話し合っている。それに食いついたのがキャシーで、クレイグはさっきの教室での出来事を彼女に聞かせて喜ばせる。が、彼女は、目が醒めたら人だかりで驚いたと言う男子の話も同じように喜んで聞いた。彼女が喜んで聞いてくれるから、その男子は話を誇張して下級生の様子を語って聞かせる。
「ほんと迷惑だね。ポルカトさんも、そんなの断ってもいいのに」
心から憤っているようにキャシーは言う。クレイグ達ポルカトの友人も実際そう思うので、我も我もとうなずく。それは美味しいサンドイッチを振舞ってくれた可愛い女の子と同じ気持ちになるということだから快い。
「俺もいつもそう思うんだよ」
クレイグの友人がキャシーの気を引こうと身を乗り出す。
その勢いにカップルとキャシーの友達が笑う。笑われた男子は気分を害すが、それをキャシーがフォローするからすぐに収まる。収まったところでクレイグが改めて彼をからかって、すると今度こそ笑い話に変わる。輪が一つとなる。
その中で、食いちぎったベーコンエピの房をもそもそと噛みながら、ミーシャだけが疎外感を感じていた。無論、誰かが彼女を疎外したわけではない。それは彼女自身が作った心地である。だが、だからと言って彼女に罪があるわけではなく、誰を責められるものでもないためにかえって空しい、空しくて、苦しい心地であった。彼女は自然と輪から離れがちとなり、笑い声が上がる度に心が離れてしまって、時折当ても無く目を泳がせていた。そうしている内に、彼女は見つけた。
「あ、ジジだ」
「ん?」
思わずつぶやいたミーシャに反応したのはダレイだった。大きな体は少し振り向いただけでも目立つ。つられて皆の目がミーシャの目の先を追い、すると、ここから最も離れたレモンの木陰に、何やら木をぼうっと見つめる変わり者が認められた。
ニトロ・ポルカトの親友として知られる、ハラキリ・ジジ。『映画』のPRのための銀河ツアー中に災難にも『
「呼ぶ?」
ミーシャは何気なく言った。
「邪魔しちゃ悪いよ」
ほとんどノータイムで応えたのは、意外にもキャシーだった。
「なんか熱心だしな」
同調したのはクレイグだ。ミーシャはストローをくわえてジュースを吸った。そして、
「ちょっと行ってくる」
ミーシャは立ち上がった。彼女を止める者は誰もない。彼女は尻に付いた草を軽くはたき落としながら、キャシーを一瞥した。――気のせいだろうか、少しだけ、キャシーの態度が硬くなっている。まるで何かを恐れているかのようだ。
それを奇妙に思いながら、ミーシャはレモンの木を見つめるジジに歩み寄っていった。屋上に点在する生徒達がこちらに好奇心を向けている。地味とはいえ、やはり『ハラキリ・ジジ』が気にはなっているのである。
ミーシャはいつまで経ってもこちらに気がつく気配の無いクラスメートに、あと数歩のところで声をかけた。
「ジジ」
「おや、ジェードさん」
ハラキリ・ジジの前まで来て、足を止めたミーシャは眉をひそめ、半ば睨むような目つきで彼を見る。
「ミーシャでいいって言ってるだろ?」
「しかしジェードさんもニトロ君のことを『ポルカト』と呼んでいるでしょう?」
ミーシャはああとうなずいて、
「?」
ひそめた眉根をさらに困惑に寄せた。腕を組んでちょっと考える。筋が通っているような、筋違いの理論で不意打ちを食らったような、どう判断したものか分からず小首を傾げ、
「なら、ポルカトのことをニトロって呼んだらジジもあたしをミーシャって呼ぶのか?」
「その時は拙者のこともハラキリと、どうぞ」
飄々と言われてミーシャはさらに混乱しそうだった。煙に巻く、というのはこういうことなのだろう。キャシーが彼を呼ぶのを真っ先に“反対”したのも解る気がする――
「なあ」
ミーシャは、キャシーの態度が気になって仕方なく、思い切って訊ねた。
「ジジは、キャシーに何か嫌われるようなことをしたのか?」
「何故です?」
「いや、なんとなく」
「嫌われていましたか」
さして気にする風でもなくジジは言う。ミーシャは調子が狂いそうになるのを抑えて、
「嫌っているわけじゃなくて……ジジの邪魔しちゃ悪いって言ってた」
「はあ。ではむしろ好意を持たれていると?」
「それはないだろ」
「でしょうねぇ」
「……なあ」
「からかっているわけではありませんよ。何を聞かれているのか判らないので、答えられません。ですから、どういう訳かを聞いているだけです」
そう言われてはミーシャに返せる言葉はない。しかし面白くない。ミーシャの健康的な肌の色に攻撃的な不満が乗るのを見て、ジジは言う。
「拙者は人当たりの良い方ではありませんから。何か苦手と思われているのかもしれませんね」
「苦手か」
「ジェードさんだって、拙者のことは得意ではないでしょう?」
「お前みたいのはニトロくらいじゃないとあしらえねえだろうよ」
半ば喧嘩腰にミーシャは言った。それは嫌味のつもりだったが、ジジは笑った。
「ミーシャさんはどうやら拙者のことが苦手ではないようですね」
そう言われてミーシャは目を丸くした。彼の言い回しは癪に障るが、一方でどこか奇妙にも心地良い。それに、
「今、ミーシャって?」
「ニトロ、と呼びましたから。それともミサミニアナさんとお呼びした方がいいですか?」
「いや、ミーシャでいい。うん、ミーシャでいいんだ……ハラキリ」
ハラキリは笑ってみせる。
その時、ミーシャは気づいた。
キャシーが彼を呼びたくなかったのは、きっと、この変わり者がいたら自分の
「で、拙者に何用でしょう」
クラスメートから目を離し、ハラキリはしげしげと木を眺めながら言う。鉢植えながら2mほどに成長したレモンの木は葉の色も鮮やかに茂っている。ミーシャはハラキリを不可解な異物のように眺めながら、
「別に用ってわけじゃないんだ。ただ何をしてるんだろうって」
「それでわざわざ?」
「うん」
「あちらでお話していた方が楽しいでしょうに」
それは皮肉でも嫌味でもなかったのだろう。しかしミーシャは言葉に詰まった。思わず頭に血が昇りそうになる。それは怒りではない。怒りではないが彼女にはまだ怒りとしか判別のできない感情だった。その感情の矛先が間違った方向に伸びそうになるのを自覚しながらも、彼女は喉を突くものを吐き出さずにはいられそうになかった。するとハラキリが急に振り返った。彼の視線と感情が衝突する。その火花が見えた気がする。彼女は息を飲んだ。相手の細い双眸の奥に思わぬ力を感じ――それは……気のせいだったろうか? すぐに目をそらされたので判らない。
「レモンを見ていたんです」
どうしたわけか、いつになく素直な調子でハラキリが言う。