「……ああ」
ニトロ・ポルカトが、ふとまどろみから目覚めたかの様子で声を出した。
「ぼうっとしてたよ」
露骨に無視されたと思ったらしく眼前で涙ぐんでいる後輩二人と、二つ席を離した場所からこちらを見る友人四人の様子から事態を了解し、彼は笑顔を作る。
「何か用?」
押しかけてきた後輩へそう問いかけるニトロにクレイグは言った。
「飯はどうする?」
後輩二人は余計なことを言うなとばかりにクレイグへ目をやるが、彼は意に介さない。それを傍らで腕を組む大柄なダレイの沈黙が支えるから迫力がある。負けん気の強そうな女子二人も腰が引けてしまう。
ニトロは笑みを浮かべ、言った。
「俺は、いいや。あんまり腹が空いてないんだ」
「……大丈夫か?」
「カロリーブロックがあるから、それで十分。ちょっと考えることもあるからさ」
「そうか」
クレイグがうなずいた時、また人垣を割って教室に入ってこようという生徒がいた。出入り口を塞ぐ邪魔な男子を鬱陶しげに横に押しやり肩をよじらせて、あからさまに悪態をつきながら踏み込んでくる。人垣の中から振り出されたすらりと引き締まる脚には一夏の跡が浅い小麦色として残り、その先には白い靴下と、彼女の好きな黄色の入ったスニーカーがあった。
「おう、ミーシャ」
と、寝起きの男子が言う。教室にやっと入ってきた少女は軽く手で応え、ぶつくさと言う。
「今日はひでぇな。校長は何してんだよ」
校長が“大切な生徒”を守るために人払いをするのは、五月以降の昼休みの風物詩でもある。クレイグが答える。
「出張だって聞いた。実は接待だって話だけどな」
「誰から聞いたんだ?」
「フルニエ」
「あいつは耳が早いな。相変わらず」
ミーシャは白い歯をちらりと見せて笑う。
「で、そのフルニエは?」
「いつも通り」
授業が終わるや一番に教室を抜け出たのは彼だ。それはこの人だかりを嫌ってというよりも、行きつけの食堂の席を確保するためである。
うなずいたミーシャは、それから不満気にクレイグを睨み、
「で、どうしたんだよ? キャシー達が待ってるぞ」
わざわざ迎えに来たミーシャに言われて、クレイグは急に焦りを感じた。その様子にミーシャはクレイグからぷいと目をそらす。それをダレイが黙して見守り、その光景にニトロは罰が悪そうに言った。
「なら早く行けよ。ダレイ、何なら運んでってやれ」
ダレイはうなずき、立ち上がった。背の高い彼に見下ろされ、本当に運ばれてしまうような気配を感じてクレイグはさらに焦り、
「いい、いいよ、行こう。じゃあニトロ、明日は一緒に食おうぜ」
「分かった」
「ポルカトは来ないのか?」
ミーシャが目を丸くした。心底意外そうで、また心底困惑して声も高まっている。
「腹が減ってないんだと」
クレイグの前の席に座る友人が立ち上がりながら言う。寝起きの男子はこれ幸いとばかりにダレイの後に続く。
「そうか……」
うめくような、ただつぶやくような、ミーシャは複雑な声を口の中で潰した。ポルカトは不躾な後輩の要望に応えてカメラに収まっている。そのお人好しっぷりには軽い苛立ちを覚えてしまうが――ふいにポルカトと目が合って、すると、何故だろうか、その瞳に心の中を見透かされるような気がして彼女は顔をそらした。
「ミーシャ?」
廊下に向かいかけていたクレイグが振り返る。ポルカトも不思議そうに彼女を見ていた。後輩二人は自分達を前にして他の女に目を向ける『ニトロ・ポルカト』と、彼の友人であるらしいその女へ嫉妬の眼差しを交互に送る。
「あ、ごめん。行こう」
陸上部所属のミーシャは素軽い動きで自然とクレイグの隣に並んだ。
「じゃあポルカト、明日は一緒に食おうぜ」
ミーシャが何かを誤魔化すように口早に言う。先ほどクレイグにも言われたばかりのことを繰り返され、彼女の様子にその内心を薄々悟りながら、しかしポルカトは何も言葉にはせず、
「オーケー」
と、ひらりと手を振り、写真を撮った後もなお用のあるらしい後輩二人に向き直る。
きゃいきゃいと話題の先輩に話しかける後輩のトーンの高い声を背にしてクレイグ達は廊下に向かった。長身で筋肉質のダレイが先頭にぬっと立ち、堂々としたクレイグがその後ろに控えると、その得も言われぬ迫力に人垣が割れて道が開ける。寝起きの男子がダレイに話しかけながら外に出て、その後にミーシャがもう一人の男子と話しながら続き、最後に、クレイグはちらりと背後に振り返った。
「……」
ニトロ・ポルカトは、一見、ミーハーな客に普段と同じように受け答えをしている。お約束の「本当は付き合っていない」発言が聞こえてくる。お約束を聞けた嬉しげな笑い声が彼の声を潰す。もう一度写真に応じる彼の作り笑顔にも変わりはない。しかし、硬い。
「……大変だな」
今日の彼の様子もいつか“笑い話”にできるようなものなのだろうか。
そんなことを思いながら、クレイグはダレイとミーシャの後を追った。クレイグ達がいなくなると、まるで最後の支えが折れたかのように人垣が崩れた。溜まりに溜まっていたものが教室の中へと雪崩れ込んでいく。秩序は失われた。教室に残っていた三人の女子はちょうど
ダレイを先頭にしたクレイグ達が流れに逆らい混乱から抜け出ると、その先で二人の女子と二人の男子が仲良く話しながら待っていた。
その中で、王女と同じ黒紫の髪を背に流す少女が振り返る。
窓から差し込む光に純白のブラウスが映えて、彼女の自慢の髪がきらめきながら翻る。
「わるいわるい、待たせた」
クレイグが笑顔で言った。
キャシーは彼を笑顔で迎えた。
距離を縮める二人から目をそむけた少女の視界に、『ニトロ・ポルカト』の教室に向けて駆けてくる大人の姿が飛び込んできた。校長の取り巻きと揶揄される体育教師を先頭にして三人の各学年主任が続き、さらに警備アンドロイドまでが動員されている。
「ポルカトが困るな」
ぽつりとミーシャはつぶやいた。
それを聞いたのは、ダレイだけだった。