アデムメデスでは誰もが王、あるいは女王になることができる。
方法は二つ。
一つは現王朝を打倒し、自らが新たな冠を戴くことである。が、無論、これは現実的ではない。
もう一つは王、あるいは女王の伴侶となることである。こちらも現実的ではなさそうではあるが、しかし現実に可能な手段であり、実際、次代の共同君主――
彼はこれまでの人生において、上流階級との接点など一つも持っていなかった。貴族や資産家の子女が集まるような組織に属したこともなく、現在も通うのは王都に存する何の変哲も無い公立校――スポーツが盛んと言うわけでもなく、学力的にも中庸で、そのため多くの人が足跡を残すからこそ『普通』と認識される高等学校である。ただ、現在の校長が分不相応なほどの野心家で、色々と画策しては空回りしていることはたった一つの際立った特徴と言えるかもしれない。そして彼の野心は確かに一人の少年の人生を大きく変える結果となり、その変化は、無論、少年の周囲にも甚大な影響を与えることとなった。
クレイグ・スーミアも、その影響を最も大きく受けた一人である。
誰しも思春期を過ごす場所やそこでの生活に少なからぬ夢想を抱くものだが、クレイグ・スーミアは、流石に学生生活がこのような騒ぎの中で進行するとは思いもしていなかった。環境のあまりにも大きな変化に最初は戸惑ったもので――いや、戸惑わない者などこの学校のどこもいなかっただろう。それでもクラスメートが王女の恋人となってから数ヶ月、この頃の彼は学校敷地周辺に群れるマスメディアや野次馬等の存在に慣れてきて、それらが起こす騒動を幾分笑い話として消化できるまでになっていた。
「それでは今日はここまで。しっかり復習してくるように」
数学教師が
若い学生達はすぐさま疲労を打ち消した。
さあ、昼休みだ。
小太りの男子が教室を逸早く抜け出て行く。それを追うように多くのクラスメートが教室から流れ出ていく。その様子は『普通』とは違う。その様子は、例えるならば発車時刻間近の電車に乗り遅れないよう急ぐ人々に似ていた。実際、教室の外に用があるならば、または別所で昼食を取ろうというのなら、この教室から早く出ていかなければ面倒なことになるのだ。
夏期休暇が終わってから一週間が過ぎ、この王都立高等学校は、夏期休暇に入る前にも増して注目を集めている。
クレイグ・スーミアは窓際に座る級友を見た。
アデムメデスにおいて他の誰よりも有名となった高校生、ニトロ・ポルカトは、腕を組み、真っ直ぐ正面を見つめて、不動であった。皆と同じく彼も着る半袖シャツは夏用に生地も薄く涼やかなのに、どういうわけか彼のだけは分厚く重々しい
教室には十人足らずが残っていた。
廊下側中央付近では三人の女子生徒が席を寄せて弁当を広げている。窓際最前列に一人でサンドイッチをぱくつく男子がいて、また教室の中頃に授業中から引き続き机に突っ伏す男子がいる。オンラインゲームに熱中して徹夜したという彼は熟睡しているらしい。
やがて、半開きのドアから地鳴りが聞こえてきた。
それを耳にして、気を揉むようにクレイグの前に座る男子が振り返り、
「ニトロは一体どうしたんだ?」
クレイグは、なんだか祈祷の文言でも唱え始めそうなニトロから、問いかけてきた友人へと目をやった。
「朝からずっとあんな感じだけど、わからないな」
「朝からそうだったか?」
「ああ。でも朝からってより――」
少し迷って、だが確信を得てクレイグは言う。
「ちょっと前からあんなんだな」
「マジで? そうだったかあ?」
「ちょっと前からぴりぴりし出して、今日はとうとうあれだ」
「あー、でもそりゃそうだろ、ティディア様のお誕生日がもうすぐなんだ」
「俺もそうだからだと思うんだが、それにしては……なんていうか、殺気みたいな感じもしないか?」
「俺だってこの歳で結婚ってなったら殺気立つぜ、この歳で親父みたいになるのかぁ……ってさ」
「そんなもんかな」
「ダレイもそう思うだろ?」
問われたダレイ――クレイグの隣の席に座る筋肉質のクラスメートは肩をすくめてみせる。同意とも否定ともつかないが、十分な応えだった。クレイグの友人は得意気にうなずいた後、不動たるクラスメートを羨望の目で眺め、ため息をつくように言う。
「もうすぐニトロも『王子様』かあ」
クレイグはニトロを越えて空の先を見る。
「正確には『王子様』にはならないらしいぞ」
「そうなの?」
「爵位は得るけど、継承権は持たないんだとさ」
「ややこしいな。でも王子様みたいなもんだろう?」
「みたいなもんではあるみたいだ」
「ならいいじゃないか。ティディア様に愛されるのは変わりないんだ」
「ニトロはいつも否定してるぞ」
「いつもの『お約束』な。いいよなあ、あんな美人となんて。俺だって一度はなんて夢見たもんだぜ」
そう言って、友人は自身の言葉に笑う。クレイグは愛想笑いを返す。
廊下には既に人だかりができていた。教室の前は隙間も無い。廊下側の窓に、貼りついているのか押しつけられているのか解らない生徒が無様を晒しているのは乗車率100%超えの満員電車でもなかなか見られない景色であろう。彼ら彼女らはその状態から抜け出そうとしているらしいが左右からの圧力に動きを封じられてどうにもならない。ドアは既に全開にされているが、代わりに人の作る垣根が出入り口を塞いでいた。そこから無数の目が『ニトロ・ポルカト』を覗き見ている。有名人の名を口にしながらざわめいている。しかし当のニトロ・ポルカトは不動のままである。その様子に、ミーハーな生徒の先頭集団も流石にぐずついている。
クレイグは、危険水域に達しながら微妙なバランスで決壊することのない人垣を眺めつつ、違和感を抱いていた。
その人垣には、夏休み前にはもっと軽い空気が充満していたように彼は思う。それこそ有名人を有名だから取り囲むという浮き足立った瞳ばかりが並んでいたと記憶している。しかし今月になると、その中に、一種異様な重さを湛える眼差しが一斉に現れた。もしかしたらそのような眼差しは以前から存在していたのかもしれない。だが、以前と明らかに違うのは、それらが肌に感じられるほどに顕在化し、しかもその重い眼差しが様々な色彩を見せていることだ。それぞれの眼差しが何を意味しているのかクレイグには判別ができない。ただ、心地悪さを感じてならない。性質も比重も違う液体が斑となり、いつまでも溶け合わずにひしめき合い、そして重い液体は軽い液体をその重力で引き止めようとしている。人垣が危ういバランスを保ち続けるのにはもちろんニトロ・ポルカトの異様さに押し止められているせいもあるが、同時にその内部で自主的に押し殺し合っている影響も確かにあるのだ。そしてその他者を黙殺しようという意思の滲み出る様は、もし友人が正気づいていれば、きっと気持ち悪く感じるに違いないと彼は思う。
「――!」
ふいに人垣の奥から声が上がった。細く高く内容の聞き取れない声に続いて、断続的に引き千切れる低い声。
「よう、おはよう」
クレイグが言うと、額に腕枕の赤い跡を残す友人が舌打ちをするように言う。
「寝過ごした」
彼はちらりと外を見た。廊下にたむろする野次馬達。校章の学年を示す部分の色を見れば同級生より三年か一年かが多く、女子の比率が多い。これでも前期より落ち着いた方だ。最もひどい時は廊下の端から端までごった返し、教室内もぎっちりと身動きが取れなかった。
とうとう垣根が割れた。
女子が二人、つんのめるようにして教室に入ってくる。
「ニトロ先輩!」
ほとんど歓声に近い声で一人が呼びかける。もう一人は夢中で
「……」
ニトロ・ポルカトは、返事をしなかった。虚空を見つめ、ただただ不動である。
「ニトロ先輩?」
その下級生の女子二人は『王女の恋人』の異様な雰囲気にやっと気づいたらしい。おそらく教室内の様子を伺うこともなく突撃してきたのだろう。見物人の中には失態を犯した二人を嘲笑うものもある。――気分の良いものではない。そこでクレイグは、
「ニトロ」
と、声を強めて真っ直ぐ呼びかけた。