胸を高鳴らせて、ティディアはそのドアから中へと入った。
裏地に粗く映る大柄なスキンヘッドの男の背を追い、目隠しとなっている衝立の横から奥へと歩を進める。すると、間近にいた青年が慌てて胸を隠すのが目に入った。青年はタンクトップから棍棒のような腕を抜き出す男へ盗み見るような羨望を送っている。男が行き過ぎたところで青年が腕を下ろすと薄い胸板が露となった。見るからにトレーニングを始めたばかりらしい。他人の目から隠れるようにそそくさと服を着る青年を眺めながら、ティディアは足を忍ばせぴったり壁際を進んでいく。
ロッカールームは閑散としていた。評価の良い高級スポーツジムであるのに青年とスキンヘッドの男、それから談笑している二人しかいない。ここを利用する者の少ない“谷間”というやつだ。スキンヘッドの男は談笑している二人に声をかけた。知り合いらしい。話題は投資についてのようだ。為替と株の用語に筋肉の話が交差する。
やおら壁際を離れ、ティディアは目的のロッカーに辿り着いた。
ロックは
(ふふふ)
無事、侵入に成功した。
そろそろと全身を隠していた光学迷彩クロスを手繰って丸めていく。丸めて潰すとクッションにちょうどいい大きさになったので、ティディアは身じろぎしてそれを腰にあてがった。他に身につけているのはスポーツ用(ということになっている)水着である。
ティディアは、達成感に満たされていた。
いくらこの光学迷彩クロスが高性能だとしても、移動中を間近で凝視されればどうしても違和感を与えてしまう。あの青年がスキンヘッドに気を取られてくれて、その上着替えに集中してくれて助かった。スキンヘッドも、すぐに談笑に加わってくれて良かった。
(ついているわー)
ばれたらばれたでその場にいた男達をどうにかする手段はいくらでもあったが、やはりこうして『ゲーム』をクリアした方が気持ち良い。スリルを味わった心臓が未だ高鳴っている。――いや、この高鳴りは、これから起こるはずのことへの期待である。
(ニトロ、どんな顔をするかしら)
収録前の練習のため、今日は初めからジムに迎えに来ることを伝えてある。お陰で芍薬の邪魔もなく、一度やってみたかったこの企てをようやく実行することができた。
(ニトロは……きっと驚く)
扉に換気用の小さな溝もなく、ただ脱臭孔のあるため空気の滞りのない暗闇の中で膝を抱え、ティディアは瞼にあれこれと彼の顔の形を思い浮かべてじっと待つ。背中の当たるロッカーの肌も、こちらの温もりを受けてじんわりと温まってきた。
(ニトロの匂い……)
吊るされたジャケットが頬に触れ、ティディアは静かに息をする。
扉越しに聞こえるロッカールームの賑やかさ。人が増えたようだ。すぐ近く、二つか三つ隣のロッカーが開いた。ごとごとと荷物を扱う音が響いてくる。扉の閉められる音は大きく響いた。
(ニトロは私の匂いを嗅いだらどう思うのかしら)
そう思うと、少し、頬の奥が熱くなる。それをティディアは不思議に感じた。恥ずかしいのではない。いや、恥ずかしいのだろうか。それともこれも期待だろうか。私とすれ違う男が皆見せる顔を彼の上にも見たい。髪の匂いに接吻させて、物を乞うような眼差しを浮かべさせたい。
(だけどニトロはまだしぶとい)
無事に『漫才』はスタートした。そろそろ年の瀬。年が明けて三ヶ月も経てば彼と付き合い始めてから一年だ。その頃には『夫婦漫才』もスタートできているだろうか? 希望としてはそうしたいが、立てた予定は常に狂い続けている。
ロッカールームが一際大きくざわついた。
(――来た)
ティディアは息を大きく吸った。
そして、息を潜める。
ざわめきの源が近づいてくるにつれ、とよもす声が厚みを増してくる。
ティディアは意識を集中した。
胸が高鳴る。
心が浮き立つ。
ロッカーの前に人の止まった気配がする。
ニトロだ。
指紋認証の音がする。扉に手のかかる音が鳴る。
ティディアの頬が堪え切れずに緩む。瞳は輝き、緩く開いた扉の隙間から差し込む光に暗闇に慣れた網膜が敏感に反応する。しかし目の痛みよりも、彼女の興奮が勝った。
さあ、ニトロ! 貴方はどんな風に驚くかしら!?
扉が引き開けられた。
「ぅわ!」
と、驚きの声を上げたのは、ティディアだった。
開かれたロッカーの前、彼女から見て長方形に切り取られた光の中に立つのは憔悴し切った少年である。少年は間違いなくニトロ・ポルカトである。だが、その顔はちょっと見たことのない色になっていた。疲労困憊、苦痛に苛まれ、ほのかに見える達成感が彼にわずかな生気を帯びさせているが、もしそれがなければ長患いの末に救われることなく息絶えた苦行僧の死体とも思えただろう。
「「うわあ!」」
と、重なった複数の驚愕は、少年の体の陰、ロッカーに潜んでいたお姫様に気づいた他の利用者達のものである。
――ニトロ自身は、何も発さない。彼はスポーツバッグを落とすように置くと、のろのろとジムのロゴが入ったサンダルを脱ぎ、それからこちらもジムのロゴの入ったシャツを脱ぎ出した。
「わおッ♪」
ティディアは思わず歓声を上げ、次の瞬間、
「……わぉ」
呻いた。
王女の存在が伝播し、ニトロの周囲で人垣となりつつあった人々も声を上げた。
シャツを脱いだ彼の体には痣があった。それほど酷いものではなく、色も薄い。しかし数が多い。無数にある。さらに両腕には酷く赤黒い場所もある。彼がズボンを脱ぐと、先とは違う種類の声が波を打った。太腿は、外側も内側も、広範囲に紫色を帯びていた。
陰るロッカーの底で息を止め、ティディアは動きをも止めていた。目の前にあるトランクス姿のニトロ・ポルカト。以前に比べて引き締まり、ずっと逞しくなった少年の肉体は、それだけに悲惨な様相を呈している。
世に幸運と語られるその少年は眼前の『恋人』に一切構わず、のろのろと脇にのけられていた服を取ろうとした。慌てて彼女が腕を伸ばしてそれを持ち上げてやる。彼はそれを何とも思っていない様子で受け取り――どうやら既に応急処置を済ませてあるらしいが、それでやっとこの有様だ、時折びくりと痛みに震えつつ服を着る。よく見ると唇の内側に向けて裂傷があった。左目の下にも朧げに痣がある。これでは収録に障る、今夜から病院に泊り込ませて
そして最後にジャケットを着たニトロが、緩慢に、足元のスポーツバッグに脱いだシャツとズボンを押し込むために屈もうとし、小さく呻き、やっと屈み込む。
彼はのそりのそりと服をバッグに押し込んでいく。
同時に用をなくしたロッカーの扉が肘に押されて閉められていく。
唖然とした観衆が見つめる中、半ば呆然とした王女が再びロッカーの中に隠れていく。
「あ」
と、声を上げ、ティディアが慌ててロッカーから飛び出ようとしたその瞬間、扉は閉まった。ロックされる音がする。飛び出そうとした彼女は扉に額をしたたか打ちつけ、激しい音を立てて狭いロッカーの中でもんどりうった。