「ああ!」
 闇の中、ティディアは叫んだ。
 当然ではあるがこのロッカーのロックを内側から外す手段はない。通信手段も今は手にない。光学迷彩クロス? 事ここに至って何の役に立つ!
「ニトロ! ちょっとニトロ!」
 体勢を立て直し扉を叩いて必死に叫ぶが応答はない。どよめきは聞こえる。
「ニトロ!?」
 やはり応答はない。ニトロは去ってしまったらしい。では消えぬどよめきは閉じ込められた王女への対処を迷う民草の戸惑いであろう。
 そこでティディアは声を上げるのを止めた。
 戸惑う連中に期待はできない。何しろこれは『クレイジー・プリンセス』のすることである。対処を誤ればえらいしっぺ返しを食らうのは明白だ。そしてこういう場合において何よりも明瞭な頼みとなる少年はバカ姫を放って行ってしまった。もしかしたらこれは彼の“お仕置き”なのかもしれない。では、合理的に考えてどうすることが最も無難であろうか。無論、少年に任せて放っておくことである。
 ならば、今、ティディアにできることは三つだけ。
 一つはニトロが戻ってくるのを願うこと。
 二つは監視カメラで今のやり取りを見ていたはずのヴィタを待つこと。
 三つは――彼女は吐息をついた――扉が開けられるのを待つ間、考えること。
(ハラキリ君は、ジムに来ていない)
 そのことはここの事務室で聞いた。どこに行ったのかは知らないが、彼が気ままに動くのは今日に始まったことではない。
(芍薬ちゃんがあそこまでするとは思えない)
 マスターへの献身振りを鑑みれば逆にあり得ることではある。が、いかに現代医療を当てにしたとしても、テレビ局での収録を明日に控えた晩に、しかも“私”と会う直前であるというのに芍薬自らがマスターへ大ダメージを負わせることなどあり得ない。
 となれば。
(マドネルか)
 しかし、それもにわかには信じられないことである。
 ドルドンド・マドネルに関する報告書に、現役のMAファイター時代であっても彼があれほど“格下”を打ちのめした話はない。それがトレーニングを施す相手に対してならば無論のことだ。なのに?
(ハラキリ君が依頼したのは間違いないとして……)
 その目的も、無論、ニトロを鍛えるため。
 それも肉体よりずっと鍛えることが難しい所を鍛え、格闘技術よりずっと修得の難しいものを得させるために。
 だが、それでもマドネルが首肯する理由としてはまだ足りない。そう思う。
 ティディアはぐるりと思考をもう一度巡らせ、
(――そうか)
 ニトロのためだけではない。それはハラキリのためでもあるのだ。
 マドネルは奇妙な『師弟』を最も間近に見ている人間である。マシントレーニングやストレッチ、スイミングやボディメイキング等のトレーナーもニトロを手伝っているが、それでもマドネルほど『師弟』に接してはいない。ニトロがこのジムにやってきて以来、彼だけが見続けてきたのだ。友への目潰しも金的攻撃をも平然と厭わぬ『師匠』と、何度苦痛を味わわされようが友への信頼を失わない『弟子』を――素直に勤勉に全力で目標に向かおうとする少年と、的確な最善と最悪とを駆使してそれを助ける若者を。その二人の姿に、優しすぎるが故に活躍できず、ジムの師匠オーナーを少なからず失望させ、有望だった後輩を間接的に潰してしまった大きな才能の持ち主は胸に来るものがあったであろう。
 だからこそ彼はニトロをあれほど打ちのめし、そして打ちのめすことができたのだ。
 ふいごによって熱を上げ、赤く輝くその鋼を鍛えるように。
 ティディアは笑った。
(やー。これじゃあこれからもニトロがもっともっとしぶとくなる一方じゃない)
 それにしても癪なのはハラキリ・ジジだ。彼はニトロと私の明日の予定を了解しつつも『弟子』を容赦なく追い込み、さらに、あの曲者は、おそらく明日があるからこそ医療費をこちらが支払うことまで織り込んでいるだろう。きっと恐ろしい思いを味わわされた哀れなニトロに損はない。損は私にばかりある。
(本当、癪に障るわねー)
 そろそろニトロかヴィタがやってくるだろう。
 少年の残り香を嗅ぎながら、笑いながら、王女は助けが来るまで他の誰よりも気に入るニトロ・ポルカトがどれほど性能を上げていくかと夢想に耽ることにした。
 しこうして、彼女がその狭い闇の中から助け出されたのは、緩やかな音楽の流れるラウンジカフェで医療用アンドロイドに見守られつつ、芍薬が買ってくれたプロテイン・ドリンク『筋肉の憩い』をちびちび飲みながら『相方』を待っていたニトロが少し元気を取り戻し、
「ああ、そういえば、何かティディアがいた気がするな」
 と、やっと正常化した思考力を働かせた時のこと。すなわち1時間11分後のことであった。
 その場面を目撃した者は語る。
 その時、偉大な姫君は幼子のように拗ねていた。それは私達の知らぬ顔であった――と。




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