ニルグ・ポルカトは上機嫌だった。
 エールビールをグラスで二杯飲んだ。顔はもう赤かった。今は手元にワイングラスがある。グラスの中で深いルビー色の液体が、大きな窓から差し込む豊かな光を照り返している。
「ハラキリ君は相変わらず顔が変わらないねえ」
 ニルグが朗らかに言う。
「でも、相変わらずひょいひょい食べるから見ていて気持ち良いよ」
 ジン・トニック・デススタイル――およそ百年前に下戸の探偵が主役のドラマから広まった注文方法で、レシピからスピリッツを抜いた、つまりこの場合は単なるライム入りのトニックウォーター――を一口、ほの苦く清涼な炭酸で味蕾をリセットしていたハラキリは微笑し、
「いやいや、やはり見ていて気持ち良いのはニトロ君やおばさんですよ。特におばさんは本当に美味しそうに食べますから、見ているだけでこちらも美味しくなってきます」
「そうなんだよ。リセの食べる顔は見ていて飽きないんだ。だからつい作りすぎちゃってね、ダイエットが大変だって時々怒られるんだ」
「しかし、それがまた嬉しいのでしょう?」
「ハラキリ君は解ってるねえ」
 笑いながらニルグは大きくうなずく。
「栄養のことはちゃんと考えてるからそんな太りはしないはずだけどね。でも、一緒にジョギングするのも楽しいしね」
「そうですか」
 ハラキリは、恥ずかしげもなく惚気のろける友人の父親に苦笑した。しかしここまで素朴に惚気られると、妙な心地良さもある。
「けっこんしてぇ、にゃんにぇんですかあ?」
 ハラキリの隣の女性がべろべろに酔っ払った調子で問いかけてくる。彼女の友人はカウンターに突っ伏して寝ている。以来、彼女はこちらの会話にちょくちょく嘴を挟んできていた。初めは『ハラキリ』『ニトロ』という名からこちらの素性を知って好奇心満々に言葉をかけてきたのだが、今ではそれも関係なく、単純に話し相手が欲しいらしい。
「今年で21年目だよ」
「しゅごーい! しゅぐにててきた!」
「毎年お祝いしてるからね」
「いいにゃー! わたしもおじしゃまみたいにゃだんにゃがほしー!」
「きっと見つかるよ」
「えー!? そうかにゃー!」
「そうだよ」
 根拠はないだろうに、ニルグは自信ありげに言う。深い赤紫色の液体揺れるワイングラスを片手にゆらゆら揺れながら、女性は、
「しんじちゃいましゅよー? にゅふふふ」
 と、満足気に笑い声を上げた。そしてグラスを傾け、喉を鳴らし、フと息を吐き、ふいに糸が切れたかのようにぼんやりとした動きで頬杖を突く。ハラキリは手を伸ばしてそっと空いたボトルの位置を変えた。目がうろんとなっていて、そろそろ彼女も眠ってしまいそうだ。
 それからハラキリはニルグお勧めのスペアリブのグリル、その最後の一つを手に取った。がぶりと齧りつく。肉の旨味もさることながらスパイスのガツンと効いた漬けダレが芯まで染みていて、骨についた身を一片残らず歯で削ぎ落とさずにはいられない。
(嗚呼、ビールが欲しいですねぇ)
 そんなことを思いながらハラキリはひょいひょいと食べる。大きなデドン豆の煮込みはトマトソースに加えられたブイヨンのコクが実に奥深く、ぷちりと弾けた後にほくっと潰れる豆の甘みがまた実に美味い。サラダは驚くほど後を引くドレッシングで食べ飽きず、ベーコン・アスパラ・キノコ・オニオン・パチパ・ブロッコリー・パプリカのガーリック炒めは素材の良さも存分に活かされてフォークが止まらない。
 店は大賑わいだった。カウンター席に空きはなく、フロアのテーブル周りにも隙間はない。立ち飲み席で長居をする者もいれば、慣れた様子で一・二杯とあおるやすぐに去る者もいる。ニルグの隣に座っていた初老の男性は店がこれほど騒がしくなる前に帰っていた。代わってその席には赤ワインのボトルをお供に分厚いステーキをがっつく若い男がいる。彼は一つのことに夢中になるというタイプらしく、周囲の喧騒にも隣席の会話にも一切気を払わず飲み食いを続けていた。
 店員の大柄な男は、今は酒瓶の並ぶ棚の前のカウンターから離れようとしていない。いや、次から次へと入る注文に離れる暇がなかった。ワインを注ぎ、ビールを注ぎ、カウンター客から振られた話題に応え、カクテルを作り、蒸留酒スピリッツを注ぐ。カウンターにはひょろりと背の高い老バーマンもいつの間にか現れていて、ここから見ると大柄な男とひょろりとした老人が場所を入れ代わりながら仕事をこなしている様は一種の人形劇のようだ。次々と用意される酒と料理、同様に次々と空く食器は双子のウェイトレスが忙しく運び回っている。片方は赤毛の長髪で、片方は白髪のベリーショート。片方は常連と軽口を叩き、片方は寡黙に、素早く動き回っている。それもまた一種の演劇のように思えてならない。
 活気に溢れていた。
 どこかで乾杯の音頭が取られる。
 話し声も笑い声もただの一瞬も途切れない。
「そういえば、ハラキリ君はワインも詳しいんだね」
 思い出したようなニルグの問いかけに、ハラキリはフォークに突き刺したベーコンとアスパラを口に運び、
「たまたまです」
「たまたま?」
「ええ。食に通じた方々とお話しする機会も増えましたから、ちょっと予習をしていたんです。そこにたまたまワインの項目があったわけで」
「そっかあ、ハラキリ君はえらいねえ」
 ニルグは感心の目でハラキリを見る。ハラキリは真っ直ぐな感心の眼差しを飄々と受け止めつつ――
「ニトロが頼りにするわけだ」
 ――飄々と受け止めるのが難しくなるのを避けるため、ハラキリは笑みを浮かべて会話を逸らすことにした。
「ところで、おじさん方はお祝い事にはやっぱりワインですか?」
 ニルグは嬉しげに微笑み、
「そうだね、やっぱりワインが多いかな。普段からも時々ワインを飲むけど、だからこそお祝いの時にはちょっと特別なワインをね。それにワインは縁起の良いお酒だから、やっぱり定番だよね」
 ワイン、それも赤ワインはその色から太陽(アデムメデス国教会の象徴イコンは太陽を模している)に通じ、またその色からロイヤルカラーにも通じる。そこで祝祭や祭典において使用が規定されていることも多く、そのため『縁起の良い』酒なのだ。
「定番は強いですよね」
 ハラキリがうなずくと、ニルグもうなずく。
「うん、強いよね。だから定番なんだろうね」
「連続防衛回数最多のチャンピオンです」
「フライドポテトも食べる?」
「いただきます」
「んー、おじさんはもう一杯ビールを飲もうかなあ」
「フライドポテトにはやっぱりビールですね」
「定番だよね」
 ニルグとハラキリは笑った。
「うん。もう一杯くらいならいけるかな。やっぱり飲んじゃおう」
 そうしてニルグは注文をする。カードサイズの端末を操る指は正確で、酔いによって上機嫌になっているとはいえ呂律に怪しいところもまだ出ていない。ハラキリは少し気になって、
「まだまだ飲めるんじゃないですか? お顔は赤いですが、赤いだけ、のように見えますし」
 訊ねられたニルグはその赤い顔をハラキリへ向け、にこりとして、
「おじさんはそんなに強くないよ」
 ハラキリはもう少し深入りしてみた。
「遠慮なさらず飲んでいただいて構いませんよ?」
「遠慮は全然してないよ。おじさんはあとビール一杯がちょうどいいんだ」
 ワイングラスを軽く回して、香りを嗅いで目を細め、すっと穏やかに口に含む。
 ――背後の酔っ払いどもの騒がしい笑い声、隣の愚痴を言い合った後に眠ってしまった二人の女性、年経たウィスキーの味を独り楽しみさっさと切り上げたあの初老の男、ワインを一本水のように飲み干しながらステーキを平らげた若い男。
 赤ら顔のニルグへ、ハラキリはただうなずいた。
 ニルグは何故だか奇妙なほど得意気な顔をして、赤ワインと良いマリアージュのデドン豆の煮込みを食べる。
 一家揃ってこの人も本当に美味しそうに食べる人だ、とハラキリは思う。
 ニルグは少なくなった煮込みを眺め、
「ところで、お腹はまだいている?」
「何をお頼みになるつもりですか?」
「牛スジ肉のワイン煮込み。自家製パンもつけられるんだ。とっても美味しいよ」
「それを〆にするならちょうどいいです」
 ハラキリのこまっしゃくれた台詞回しにニルグは実に楽しげに笑い、端末を操作する。
 その間、ハラキリは携帯モバイルを確認した。
 この店に来る道すがら撫子から連絡があった。それは友人に突発的に仕事が入ったという知らせだった。そのラジオ出演の時間までおよそ3分。ハラキリは設定していたタイマーを解除し、対象の『箱番組』のWebページを表示した。番組によってはスタジオなど現場の様子を同時配信することもある。この短い番組は『突撃』というその性質から“事故”を避けるため、本番中の――ディレクターが撮影し、選択した――写真を適宜アップするようになっていた。それからブラウザとは別にアプリケーションを開き、ラジオの電波を拾う。ネット配信の方が当然音も綺麗だが、すぐにパンクするのは目に見えていた(同じ理由でWebページにアップされるはずの写真が見られるかどうかは甚だ怪しい)。
 こちらを不思議そうに眺めているニルグへ、ハラキリは懐のカードケースから一枚カードを取り出した。それもまたカード型のケースであり、そこから取り出した小さな四角いシリコン製シールのようなものを一つ差し出し、
「ニトロ君がラジオに出るそうです。聴きませんか?」
 ニルグは大きくうなずいてハラキリから使い捨てのシール型イヤホンを受け取った。薄いカバーを外して、左――ハラキリのいる方とは逆の外耳道孔をシールで覆う。と、体温に反応したシールが耳の形に添って密着した。ハラキリは右耳に同じものを貼り付けて、携帯をテーブルに置いた、その時、
「おまたせしました〜!」
 赤毛のウェイトレスがフライドポテトとパルトグラス(パルトは中央大陸西部で使用されていた大昔の単位で333ml)にローペイン産のピルスナービールを満たして運んできた。ハラキリとニルグの間に半月形のポテトの盛られた皿とキンキンに冷えたグラスをトンと置き、空いたスペアリブとサラダの皿を持ち去っていく。
 タイミングが悪かった。携帯とハラキリの間に給仕作業が入り込んだため、操作が遅れた。既に番組は始まっている。まあ突撃インタビュアーである崖っぷちアイドルの挨拶を聴き逃したくらいか。そうでなければ、家で撫子が録音している、後で聞き直せばいい。
 ハラキリはアプリケーションのサウンド設定を操作して、シールイヤホンに音を飛ばした。同時にWebページも自動更新される。へそ出しのタンクトップと下着が見える寸前のミニスカートを穿いたメルミ・シンサー、愛称メルシーが、ホテル――これはホルリマン・ホテルか、そのロビーでポーズを取っている写真が表示された。脂汗が浮かんでいないのが不思議なほど青白い顔をした彼女はマイクを自慢気に示している。そのいかめしい石膏像を無理に笑わせたような顔の上には『本日のマイクはとっても高性能! 音を拾える範囲も広いのです! その理由は・・・本番で!』と直筆で書いてあった。
 ハラキリとニルグの耳に、やたらと媚びた声が響いてくる。

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