経済がテーマの二本目の取材後、記者がエレベーターで降りた頃合を見計らってニトロは部屋を出た。扉を閉める直前、ティディアの静かな怒声が耳をかすめる。国の事業か、それとも王家の事業かに何かあったらしい。それを報せたヴィタの耳打ちを受けた際、ティディアの目に『王女の峻厳』が冷たく閃いたのを彼は見逃さなかった。一方の王女も彼がそれを見逃さなかったのを察し、どこか掴みどころのない表情を浮かべると、ため息混じりに「三十分」と言った。既に執事は三本目の取材陣に遅延の連絡を入れていた。このスケジュールの乱れによってティディアに休憩はなくなる。おそらく三本目の取材中か、それとの入れ代わりで『突撃』されるはずだ。突撃されれば、その後に『ティディア&ニトロ』がいつまでも共にいる理由はなくなる。
 五つ星を贈られるホテルの一階に下りてきたニトロは、エレベーターホールから一直線にロビーラウンジへと足を運んだ。ここからは見えないが、芍薬によればホテルの敷地の外には人だかりができているらしい。そのほとんどは『ティディア・マニア』だ。そして敷地内――レセプション周辺にもロビーにもディナータイムだというのにどこへ行くわけでもない人々が多くある。皆このホテルに王女とその『恋人』がやってきていることを聞いたのだろう。が、幸いなことにラウンジに並ぶ椅子には十分空きがあった。
 このホテルは荘重であるのに重過ぎないデザインで評判だ。到着時は駐車場から直接部屋に向かったために見ることのなかったロビーやラウンジの景色に感嘆しながら、ニトロは目当ての席に座った。こちらを窺っていたウェイターに会釈し、呼び寄せる。カプチーノを頼むとウェイターは颯爽と去っていった。どうやら彼は周囲の目をことさら意識しているらしい。ニトロは己に集まる視線とまともにぶつからないよう柱の陰に消えていくウェイターの背中から目を手元に戻し、そこで、はたと気づいた。
 すぐ隣の席に、へそ出しのタンクトップにミニスカート姿の少女が座っていた。
 ニトロは確かに隣席に人影があることを視認してはいた。
 だが、不思議とその人影を“人”として意識することがなかった。
 ロビーの内装に注意を奪われていたという理由もあるが、いや、違う、“人”として意識しなかったのは、この少女にはおよそ生気というものがなかったためだろう。彼女はゆったりとくつろぐための椅子に背筋をピンと伸ばして座っていた。背と腿の角度は直角である。膝はぴたりと合わせられ、薄い青地のかなり際どいミニスカートから抜き出る太腿の上に、限界まで握りこまれた拳が乗せられている。不動である。彼女は全く動かない。小さめの胸も微動だにしない。本当に呼吸しているのだろうか? 艶のない亜麻色の髪が真っ直ぐ流れ落ちている。幼さの残る顔は驚くほど白く――むき出しの肩や腹よりも青白く、その両目は見開かれ、焦げ茶の瞳はどこか遠い一点を凝視して凍りついている。
「……」
 あまりに異様なのでニトロがついまじまじと見つめてしまっても、彼女は彼の視線どころか、彼が隣に座ったことにすら気づかないらしい。
 よく見ると彼女の全身の中で唯一動いている箇所があった。
 薄幸そうな唇が小刻みに開閉していた。
 周囲の喧騒に埋没していたため今まで言葉としては聞こえていなかったが、そちらに意識を集中して耳を澄ませてみればやっと呟きが聞こえる。ぶつぶつと、ぶつぶつと、それは途切れることを知らない。これは関わり合いにならない方が得策だろう――と思ったところで、ニトロはふと思い当たった。
「……」
 彼は携帯モバイルを取り出しつつショートカットキーを押し、それを傾けた。するとカメラの画角に少女が見切れるくらいになったところで、画面に現れた芍薬がうなずきながらフキダシの中に小さな写真と名前を記載した。
(やっぱり)
 彼女こそ後で一緒に仕事をする相手、『崖っぷち清純派アイドル』ことメルミ・シンサーだった。
 さて、では、どうしたものか? ニトロは考えた。“仕込まれている”とはいえ相手は『気まぐれ』に『突撃』してくるのである。ここは素知らぬふりをしてカプチーノを飲み、このまま退散すべきだろうか。それとも一言挨拶しておくべきか。……いや、挨拶というよりも、
(この石化を解いておくべきか、かな?)
 正体が解ってしまえば彼女の異様な状態も容易に理解できる。
 緊張しているのだ。
 みしと心臓が張り裂けかねないほどに。
 他のスタッフらしき人間が近くに見当たらないところからすると、本番前に一人になりたいと思ったのかもしれない。シンサーの前には色の薄いオレンジジュースで満ちたコップがある。一口程度しか飲まれていないようだ。コップの氷は全て溶けていた。かなりの時間を彼女はここでこうしているらしい。
 ウェイターがカプチーノを持ってきた。
 ニトロは不自然に思われない程度の大きさで礼を言った。
 ウェイターは光栄だとばかりに顔を輝かせて優雅に頭を垂れ、また颯爽と去っていく。
 カプチーノにはラテアートが施されていた。見事な四葉のクローバーだ。ニトロは携帯のカメラで写真を撮った。画面に居残る芍薬のデフォルメ肖像シェイプがウィンクすると同時にシャッター音が響く。――だが、シンサーは微動だにしない。
 ニトロはカプチーノに砂糖を入れ、スプーンでよくかき混ぜながら思った。
 やはり、礼儀として挨拶はしておくべきだろう。石化を解くかどうかは二の次だ。
 ニトロはシンサーに声をかけようとして、ふいに彼女のつぶやきが止まっていることに気づいた。彼女の両目も閉じられている。やおら彼女の眼がカッと見開かれた。そのあまりの勢いにニトロはビクッと身を引いた。彼女の唇は再び小刻みに開閉を始める。ほんのわずかな声量が彼女を激しく意識したニトロの耳に届いてくる。声が小さい上に驚くべき早口であるが、何とか聞き取ることができた。
「みなさんこんばんはーっ崖っぷち清純派アイドル・メルミ・シンサー、略して伸ばしてメールーシーっだとぼんやりちゃん☆なのでメルシーでッす」
 確か“メルシー”はどこかの言葉で“ありがとう”だったはず、とニトロは思う。
「今日はメルシー、なんと、ホルリマン・ホテルにやってきたッす。メルシーッ!」
 メルシーッ! とそこだけトーンが1mmほど上がったのは、おそらくそれがキャラ的な口癖か決め文句であるのだろう。
「すごいッしょう? すごいッす。それよりすごいッすのが、なんと、今日、メルシーはあの方々に突撃しちゃンッす。あの方々って? 誰だと思ッす? みなさん驚きメルシーッすよ、この扉の向こうにいらっしゃいます、メルシーどっきどっきで死んじゃいソッす、メルシーが死んじゃう前に早速いっちゃいましょう――ガチャ――ティディア様、ニトロ様でぇッす!」
 そこで彼女の言葉が止まる。
「……いいえ。やはり最初は挨拶しないといけませんね、礼儀ですもの」
 彼女は目を閉じ、そうつぶやいた。
(――なるほど)
 ニトロはメルシーに声をかけるのを止め、カプチーノを口に含んだ。ほろ苦さと、クリーミーなミルクの木目細やかな泡の口当たりと、砂糖の甘さが喉を落ちる。とても美味しい。
予習シミュレーションの真っ最中か)
 メルシーは再び目を開くと――ガチャ――と扉を開けたところから馬鹿丁寧な挨拶を加えてやり直し、また止まり、少し気軽な調子に落とした挨拶を加え、また止まり……おそらくさっきから何度も何パターンも試行錯誤していたのだろう様々な挨拶の文句をいくつか連続で口にした後、もう一度挨拶無しのパターンに戻ってきて、そこから先を続け始めた。
 ニトロは仕事に備える彼女の邪魔をすまいと、静かにカプチーノを飲んでいた。
 するとふいに『ニトロ・ポルカト』に声をかけてくる者があった。ニトロが振り向くと、そこには小学生くらいの女の子がいた。その背後には頭を深々と垂れる父親がいる。握手を求められ、ニトロは快く応じた。写真にも応じる。少女は歓声を上げ、これ以上は迷惑だと思ったらしい父親に強く促され、親子共々お礼を述べてからエレベーターホールへと向かっていった。
 その間にも、メルシーは不動であった。その耳は己の声の他に周囲のどんな音も聞こえていない。目は開かれていても視野には何も写っていまい。彼女が見聞きするのは彼女の思い描く未来だけだ。――だが、その未来は果たして実現できるだろうか? 彼女はたった一つの未来しか考えていないわけではない。挨拶のパターン同様、話題の道筋も無数に想定して予習を繰り返している。上流階級ポライトソサエティ的なものから庶民的なもの、形而学上的なものから下ネタまで。
(……バラエティは豊かだけど)
 カプチーノを啜りながら、ニトロは思う。
(でも、質問の内容は無難なものばかりだな)
 それだけではない。メルシーもティディアの『クレイジー』さを当然知っているだろう。それを盛り込んだシミュレーションも無論あるようだ。しかし甘い。ティディアはもっと性質が悪い。冒頭から黙り込み、15分間中にインタビューを充実させなくてはならない『崖っぷちアイドル』が慌てふためく様をにやにや――ラジオなのに!――見守ることも平気でする奴だ。なのに、そういった極端なパターンは意図的に排除されているように出てこない。
(……)
 それからニトロが思うのは、彼女のシミュレーション通りにいったとして、それは面白いものになるのだろうか? ということだった。例えば、先ほどの取材、ニトロは“経済がテーマ”というその取材に対して自分が必要かどうか疑問だったのだが、聞き手はまずこちらに質問をしてきて、その答えを膨らまして新たな質問を投げかけてきて、それはさながら雑談に花が咲くような調子で、その雑談は気がつけば『庶民ニトロ』の肌感覚から『為政者ティディア』への専門的な議論へと変化していた。もちろん自分は専門的な話にはついていけない。しかし聞き手は専門的な話も状況に応じてうまくまとめてこちらの応え得る質問を絶えず投げかけて、こちらの話に常に耳を傾けてきた、傾けようとしてきた。――それに比べると、メルシーのシミュレーションは、相手の話を聞くというよりも、相手を質問に合わせること、あるいは質問に返ってきた答えに次の質問をきちんと継ぐことを主体としているように思える。そうやって筋道を整えられたインタビューは確かに形としては綺麗に纏まるだろうが、それが『崖っぷちアイドル』をすくい上げるような個性を発揮できるかには正直疑問しかない。
 そして一方でまた、ニトロは思う。

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