ミッドサファー・ストリートからシェルリントン・タワーを有する摩天楼へと繋がる道の途中に、その店はあった。雑居ビルの三階。開け放しの入り口からは賑やかな声が溢れ出ている。
 中に入ると大きな窓がまず目についた。窓の下にはブラウンの大理石様のカウンターがあり、線の細い丸椅子が等間隔に並べられている。フロアにも同じく大理石様の天板を戴くテーブルが五席、サイコロの目のように並べられている。こちらはいずれも立ち飲み席で、十数人の客らが互いに場所を与え合いながら酒気にくすぐられて揚々と和していた。各テーブルの上には古い裸電球を模した照明が吊るされている。
 そう広いわけでもないのだが、不思議と解放感のある店だ。
 店に入って左側には満席のバーカウンターがあり、奥の棚には一目見て種々様々に100本以上の酒瓶が並んでいる。その端には樽が一樽押し込まれるように置かれていて、それはどうやらワインサーバーであるらしい、蓋板から突き出た三本のノズルが照明を銀色に照り返している。バーカウンターにはまたビールサーバーのノズルが壮観にも10本、金色に輝く首を覗かせていた。
「らっしゃい」
 ちょうど金曜の夜ということもあり、すでに混んでいる店内に野太い声が響く。テーブルの立ち飲み客に料理を運んでいた大柄な男がこちらにやってきた。四角い鼻の両脇で丸く膨らんだ頬が忙しさのために赤く染まっている。
「お二人?」
 ニルグがうなずくと店員もうなずき、
「テーブルなん隙間が有らどこんでも。カウンターがよかんば」
 と、彼はバーカウンターを一瞥してから指を窓へ向けて、
「あっちだすな」
「あっちにします」
「よがす。それはあずかりやしょうか。れが、飲みなさるか。そん場合は持ち込み料をいただくが」
(ローペイン訛りか)
 店内から浴びせられる新規の客への好奇心をニルグの背後に隠れてやり過ごしつつ、ハラキリは一人得心していた。中央大陸西南部にあるローペイン地方は酒の一大産地として有名で、ビールやウィスキーはもちろん、有名なワインの産地もある。よく見ればバーカウンターのワインサーバーにはローペイン領の紋章が飾られていた。ならば、あのサーバーには地元の人間の選んだテーブルワインが詰められているということか。
(となると実際、残念ですねえ)
 優良店であればあろう程にハラキリが内心がっかりしているとは露知らず、ニルグは店員にワインを預けていた。
「なば、お帰りんときに」
「はい、よろしくお願いします」
御名前おんめは」
「ポルカトです」
「ポルカさん。かしこまりだす。こちらを。面倒めんどなら言ってくれてかまんですから」
 そう言ってニルグに何かを手渡し、店員はさっさとバーカウンターの内側に戻っていく。その背に注文の声がかかり、彼は野太くそれに応える。
「じゃあ」
 ニルグが振り返り、ハラキリを促した。ハラキリは酒棚の下に預かったワインを仕舞い込むやジョッキを手にビールサーバーへ向かう店員からニルグへ視線を移し、ふと感じた物足りなさに思わず笑んでしまった。
 そのハラキリの笑みを、ニルグは息子の親友がこの店へ好印象を得たのだろうと解釈した。顔を輝かせるニルグの様子にハラキリは誤解されたことを悟ったが、あえて訂正することもない。人にぶつからないよう移動して窓の下のカウンター席に辿り着く。と、先ほどまで見えていた二つ並びの空席がなくなっていた。どうやらテーブルにいた一人が移動してきたようだ。もう二つ空席はあるが、一人を挟んで飛び石になってしまっている。
「ああ、どうぞどうぞ」
 すると飛び石の間にいた初老の男性が察して席を移ってくれた。
 礼を言ってニルグが男性の隣に座り、ハラキリも礼を言ってから席に着いた。男性は会釈を返した後は窓の外へ目を移し、カンヨウプラムの並木道を歩く人々をしみじみと眺め、喧騒賑わう店内で一人静かに琥珀色の揺れるショットグラスを傾ける。ハラキリの右手では若い女性二人が何やら悪口で、いや、悪口の形を取った愚痴で盛り上がっていた。
「さあ、ハラキリ君。何を飲む?」
 ニルグが満面の笑顔で問いかける。彼は店員から受け取ったカードサイズの端末に指をサッと這わせた。すると二人が肘を突く大理石様のテーブルの上にメニューが投射される。実に豊富な酒の名がハラキリの目に飛び込んできた。
 やはり、と、ハラキリは苦笑した。
 ここで言われるままに酒を頼んでもいいが、いいや、この人に無用の迷惑をかけてはいけない。
「おじさん」
「なんだい?」
「拙者は未成年ですよ」
 苦笑したままハラキリが言うと、ニルグはきょとんとした。きょとんとして、次いで怪訝な様子でじっとハラキリを見つめたまま、固まってしまった。
 思わぬほど沈黙が続いたため、ハラキリは困り顔で言った。
「いや……昨年、おじさんとおばさんに17歳の誕生日パーティーを開いてもらったじゃないですか」
 そこまで言われてやっとニルグは「ああ」と口にし、直後、全身で困惑と照れとを同時に表すや口早に、
「そうだ、そういえばそうだったね。しまった、おじさんうっかりしていたよ。すっかりハラキリ君はお酒が飲めるものだとばかり思い込んでた。ごめんね」
「いえ、実際酒は好きですから」
「あれ? じゃあやっぱり飲めるの?」
「『特区』でなら」
「――ああ」
 ニルグは深く納得したように吐息混じりにうなずいた。
「そっかあ、失敗しちゃったなあ」
 腕を組んで眉根をひそめて呻き、はたと顔をあからめて、
「そうだ、『酔い止め』を飲めば――」
 アデムメデスでは、15歳以上で保護者の監督下であれば、アルコールの吸収を阻害し、かつアルコールを胃と小腸内で分解する『酔い止め薬』を使用することを条件に15度以下の酒類の摂取を350mlまで認められている。
「――でもあれはお酒に対して失礼だしなぁ」
 自分で言おうとしたことを自分で否定して、ニルグはうなだれる。そのニルグのセリフにハラキリは大いに関心を引かれた。
「お酒に対して失礼、ですか」
 ハラキリにそう問われたニルグは大きくうなずき、しかし何かに気づいたらしく慌てた様子で首を左右に振り、再び口早に語り出す。
「いや、『酔い止め』が悪いんじゃないんだよ? 二日酔いは誰だって嫌だもんね。そういう風に使うのも問題があるわけじゃない。ただ個人的に勧めるのはやめにしておきたいんだ。僕がお酒を造る人だったら、お酒を飲むならやっぱり『お酒』として楽しんで欲しいからね。――もちろん料理に使うのも別だよ? そういうのとは違ってね、なんて言うのかな、お酒も一つの料理なんだよ。素材にもなる料理。これ一つでも完成しているけれど、他のものと合わせても美味しいんだ。例えば野菜や果物がそうであるように、例えばハムやチーズがそうであるように。そして唐辛子の入った料理を食べたら辛さに舌がびりびりきて汗が吹き出してくるように、お酒も飲んだらお腹からぽかぽか温まったり、ちょっと陽気になったりするのまでが味なんだ。でも唐辛子の入った料理から辛さを抜いたら味気ない。アラビアータから辛さを抜いちゃったらそれはもう別のトマトソースでしょ? 僕はお酒もそうだと思うんだ。ああ、僕は何を言っているんだろうね。だけど辛いのが苦手な人が辛さを避けるのはもちろん正しいし、だからアルコールが駄目ならお酒は飲まなくて当然正しいんだけど、ああこれはまた別の話だね」
 ハラキリは我慢できずに笑った。声を立てて笑うのは忍ばれる。しかし大いに肩を揺らした。
 失態に基づく動揺が取り繕おうとする心を乱し、そこに普段から抱く趣味の料理への情熱がうっかり絡んでしまったものだから始末に負えない。それを半ば自覚しつつも、それでも止まれず言葉を紡いではまた動揺するニルグの様子は、こう言っては何だが微笑ましい。もし、ここに彼の息子がいたら一体どんな顔をしただろうか。どんなことばをツッコンで父の混乱を整えていただろう? そこに思いを馳せればまた笑いがこみ上げる。
「――いや、失礼しました」
 ようやっと笑いを押さえ込んだハラキリが目を上げると、ニルグはまたもきょとんとしていた。その肩の向こうでは初老の男性が心地良さそうにしている。
「失礼ながら、慌てた時のお顔が息子さんとよく似ていたものですから」
 流石に本音をそのまま言うのは憚られ、ハラキリはそう取り繕った。とはいえその言葉も半ばは事実であり、息子に似ていると言われたニルグは眼に喜色を浮かべ、しかしすぐに情けなさそうに眉を垂れた。
「でもニトロは僕に似ずにしっかりしてるからねえ。よく怒られるんだ」
 そう言いながらも、やっぱりどこか嬉しそうな父の顔だ。ハラキリはそれも微笑ましく思いながら、反面、『ニトロ』という名をはっきり出されて少し困った。『ニトロ』という名はよくある名なので問題があるわけではないが、自分の名は珍しすぎる。そこに『ニトロ』を併せられると時々面倒事を招き寄せてしまう。しかも“そういうこと”が好きな人にとっては『ニルグ・ポルカト』とて名と顔の知られた人であるのだから。
 そこでハラキリは話題を戻すことにした。
「まあ、何にしても、拙者もおじさんと同じですので」
「同じ?」
 ニルグが問い返す。ハラキリは笑顔でうなずいた。
「拙者も酒は『酒』として飲みたい派、ということです。それに今日はここにテイスティングに来たわけではなく、おじさんに美味しい食事を奢っていただきに来たわけですから」
 三度、ニルグはきょとんとした。しかし今回は短い。ニルグは感嘆に目をみはり、吐息混じりに言った。
「ハラキリ君は、上手だねえ」
「そうですか?」
 ニルグはハラキリを少しだけ穏やかに見つめ、それからメニューに目を移した。表示されっ放しだったメニューに指を触れてページを変える。
「それじゃあ、じゃんじゃん奢らせてもらおうかな。好きなものをどんどん選んでくれるかい?」
「お勧めはありますか?」
「お店の?」
「おじさんの」
「ハラキリ君は上手だねえ」
 肩を揺らしながら再びそう繰り返したニルグは心底嬉しそうに言う。
「それじゃあスペアリブのグリルは是非食べてもらわないとね」
「お任せします」
「それから――おじさんは、ビールも飲んじゃおう」
 そう言ったのはむしろこちらへの気遣いだ。ハラキリはうなずき、
「こちらはジン・トニックをデススタイルで」
 メニューにばかり目を向けていたニルグがハラキリへ振り向く。しかし何も言わず、ただ面白そうに微笑んでメニューに戻る。
 ニルグが店員から渡された端末を通じて注文すると、酒瓶の並ぶ棚の向こうからキッチンでやり取りする声が聞こえてきた。
 注文を終えたニルグは、窓の外、明るい街灯に青々とした葉を照らすカンヨウプラムの並木道を見下ろしながら、ふいに、どこか深刻そうに言った。
「……ところで、ハラキリ君」
 ニトロの父の一変した様子にハラキリは怪訝な目を向け、やや真剣みを帯びて問うた。
「何でしょう」
「さっきのことなんだけど、恥ずかしいからさ、ニトロには秘密にしてくれないかな……」
 ハラキリは、実に楽しい晩だとしみじみ思った。

→5へ
←3へ
メニューへ