アニー・フォレストからの手紙を読み終えたミリュウは、もう何度目かの再読にも関わらず目を潤ませている。
 その様を横目に見て、ティディアは頬の裏側で微笑んでいた。
 第二王位継承者の涙は下睫毛にせき止められて、手に持つ板晶画面ボードスクリーンの光を下から受けてきらきらと輝いている。初めて読んだ時、妹はきっとぽろぽろと泣いただろう。だが今は涙を落とさない。だが、その輝きこそは、優しい妹の美点そのものである。
「――ミリュウ」
 タクシーに偽装した車の中、フードの付いた漆黒の服に身を包んだミリュウは姉の呼びかけを耳にするや顔を上げ、居住まいを正した。
「準備は?」
 ミリュウの隣、同じ後部座席に座る姉は黒いスプリングコートをまとっている。その下には特殊な繊維で作られたドレスがある。
「お姉様の計画通りに」
 ティディアは目で報告を続けるよう促した。ミリュウは即座に応じ、
「ハンナ・フォレストはよく眠っています。各装置の動作確認も完了し、いずれも問題ありません。パティの仕事は完璧です」
 ティディアはうなずく。
「先ほど酔い潰れた男性がアパートの入り口に居座っていましたが、既に警察の手で保護いどうさせてあります」
 ティディアはもう一度うなずく。
「ゴコルテ児童福祉局はアニー・フォレストの保護、及び親権者の選択における問題点を認め、関係者の処分を決定しました――が、これについては関係者の処分のみで済ませることなく、組織全体に恒常的な問題が発生していないか、第三者機関による調査を命じておきました。無論、これらはゴコルテ・アスニフを介しています」
 ティディアはまたうなずく。
「アンナ・フォレストについては」
 ミリュウの声がほんの幽かに固くなった。ティディアはそれを無視する。
「お姉様の計画通りに処置致しました。今後、全ては最適なタイミングで実行されます」
 ティディアは自身の予測を言うよう心中で促す。ミリュウはそれを察して告げる。
「――しかし、間違いなく、彼女は駄目でしょう」
 事務的な態度を貫こうとするミリュウの声には、一瞬、ほんの幽かに、『我らが子ら』への憐れみがこもっていた。ティディアはそれも無視する。それは私が潰してはならない妹の利点なのだ。ミリュウは報告を続ける。
「また、『実母』が今後何を言おうともアニー及び養母の権利を脅かせないよう手続きを行い、こちらも全て完了し、両者の安全を確保致してあります」
 ティディアは満足だった。
 ミリュウの働きにも満足だったし、ハンナ・フォレストという女にも満足だった。
 三日前、ハンナ・フォレストにはゴコルテ児童福祉局員として優秀な児童福祉士と心理分析官を派遣し、親権委譲時に問題があったことが“問題”となった、そのため改めて話をお聞かせ願いたい――という形を取り繕って面接を受けさせた。
 何故アニーを引き取ったのか、その動機を探るためだ。
 一見善人のようでも実は悪人だった、などというのは世にごまんと溢れる話である。少々極端だが、アニーの手紙に出てきた『マクガーソン家のアンナ』のような話もある。あれは“第一部”だけなら確かに低年齢向けにも編纂される感動作だが、一方で『続編を読んではいけない』作品としても有名だ。第二部では、確執の末に第一部の最後で和解したはずの伯母が、実は最大の復讐のために和解した振りをしていただけであり、多くの人に裏切られて疲れたアンナが最後に頼ってきたところで本性を現す。伯母は愕然とするアンナを嬉々として罵倒し縁を切る。しかもそれは憎い妹に復讐できない代わりにその娘に復讐する、という動機からだった。最後の最後で信頼する人物からあんまりな裏切りを受けて絶望し切ったアンナは嵐のヒースの荒野へさまよい出ていき、大きな雷が落ちたところで第二部は終わる。これは作者の半自伝的な小説で、実際には三部構成であり、遺されたアイディアノートによると第三部では心身ともにボロボロになったアンナの再生と人生への讃歌が描かれて完結するはずだった。作者は、しかし第三部の冒頭すら書くことなく病に倒れた。
 ハンナ・フォレストは、最初は全くの勢いでアニーを引き取ったと言う。この子を見捨てることは両親や兄達の同類に成り下がるという憤り、子どもの気持ちなど関係ない、そこにあったのは己に対する義憤だけだった、と。それは自分の収入なども一向に考慮していない、軽はずみな動機だった。“児童福祉局員”の指摘を受けるまでもなく彼女もそれを自覚していた。けれど、と、ハンナは言った。今思えば、大声で罵り合う大人の間で怯えた目をしながら懸命に笑顔を浮かべる小さな女の子――その腕には幾つも痣があり、顔は確かに大嫌いなアンナにそっくりだけど、同時に昔の自分にもよく似ている女の子を見捨てることはわたしには絶対に出来なかっただろうと、ハンナはそう言っていた。
「初めはママと呼ばれることを恐れていました。でも、今はこのままずっとママと呼ばれなかったらと思うと怖いのです」……面接の最後にこぼれた、ハンナの言葉。
 軽はずみな動機故の後ろめたさから活用できずにいた自治体の子育て支援制度等の書類を取りまとめた後、児童福祉士も心理分析官も問題なしと報告した。ティディアも同意見だった。根拠が無くてもアニーの不安を取り除くことは可能だが、根拠があればその可能は磐石となる。魔法の言葉は、そう、実際の言葉となるのだ。
 車が止まる。深夜二時。車道にも歩道にも人気はない。周囲には安い作りのアパートが目立ち、車の止まった真横にも三階建てのアパートの入り口がある。窓は三階の隅の部屋を覗いて真っ黒だ。アニーとハンナの眠る二階の部屋も真っ暗である。周囲には人っ子一人どころか、足音すらない。
 ティディアはミリュウに顔を向けた。これから『黒子』を務めようという妹は、姉の眼差しに真剣な眼を向ける。ティディアは、ふと、微笑んだ。
「ミリュウ。上出来よ」
「そんな――まだ終わっていません。お姉様、そのお言葉はあまりに早すぎます」
 生真面目な妹の生真面目な返答に、ティディアは微笑みを絶やさぬまま少しだけ首を傾げてみせる。その様子は妙にまなめかしく、ミリュウの頬にはまるで酔ったかのような紅が差す。
「――それに、あまりに勿体無いお言葉です」
 消え入るように言うミリュウの頬へ、ティディアは不意に手を当てた。ミリュウは驚き、硬直する。ティディアの手が金縛りにあったミリュウの頬からびんへと伝い、彼女の前髪を持ち上げ、そして賢さに秀でる額に柔らかい唇が寄せられる。
「――」
 ミリュウが、吐息を漏らした。
「ごほうび」
 惚けたような妹へティディアは笑いかける。そして、にわかに顔を引き締め、
「さあ、それじゃあ行きましょう」
 タクシーを運転してきたティディアの執事の『犬』がドアを開ける。すると我に返ったミリュウが力強くうなずき、フードを深くかぶると襟と一体になったマスクを目元まで引き上げ漆黒の影となる。そして二人の『おひめさま』は、人の息の音すら聞こえぬアパートへ足音もなく忍び入った。

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