「アニー」
ハンナに買ってもらったベッドの上、ハンナに名前を刺繍してもらったケットに温かく包まれながら不安な夢を見ていたアニーは、どこかから聞こえてきた声に薄く目を開けた。
「アニー」
初めは気のせいだと思った。その夢の中から聞こえてくるような華やかな声、夢のような声に、気のせいだと思った。
「アニー」
だが、気のせいではないらしい。アニーは目を開けた。まだぼんやりとしたまま、目をこすり、小さな肩を持ち上げる。
「だれ?」
つぶやくような声に、『声』が応える。
「ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
アニーは目をこすっていた。目をこすり、やがてはっと目を醒ました。
「おひめさま!?」
大声を出す。それからはっと口に手を当てて、ハンナを見る。ハンナは安らかに眠っている。アニーは慌てて駆け寄り、ハンナを起こそうと揺さぶった。だが、彼女は起きる気配すらない。
「眠らせておきなさい」
どこからともなく聞こえる王女の声は、微笑んでいる。アニーは驚いていた。おひめさまはどこにもいない。なのに、まるでお部屋の中が見えているようだ。本当に何でも知っているのだ。
「私は外にいる。さあ、アニー、おいでなさい」
アニーは眠るハンナの横顔を見た。
「あなたの手紙を読んでやってきたのよ。素晴らしいお手紙をありがとう。素敵なハンナさんはそのまま寝かせておいて、さあ」
その言葉が、
そして外に出たアニーは、息を飲んだ。
「こんばんは、アニー・フォレスト」
電気の全て消えた真っ暗な廊下の中、不思議と外からの光も見えない闇の中で唯一つ、淡く白く輝くドレスに身を包んだ美しい女性が微笑んでいる。
不思議な光景だった。アニーの吐息ですらそよぎそうな薄い布地が折り重なり、その襞の内側から放たれているような光でその人は自ら輝いている。純白の衣に負けぬほどに白いその肌も光を帯びている。非現実的な光が非現実的な闇を押しのけて――その中に美しい女性が凝縮するように、しかしどこまでも膨張するように、それなのに驚くほど静かに佇んでいる。その人はそうやってそこに佇んでいるだけなのに、圧倒的な存在感がアニーの胸に迫る。ああ、人の魂を吸い取る瞳がある。透き通る黒曜石にも似たその瞳がアニーを見つめている。アニーは、その人の衣の上に、衣とその人自身が放つ光の他に、何かもう一つの目に見えない偉大な衣があるような気がしてならなかった。幼いアニーには、それが“威厳”という言葉で表されるものだとはまだ理解できない。しかし、例え言葉としては理解しなくとも、
魅入られたように息を止めるアニーの体の中で、その時、何かが壊れた。それは“おひめさま”と呼ばれた母の姿であった。今『本物』を目の前にして、幼子は過去の幻影を完全に忘れ去ったのである。
「あなたが私に聞きたいことに、答えに来たわ」
部屋の中ではどこからか聞こえた声。しかし、今は目の前に立つ美しいお姫様の唇からこぼれ出た優しい肉声。
「でも、その前に一つだけ、お約束」
「おやくそく?」
アニーが小さく聞き返す。まだ呆然としている少女へ、ティディアは悪戯っぽく片目をつむってみせる。艶めく黒紫の髪が揺れ、直接触れているわけでもないのにアニーは首筋を柔らかな毛先で撫でられたような気がしてぞくりと震える。そこに、王女の言葉が差し込まれる。
「今日、ここで私と会ったことは誰にも言っちゃダメよ? 特にハンナさんには言っちゃダメ」
「どうして?――ですか?」
「私は何でも知っているの。アニー、あなたとハンナさんが言った通りよ。だから私は色んな秘密も知っている。それを今夜はあなたに特別に教えに来た。でもね? 秘密は秘密であるから意味がある。秘密にしておかなければいけないこともあるし、秘密にしているから大切なことを守れることもある。アニーが私と会ったことをしゃべったら、アニーは私から何を聞いたかを話さなくちゃならなくなるでしょう。――あの手紙のことも」
アニーはびくりと肩をすくませた。そう、アニーはあの手紙をハンナには秘密で出している。あの手紙の内容は、ハンナには知られたくないはずだ。そしてこの言葉――ハンナに秘密で手紙を出したことを知っている王女のこの言葉は、アニーの心に決定的な“意味”を与えた。
「だから、秘密にするの。もっとずっと後……例えばアニーが今のハンナさんくらいになってからだったら話してもいいかもしれない。でも、今は秘密」
すっと立てた人差し指を唇に当て、ティディアはアニーを覗き込む。
「私と、約束できる? これは私とあなただけの秘密だって」
アニーは、ティディアの瞳に映る自分の影を見つめながら、意識を奪われたようにぼんやりとうなずいた。
「いい子ね」
目を細め、ティディアは言う。そして、アニーの目を真っ直ぐ見つめたまま、彼女が手紙で質問してきたことに答えていく。
お姫様が言葉を紡ぐ度、アニーの心から不安が消えていく。
お姫様が未来を語る度、アニーの心には希望が増していく。
「――いつか、今は怖くても、大丈夫――あなたがハンナさんを『ママ』と呼べる日は必ず来るわ」
最後に告げられたその言葉に、アニーは自分でもよく解らないまま涙をこぼした。
涙の流れる頬にお姫様の唇が触れる。
唇は別れの言葉をそっと囁いた。
部屋に戻ったアニーは、穏やかに眠るハンナさんにそっと手を触れ、ハンナさんの体温を手に残したままベッドに戻った。
ほのかに甘い香りがした。
アニーは深い眠りに落ちる。
不安な夢はもう見ない。
ただ、眠る前に見た『夢』が、彼女の夢を未来へ運ぶその『夢』が、いつまでも忘れられない温もりとして、彼女の心を愛撫し続けていた。
終