リセ・ポルカトが息子からのメールを見たのは、正午を過ぎてからのことだった。
 今月は久々に夫婦共に土日休みのシフトとなり、週末の休暇を謳歌するために午前中から夫と映画館にやってきていたのである。
 夫婦が鑑賞したのは、先月アデムメデスで封切りしたセスカニアン星のFVフルヴァーチャルファンタジー映画だった。スクリーンと、ヘッドマウントディスプレイと、シアターならでは音響システムを連動させることで、まるで自分もその物語そのものの中にいるように感じられる。スクリーンへ顔を向ければそこには常に『主人公』がいるが、その他周囲360度のみならず天地のどこに目を向けてもそこには立体的なビジュアルがあり、例えば背後に目を向ければ『主人公』と『ヒロイン』が交わす会話を聞きながら“その時”“彼らを取り巻く環境”を眺めることもできる。また例えば、アクションシーンにおいて、昔ながらのスクリーンでは突然横手から飛び込んでくる急襲者を、FVではその場面の直前で横を向けばその急襲者がどこから出てきたか――建物の影に潜んでいたのか、それとも『主人公』の仲間の妨害をかいくぐってきたのか、そういった瞬間を無敵の第三者として目撃することができる。カメラワークも演出も、基本的にはスクリーンを向いて鑑賞することで一番楽しめるようにできているが、どのように見るも自由だし、どう見たところで臨場感は素晴らしい。何をしなくても幻想的といわれるセスカニアンの大森林を舞台に撮られたその映画は、リセに、まだ行ったことのないその場所の植生を手に取るように感じさせるものであり、むしろ本筋よりもそちらが目当てだった彼女にとって大満足の出来だった。
 一方、本筋自体はクラシカルな英雄譚で驚くような展開はない。それでもアデムメデスに輸入されるくらい話題になったのは、それが驚くような展開はなくとも良くできた王道の作品であることと、持ち味の臨場感の強さが往々にして物語を阻害してしまうというFV映画の弱点を、小気味の良い演出と、重要な登場人物を思い切って観客に重ねることで克服したためだ。つまりその重要な人物は画面には決して現れずに声だけの出演であり、観客はその人物の目を通して歴史の一幕を見るという構成こころみ。それが上手く噛み合ったことで、一つのモデルケースとしても成功したのである。
 実際、ニルグ・ポルカトは作品を存分に楽しんで、作品の本筋については夫の感想を聞くことを楽しみにしていた妻の期待に添えるだけの言葉を胸に溜めていた。
 映画館から出た二人は目をつけていたレストランに入り、個室に腰を落ち着けた。夫婦で飲食店に入った時は、いつもリセが先に注文を決める。ニルグはメニューをまるで論文を読むようにじっくり眺める。それがポルカト夫妻のリズムである。
 リセは家を守るメルトンに映画を見終えたことと「楽しかった」ことを伝えようと携帯モバイルを鞄の中から取り出して、そこで息子からメールが届いていることに気がついた。
「あら」
 と、微笑み、自慢の息子からのメールを開く。教えたカフェに向かっていることを知らせる一文を読み、添付されていた写真を見て、
「あら?」
 と、リセは眉をひそめた。
 そこに写る花……
 彼女の眉間に影が落ちる。
 ……原種とは咲き方が違う――彼女は記憶を探る――園芸品種にも見られない形だ。確かに似た形状は見たことがあるが、ここまで鞠状になるのは稀有だし、少なくとも自分も見たことは無い。が、葉や萼の特徴は原種と同じに見える。それに花自体も既知のものとは違うとはいえ……この光沢といい、花弁の形といい、よく似ている。このように鞠状に丸くなるのではなく、もし先端がもっと反り上がって八重の釣鐘型になっていれば原種そのもののフォルムとなる。だが、色が不可解だ。この色調に近似のものは原種にはなく、とはいえ園芸品種には近いものはあり、しかしその園芸品種ですら色の変化がここまで顕著で、しかも三色が同居しているのは――既存の色と模様の掛け合わせ次第では可能かもしれないとはいえ――未だ存在していないはずだ。
「あらあら?」
 そして何より、写真の隅でぼやけている花が最も気にかかる。それは半ば散り、花托かたくが膨み始めていた。おそらく息子はこれには気がつかなかったのだろう。いや、気がついていたとしてもまだこの程度では『同定』は難しいだろうか。もしコレが本当に実をつけることが可能であり、そうしてその実の形が既に完成していれば、息子もコレが何であるかを容易に悟ったことであろうが――
「あらあらあらあら?」
 携帯の画面を凝視し何度も首を傾げ、三度目の困惑の声が上がったところで夫が声をかける。
「どうかしたのかい?」
「ひょっとしたら大変よ、あなた」
「ひょっとしたら大変なのかい?」
「ええ、ニトロったら大変なものを見つけちゃったかも」
「ということは、ひょっとしたらニトロが大変なのかい」
「そう、大変なことよ」
「それじゃあ大変にならないようにできるといいね」
「だけどもしかしたら大変じゃないかも」
「大変なのかもしれないんだろう?」
「だから確認してみなくちゃ」
「確認できるのかい?」
「わたしよりとても詳しくて、とても大変なことにも対応できるお友達がいるから」
「そうかい。持つべきものは友達だねえ」
「だから、注文は待っていてくれる?」
「いいよ。大変になりそうなら急いだ方がいい」
「でもね、あなた、大変なことにならなくても、ひょっとしたらニトロは大変なことになるかもしれないわ」
「それはいつものことじゃないかい?」
「でも、いつものことより大変じゃないとは思うの」
「それならなおさらニトロは大丈夫だよ」
 にこりと笑って、ニルグはメニューに目を落とした。
 リセは写真を見る。
 夫とのやり取りで困惑の膜が一つ薄れて、先より明瞭に、コレが大変な問題を引き起こす植物だと思える。
 リセはモバイルを操作して、件名に『緊急』と入れて友達へメールを送った。すると一分程してすぐ電話がかかってきた。着信音ですら驚愕と緊張を伝えてくるようだ。リセは通話ボタンを押した。
「ヴィタちゃん?――ええ、そうなの。やっぱり、コレはアレよね?」

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