(『敵を知って己を知って』と『行き先迷って未来に願って』の間)

2015『吉@』と『小吉』の間

 穴場のカフェがあることを、ニトロは母から聞いた。インターネットに情報は出ていない。そのカフェがまだ新しいこともあるが、住宅街の中に、外見はその区画に立ち並ぶデザイン住宅のまま、しかもほんの小さな看板を掲げているだけであるそうだから、そもそもほとんど人に知られていないらしい。商売っ気の一つもないが、それもそのはず、そこは有閑暮らしの老夫妻が全くの趣味で営んでいるカフェで、自慢の庭に面した二人掛けのテラス席が二つと、テラスにつながる小さな部屋に置かれた四人掛けのテーブル席が一つ――それだけの店だそうだ。よくそんなところを知っているねと母に聞けば、何のことはない、その自慢の庭の手入れをしている老人が母の園芸友達であるという。
 老後の趣味とはいっても、日替わりの料理やケーキは老人の妻(元パティシエであるという)が腕を振るっているからとても美味しく、また老夫妻はお茶が共通の趣味で、そのためアデムメデス各地の珍しいお茶も飲める本格派。各地の名産が大抵揃う王都でも専門店の少ないグリーンティーも色々あるそうなので、ちょうどジジ家からスポーツジムへの道中でもある、トレーニングに行く前に立ち寄らないかとハラキリを誘ってみると快諾が返ってきた。
 五月を目前にした太陽は勢いよく空を駆け上がっている。庭木に芽吹く瑞々しい新緑が眩しく輝いている。
 目深に被ったスポーツキャップの下、顔を隠すようにうつむき加減に歩くニトロの目には青空は映らない。しかし、歩道に敷かれたタイルに吸収される初夏の陽光の温もりと、道端に咲く花々の色香りが彼の目を楽しませる。ハラキリとは、カフェで待ち合わせていた。カフェは平日も祝日も関係なく気ままな不定休だというから、彼に先に行ってもらって開いているかどうかを確かめてもらう意味もあった。その彼から未だ何の連絡もないということは、土曜の今日も、午前から問題なく営業しているということだろう。
「――?」
 キャップの庇の下に入り込んできた色彩が目に付いて、ニトロはふと足を止めた。
 見上げてみれば五階建てのアパートの足元、景観のために作られたのであろうが、狭い敷地に無理矢理作られたせいで見るからに狭苦しい花壇がある。その中に、昼前の穏やかな陽光を受けて咲く可憐な花があった。太い茎から分岐した八本の細い花軸から、秩序正しくまた細い柄が地面に向かって八つ並び垂れ、その先に鞠のような花が吊られている。鞠は三センチほどの大きさか。それを構成する花弁は繊細なラインを描き、よく見るとどうやら八重咲きであるらしい。花弁の色は付け根が濃いピンクで、そこからグラデーションになって白へと変化している。さらに白はやがて先端に向けて濃い黄色へと変化していき、そのため遠目には縞模様の鞠に見えて可愛らしい。しかも花弁の一つ一つには、微細な筆で斑を入れたように光沢がある。その光沢がミラーボールのように陽光を無秩序に照り返していて、その照り返しが星の瞬きのようにちらつく度に秩序立った縞の色調が崩れて一種玄妙とも言える趣を生んでいる。いくら見つめていてもきっと見飽きることはないだろう。連なる鞠がゆらゆらと風に揺れる様は、名工の作り出した細工物のように美しい。
「……何だったかな」
 これそのものではないにしても、似たものをどこかで見た気がするのだが……度忘れしてしまった。
 肩から提げるスポーツバッグから携帯電話モバイルを取り出して、撮影モードを合わせて写真を撮る。芍薬に訊ねるか画像検索にかければ即座に答えは返ってくるだろうが、
「……」
 ニトロは、母へ質問のメールを送ることにした。何にしても見応えのある花であるから母にこれを見せたい気持ちもあるために――そしてもし直接見たいと言い出した時のために、地図情報も付け加えて送信する。
「よし」
 携帯をバッグにしまいながらニトロは再び歩き出した。
 土曜の昼前。住宅街は静かで、見通せる道に人影はない。庭木や花壇に力を入れている家が所々にあって、その所々では春の花やよく手入れされた庭木の緑が道行く人へ美観や家人のセンスを誇ろうとしている。
 曲がり角を曲がった時、ニトロの目に一際華やかな色彩が飛び込んできた。
 庭の垣根を巡るツルバラに見事な白い花が咲き誇っている。その垣根を越えてこぼれてくる赤や黄や紫や無数の色が、鮮やかな緑の舞台の上で高らかに歓喜を歌い上げている。
 玄関前にはアンティークな門扉が備えられていた。腰より少し高いくらいのそれを、本当にこがお店なのかと恐る恐る開くと、玄関ポーチの小柱の陰にエッチング銘板が下がっているのがニトロの目に留まった。
 確かにここで良いらしい。ベルを鳴らすと品の良い老人がやってきて、
「リセさんの息子さんだね」
 と、ニトロを笑顔で出迎えた。ニトロには自分が『ニトロ・ポルカト』として出迎えられたのではないことが驚きであり、また、とても嬉しかった。
「お友達が待っていますよ、さあ」
 悠々自適な隠居生活を楽しんでいる目尻の皺に導かれ、ニトロは自然と口元に笑みを浮かべて、玄関からそのままカフェへと入っていった。

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