「楽しいディナーね」
「ええ、楽しいディナー」
「精一杯楽しむとするよ」
「ふふ、ええ、楽しみましょう」
 心底楽しそうな王女の微笑みに、どこかからため息が漏れた。それに気づいたティディアがそちらに目をやり、微笑を送る。と、グラスが倒れる音がした。慌てる女性の声がそれに続いた。グラスは白いテーブルクロスに血のような染みをつけながら転がり、床に落ちて耳障りな破砕音を立てる。彼女が立ち上がった拍子にハンドバッグが床に落ちる。床に溜まった赤ワインの中でグラスの破片がぎらりと光っていた。彼女はまた慌て、連れの男性も助けるために慌てて立ち上がろうとして椅子を蹴倒してしまう。周囲の人間がどよめき、ウェイターが二人、そのテーブルへ足早に向かっていく。
 己の微笑により混乱が引き起こされた現場から目を戻し、ティディアはニトロに奇妙な笑顔を見せた。彼は応える代わりにグラスに口をつけた。もう乾杯をするような流れではない。彼女は『恋人』のつれない反応に面白くなさそうな顔をしたが、愉快気なヴィタとハラキリがニトロに応じてグラスに口をつけたため、気を取り直して自分もスパークリングワインを口に含む。混乱は既に止んでいる。良いウェイター達だ。片方は給仕頭か、粗相をした客に丁寧に応対し、落ち着かせている。小さな掃除ロボットが素早く床を滑っていき、こぼれたワインをガラス片ごと吸い取っていく。
 店員の対応は店内に秩序を取り戻した。にわかに沸き起こったどよめきは静まり、再び奥のテーブルへの関心が高まる。しかし今の騒ぎが契機となったらしく、先ほどとは違って各テーブルでも各々の会話が囁かれてもいた。――その穏やかな喧騒が心地良い。
 ニトロはウェイターに頭を下げている女性からティディアに視線を移した。まさか、こいつはこれを狙ったわけではないのだろうが……
「どうしたの?」
 ふいにニトロと目が合いきょとんとしたティディアは、珍しく隙だらけだった。その表情に何らかの企ての跡はない。ただ頬に新しい赤みが幽かに表れる。
「いや」
 と、ニトロは曖昧に答え、ヴィタに話を振った。ティディアはニトロを追求しようとして、ふと、やめた。その躊躇は喉の裏側にほんの微かな痙攣として現れただけで、ニトロはもちろん、ハラキリにもヴィタにも認めることはできなかった。もしそれを見ようというのなら人間の目には備わらぬセンサーが必要だっただろう。
 ウェイトレスがやってきて、会話の邪魔をせぬようテーブルにカトラリーを並べていく。
「え? あのグーテリアはうちから持ってったの?」
「言いませんでしたか?」
「聞いてないし、母さんからも聞いてない」
「綺麗な色の入り方をしていましたので、お願いして去年の秋に株分けしてもらったものです。順調に蕾も大きくなっていますし、六月が楽しみです」
「ああ、そうなんだ」
「楽しみといえば、ニトロ君のお母さんから頂いた『盆栽ポッテッド・プラント』のボタンザクラも蕾がほころびそうですよ」
「え? もう?」
 ニトロだけでなく、ヴィタも首を傾げる。
「あれは四月下旬からのはずですが」
「早くないか? ハラキリんちに温室はないだろ?」
「ありませんが、うちの牡丹が早く見たいと熱心に世話をしていましてね。冬の間は常に一番温かい所へ鉢を移動させていました」
 なるほどそれなら、とニトロとヴィタがうなずくのを――納得顔のニトロがハラキリに牡丹のボタンザクラへの期待について訊ねているのを、ティディアが目を細めて眺めていると、ウェイトレスが同僚と共に前菜を運んできた。
 その後方では、トートバッグを肩から提げた女性が連れの男性と共にフロアに入ってきていた。席へ案内するウェイターの後ろにいそいそと続いていたが、ふと壁際のテーブルを見て驚きのあまり立ち止まり、口をあんぐりと大きく開ける。彼女の連れの男性も同じ顔をしていた。しかし、そのような顔はティディアにとっては見慣れた顔だ。それよりもニトロの顔が見たい。葉野菜と食用花のテリーヌと根菜のサラダが、模様を描くソースに彩り美しく囲まれた皿に目を奪われているニトロの顔をもっと見ていたい。彼は素直な感想をその双眸にきらめかせ、最初の不機嫌など完全に忘れ去ったかのように目元を緩めている。
「ん」
 と、根菜のサラダを口に運んだニトロが喉を鳴らした。思わぬ食感だったのか目を丸くし、同時にその味への賛嘆を刻む彼の顔はとても微笑ましい。もしここにシェフがいて、彼と共に二つの宝石をランランと輝かせているヴィタとを並べて見れば、料理人としてこれほど嬉しい光景に立ち会えることはそうそうないだろう。
「美味しい?」
 食前酒で口を湿らせて、前菜用のナイフとフォークを手にしながら、ティディアはニトロへ聞かずとも分かることをあえて訊ねた。純粋な喜びを浮かべて彼はうなずく。そこにあるのは料理人への賛辞のみとはいえ、そんな顔で私に応えてくれるのはティディアにとってとても嬉しいことだった。喉を通った炭酸よりも刺激があって、胃の腑に落ちたアルコールよりも胸を温めてくれる。
 さて、これは感想を言い合わねばなるまい。
 ティディアは鮮やかな赤の輪の内に瑞々しい白を閉じ込めるラディッシュを口に運ぼうといそいそと、されど優雅にナイフとフォークを動かし――
「きぃやあああ!」
 絹を引き裂くような悲鳴が、店内に轟いた。
 ティディアは手を止め、ヴィタはランッとさらに瞳を輝かせ、ハラキリは平静にちらりと一瞥するだけだがニトロは仰天してそちらへ顔を向ける。
 悲鳴を上げたのは、つい今しがた来店した女性だった。
 何が起こったのか、トートバッグの中身が床に散乱している。彼女は立ち上がり、何か危険なものでも触りでもしたのか手をバタバタと振りながら恐怖の面持ちで小さく断続的に鋭い声を上げ続けている。連れの男性が落ち着くように声をかけているが効果はない。隣席の夫人が何事かと目を見開いていたが、ふいに女性が何に怯えているのかに気づいて自身も悲鳴を上げた。
「ゴキブリ――!」
 その一言が『ヴァニチュー』に恐慌をもたらした。
 夫人が夫の制止も聞かずに立ち上がり、トートバッグの女性と夫人の間の床でちょろちょろと素早く動き回る黒いソレを避けるように、あるいは万一にも踏み潰さぬように足踏みする。二人揃って不可思議なダンスを踊っているように見えるのは滑稽だが、その周囲のテーブルに座る人々には他人事ではない。最寄りの若い男性が少しでも現場から離れようと身を引いた瞬間バランスを崩して椅子ごと倒れてしまう。その拍子に彼は倒れてなるかとばかりにテーブルクロスを掴み、引きずられたクロスは載っていた料理のことごとくを道連れに床に零れ落ちてけたたましい音を立てる。そのクロスが引っ張られるのを防ごうとしたらしい婦人――母だろう――が放り投げてしまったナイフが他のテーブルの紳士に襲いかかり、紳士は「ぎゃっ」と声を上げて身を翻す。その手に持ったワイングラスから一杯3000リェンの赤ワインが飛び散り、熟成された果実と樽の香りの融和する逸品がたまの贅沢を楽しみにきた家族連れに降りかかる。そして『ゴキブリ』という単語に反応した多くの人々が体を硬直させて、恐ろしい速度で走り回るソレが己の下に来ないように口の中で神へ祈りを捧げた。が、その願いを聞き届けてもらえなかった一人の女性にソレは向かっていった。無情にも。不気味にも。すると王女様と同じような流行のワンピースに身を包んだ彼女は奇声を上げて、ソレを蹴飛ばそうというのか思い切り足を振り上げようとした。しかし彼女の着るのは流行のワンピース――タイトなワンピースである。足を振り上げるには自由が効かない。体勢を崩した彼女は派手にスープ皿に手を突っ込み、ソレに対する注意の外から不意にやってきた熱さにまた驚いて悲鳴を上げる。トラブル解決を試みたいウェイター達は、拡大する被害を前にして呆然とするばかりである。
「素晴らしい」
 と、つぶやいたのはヴィタだった。
 ハラキリは騒ぎをよそにテリーヌを堪能している。
 ニトロはそんな二人の様子に小さく苦笑し、さらに負の連鎖が繋がる現場を眺めてその苦笑を大きくした。――と、そこで彼は気づいた。ティディアが少し……こういう場面に接したら、ヴィタと同じく嬉々とするであろうはずの『クレイジー・プリンセス』が……いや、確かに楽しんではいる。楽しんではいるが、しかし同時に少しばかり不機嫌を噛み殺しているように思えてならない。
「アアッ」
 誰かが叫んだ。
 はっとしてニトロがそちらを見ると、そこにはフロアの照明を受けて黒く輝く飛行物体があった。広げられた硬質の黒い翅がぐっと持ち上げられ、そのすぐ下で半透明の薄翅が超高速で羽ばたき、ソレは何を思ったのだろうか、初めに悲鳴を上げたトートバッグの女性の胸にぶーんと飛びついた。
「ぎいぃやあああああ!」
 金属を引き裂くような悲鳴が、店を揺るがした。
 女性は胸に張り付いたソレを叩き落とす勇気もなく、しかし喉元へにじり上がってこようとするソレをそのままにしておくこともできず、顔のパーツが全て中心へ凝縮してしまったかのような凄まじいしかめ面で右往左往する。連れの男性は恋人らしいが、胸に止まるソレに手出しが出来ない。いつしか女性が手にしていたナイフが本来牽制したいソレをどうすることもできずに、ただ恋人だけを牽制してしまっている。そうしているうち、カサカサッと、ソレは女性の首へと駆けた。
「ヒ」
 と短い声を上げ、女性が膝からくずおれる。嫌悪から生じた恐怖のあまりに気が遠くなったらしい彼女を何とか連れの男性が受け止め、その瞬間、再びソレが舞い上がった。
 今一度周囲から悲鳴が上がる。しかし、それは後を続けない。
 ソレも、いつまでも恐慌の場にあっては己の身が危ういと思ったのだろう。
 ソレは、この場において最も静かな場所、すなわちニトロ達のテーブルに向かってきた。
 これにはニトロも流石に身を引く。
 豆粒ほどの大きさに見えたソレが、あっという間に等身大となって迫ってくる。ソレはまっすぐ飛んでくる!
「まったく」
 と、ティディアがつぶやき、その左手がふっと閃いた。
 次の瞬間、ニトロの視界から、ソレが消えていた。

→?04へ
←?02へ
メニューへ