「?」
 ニトロが眉の間に浮かべた疑問符は、フロア全体にも浮かんでいた。つい数秒前まであれほど騒がしかった店内が、この恒星間移動も容易な世にあって本物の魔法を見たかのように静まり返っていた。
「……」
 一体何が起こったのか――ティディアの左手に閃くナイフを見て、はたと察したニトロは立ち上がり、彼女の向こうに見える床を見下ろした。
 そこには、やはり――
「うお」
 頭から胴体にかけてまるで切られたかのように叩き潰されている体長5cmほどのゴキブリが、床の上でか細い足をぴくぴくと震わせていた。ニトロの口から思わず吐息が漏れる。
「峰打ちよ」
 ティディアが、ニトロの反応に気を良くして言う。
「真っ二つに切って汁が飛んだりしたら、嫌だからね」
「てことは切ることも出来たって? 飛んでくる相手を?」
「どうかしら。やってみなくちゃわからないけれど……」
 ティディアも床の屍を一瞥して、
「この様子だと出来たかもしれないわねー」
「お前は平然と言うけどな……」
 ニトロはそれ以上続けなかった。――続けられなかった。ティディアが剣術を得意にしていることは知っている。だが、だからといって……
「まあ、でも、当たるのが刃だろうが峰だろうが関係ないか……」
 何とか継いだ言葉に感嘆の吐息が混じってしまうのをニトロは避けられなかった。その様子にティディアは微笑する。
 それから彼女はニトロと同様に息を飲んでいる周囲に目を移し、そこに不穏の種があることを見て取った。騒ぎの中心地、その周囲は酷い有様である。幾つかのテーブルでは料理が台無しになったし、汚れてしまった服を嘆く心も次第に大きくなりつつある。誰もが意図的に損害を生み出したわけではないとはいえ諍いが起きるのは避けられまい。そして諍いがすぐに収まったとしても、この場の空気はぎくしゃくと強張り続けることだろう。
「……」
 食事は楽しい方がいい。特に一緒に楽しみたい相手とのディナーは。
「なかなか面白かったわ」
 にこりと笑って、ティディアは言った。
 澄んだ声、特に力を込めているわけでもないのに壁際から向こうの窓まで濁りなく響く華やかな声である。たった一匹のゴキブリ――しかし滑稽なまでに恐ろしい脅威がなくなった今、にわかに成長を始めていた無軌道な敵意の芽はその声にぐっと束ねられ、皆がティディアを見つめた。その眼差しにはこれから彼女が何を言うのかという緊張がある。シンと冷たく静まり返った中、彼女は脅威を潰したナイフを軽く振りながら、
「でも、ちょっと被害が大きくなっちゃったわね。楽しませてもらった分、ここは私が持つから、みな、改めて食事を堪能なさい。それからそこのお嬢さん?」
 と、家族連れの中の一人に洒落めかせて話しかける。プリーツと裾のレースがかわいい薄ピンクのスカートに真っ赤な染みがついてしまったことで涙ぐんでいた中学生くらいの少女が、やっと王女が自分に話しかけているのだと気づいて顔を赤らめる。ざっと見たところ、一番の被害を受けたのは彼女らしい。
「急いでクリーニングに出しましょう。腕の良い職人が綺麗にしてくれるわ。他の者も、後に残りそうなものは同じように。すぐに係りの者がやってくるから」
 主人に命じられるまでもなく執事は手元で携帯電話モバイルを操作している。そして執事の働きを確認することもなく、主人は事が全て滞りなく進むことを確信した調子で続ける。
「それから代わりの服は――そうね、それも私からプレゼントしましょう。“お下がり”でも構わないかしら? ラップスカートなら着られるものがあると思うんだけど。それともすぐそこにお店があったはずだから、そこで選んでくるといいわ」
「……」
 少女はぽかんとしている。というよりも、少女の家族も呆気にとられている。
「み、身にあまりゅれしゅ!」
 ともかく返事をすべきだと悟ったらしい少女が上擦った声で叫んだが、それは全く言葉になっていなかった。それに構わずティディアは微笑みを返し、
「それから」
 と、恐慌は収まったとはいえタイミングを逸して動けずにいる店のスタッフを目で呼び寄せ、やってきたウェイトレスにティディアはナイフの柄を向ける。
「流石にこれで食事はできないから、替えてくれるかしら」
「かひこまりました」
 ウェイトレスの声も上擦っていた。彼女の目は輝き、その頬は上気していた。恭しくナイフを受け取る手は震えている。
「額に入れて店に飾ってもいいわよ? 『ゴキブリ殺しのナイフ』なんてどう?」
「いやそれはどうだろう」
 ふと漏らすようにニトロがツッコむ。自身どんなに治そうと思っても治らない、ニトロ・ポルカトの長所にして短所である特技。くすりと誰かが笑って、空気が、ほころんだ。王女の声に支配され、息を殺してその言葉を静聴していた場に温もりが戻ってきた。
 ティディアは、一度振り返り、ニトロに眼差しを送った。そしてまた店内に向けて振り返った王女の顔には、新しく昇った太陽のような笑みがあった。
「飲める人にはこの店で一番良いワインを出してあげて」
 ティディアはウェイトレスに言い、次いで聴衆に向き直り、
「飲めない人は、その分遠慮なく食べたいものを食べなさい」
 そこで、パン、と一つ彼女は手を叩く。それを合図に、彼女の笑顔に照らされて、皆も自然と笑顔を浮かべる。
「さあ、素敵なディナーを楽しみましょう」

 ゴキブリ騒ぎの前にも増して朗らかな雰囲気で、『ヴァニチュー』のディナータイムは再び時計の針を進めていた。
 騒ぎの影響を受けなかった場所では歓談の声が上がり、またその目はちゃくちゃくと進行していく“後片付け”を一種の見世物として楽しんでいる。
 店員達が荒れた場所を静かに、しかし手早く片付け、掃除ロボットが床を綺麗に磨き上げていく。またフロアの一画では、本当にすぐにやってきた王城の職員が、ワインで汚れた少女のスカートをはじめクリーニングの必要な服を回収していた。この場で汚れを落とせる物は熟練の技と最新の洗浄剤ですぐに綺麗にしてしまうのには感動の声が上がっている。そして王女の側仕えが持ってきた巻きラップスカートを身に着けた少女は、感激のあまり声にならない声でティディアに何度も礼を言い、席に戻ってからも何度も頭を下げていた。
 レストランのオーナーがやってきて、やはりティディアに感謝を表明する。彼が厨房に戻っていくと、ようやくニトロ達のテーブルにもいくらかの落ち着きが戻ってきた。オーナーが前菜を新しいものに取り替えることを提案してきたので――食べかけの分は勿体無いが、料理人としては最善の状態のものを食べて欲しいのであろう気持ちを汲んで――テーブルの上には再び前菜の皿が並んでいる。先のものを一人食べ終えていたヴィタは大喜びだ。テリーヌが気に入ったらしいハラキリも満足そうである。
 最後に、騒ぎの原因となった女性がティディアの下へやってきていた。正気を取り戻した時からずっと土気色だった顔が、今は姫君の言葉を受けて生気に輝いている。彼女は付き添ってくれている男性と近々結婚するという。ティディアが祝福を送ると、二人揃って目を潤ませていた。
 深々と長く頭を下げ、二人がテーブルへ戻っていく。その幸福な様子が店内をもう一度温める。
 ティディアは内心吐息をつき、テーブルに向き直った。と、視野の端にニトロの視線が入り込んできた。彼に見つめられていたことに気づいた彼女はぱっと頬に朱を散らし、視線を合わせようと瞳を向けた。
 しかし、ニトロはすいっと目を前菜の皿に落としてティディアの瞳を避けた。葉野菜と食用花のテリーヌを切り分けて口に運ぼうとするその態度には、得も言われぬ複雑なものがある。
「――」
 ティディアは、頬の緩みを止められなかった。
 ニトロの様子には彼の心が明らかに滲み出していた。彼は、今、私を良く思ってくれているのだ。彼のその態度は、ティディアにとっては誉め言葉そのものだった。朱の散った彼女の頬に、熱がこもる。そしていつまでも頬の緩みが止められない。そのことに彼女自身驚く。だが、本当に嬉しかった。どうしてだろうか、信じられないほどに心地良く感じられてならないのだ。
 しかし自身の内部のその感触を、彼女は、今はまだそれが己に起こった変化なのだとは自覚せず、ただ悪戯っぽく微笑んで彼に呼びかける。
「ね、ニトロ」
 テリーヌを口に運びかけていたニトロが手を止めて眉間に皺を刻む。ティディアは振り返った彼の瞳を見つめ、目尻を垂れて、
「見直した?」
 一瞬、ニトロは眉間の皺を深くした。が、何を言うこともなくその影を消し、ティディアから視線を外した。向こうのテーブルで嬉しそうにお姫様をちらちらと見やってくる少女を一瞥した後、食べかけていたテリーヌを口にして唇を緩める。それから正面に向き直り、
「それにしても」
 と、根菜サラダのポテトにフォークを刺しながら言う。
「ヴィタさんは平気なんだね」
「ゴキブリですか?」
 食事を続けながら――良い反応をもらえず残念そうな主人を傍目にしながら――ヴィタは涼しげに言う。
「食材になるものに怖いものなどありません」
「いや、食材て」
「アデムメデスでは大抵ゲテモノですが、星によっては重要なタンパク源ですから」
「それは知ってるけど種類が違ったような……ああ、まあ、でもヴィタさんの基準はそれなんだね、怖いか怖くないかって」
「はい」
「てことは怖いものがあるとすれば、それは食えないもの?」
「そういうことになりますね」
「オバケとか」
「霊的なものが可食かどうかは試した者がいませんから、判りません。食べられるのなら怖くはないでしょう」
「おっと、そう返されるとは思わなかった」
「それに、怖いものは、大抵は即物的なものであるものです」
「それはヴィタさんの哲学?」
 是とも非ともつかぬ微笑みを浮かべ、ヴィタはテリーヌの最後の一切れを食べ、
「ニトロ様も平気そうでしたね。飛んでくるのには少々驚かれたようですが」
「ああ、さすがに向かってくるとねー」
「飛ばれなければ大丈夫ですか」
「庭仕事とか手伝ってたから、虫にはわりと免疫があってね。それとゴキブリはバイ菌ともかく刺しもしないし噛みもしないから。だから、怖いのは虫そのものよりそういうことになるかな」
「なるほど。ニトロ様の基準はそれですか」
 ニトロはうなずき、笑った。それから正面に向き直り、
「ハラキリは?」
「ゴキブリ程度を怖がっていたら下水菅の中を這っていくことなどできません。何しろ「話を振った身で悪いがそこまでにしてもらおう」
「おや、これはまだニトロ君には話していないことなんですが」
「今は食事中だし、できればこれからも話さないでくれないか」
「えー」
「そんな心外そうにしても絶対聞かないからな」
 そこで一度話を切り、ニトロもテリーヌを平らげる。前菜はどれも美味しく、この後の料理への期待が高まるものばかりだ。
「……ねえ」
 と、会話の谷間で新たな話題が出てくるのを待つニトロに、ティディアが訊ねる。どうやら高められていた期待の行き場を求めているらしく、やたらと目を輝かせ、
「私には?」
 ニトロはティディアに怪訝な目を向けた。
「何が?」
「私には聞いてくれないの?」
「何を?」
「ゴキブリは平気なのかって」
「平然とナイフで仕留めた奴が何を言ってんだ?」
「それと、怖いものとか」
 ニトロは顔で腕組みをしているような表情を浮かべ、うなる。
「いや、何ていうか……お前に怖いものがあるって想像しづらい。てか、無いだろ、お前に怖いものなんて」
 世間では『無敵の王女』とも呼ばれているティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。しかし彼女は失礼なとばかりに顔を変え、
「やー、私にも怖いものはあるわよぅ」
「……例えば?」
「私はね、ニトロが怖い」
 ニトロは顔を元に戻し、残っていた根菜を食べた。
 少し考える。
 模範解答としてはオッチゴ説話集の『クッキー怖い』になぞらえてツッコむところだろうか? いや、しかしあれは原本では最終的にクッキーの食いすぎで本当に死んでしまうものだ。そこを切り返されたら抵抗できない上に訳も分からなくなろう。
 ハラキリとヴィタは口を挟まず、どこか心待ちにするようにこちらの言葉を待っている。
 そろそろ次のコース料理がやってくる頃合だ。
 ニトロは残っていた前菜全てを平らげる。
 そして、周囲から尊敬と親しみのこもった眼差しを集めているお姫様を一度見て、天井を見て、小首を傾げ、それからじっとこちらを見つめるティディアを見る。
 彼は、笑って言った。
「馬鹿抜かせ。お前は俺から逃げるどころか、追い払おうともしてくれないじゃないか」

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