ふと、ニトロは周囲が静まり返っていることに気がついた。ティディアが店内に入ってきた時から、この場所には落ち着いた空気も、気軽な食事を楽しむ人々が織り成すざわめきもなくなってしまっていた。流石に歓声を上げて押し寄せてはこないものの、皆関心を奪われているのだ。皆、ちらちらと、時にははっきりこちらを窺いながら黙々とシェフ渾身の料理を口に運んでいる。しかし、きっと味はしなかろう。彼ら彼女らの全神経は舌ではなく目と、特に耳に集中している。そしてその集中線は、無言で駄々をこねる子どものように椅子をガタガタと揺らすお姫様に向かって収束している。
 王女に対する敬意と崇拝に混じって、一人の女に対する羨望があった。嫉妬があった、憧れがあった。こちらを見つめるそれら女性達の眼差しを眺めて、ニトロはふと思う。チープなのに特別に見える     。……ひょっとしたら、『チープ、なのに特別』というものがより多くの人間の心を掴むものなのかもしれない。そして多くの人がわたしもそういう『特別』になりたいと願う。例え自分が特別な人間でなくても『特別』になれることに希望を抱き、それを夢見させてくれる存在を――例えその存在が“特別”な人間であったとしても――共感の対象とするために讃える。讃えることで共感して、羨望しながら、嫉妬しながら、憧れる。
 思えば、今の自分もその『特別』なのだろう。はっきりとこちらに顔を向ける人々の合間に、何度も目を逸らしながら『ニトロ・ポルカト』をちらちらと盗み見る男達が幾人か窺える。そこにあるのも、羨望、嫉妬、憧れ。だが共感という自己投影よりも、そこには“簒奪”への欲望が低音にあるように感じられる。
 言葉にすれば同じ感情でも、色合いは大分違うものだ。
 そして全ての感情を上書きするように、悪戯っぽく煌く瞳がこちらを見つめてきている。その光に透かす黒曜石にも似た瞳の持ち主は、どうあってもこちらに侵攻してこようと肩を押し込み続けてくる。
「いい加減諦めろよ」
 嘆息混じりに、ニトロは言った。彼の視界の端には、客の――賓客の座りがいつまで経っても落ち着かないため当惑しているウェイトレスの顔がある。ティディアが来る前からこのテーブルの担当になっていた彼女が、引き続きここを任されたらしい。その頬は紅潮しながら半ば凍りついている。希代の王女にサーブするという光栄に浴しながら、反面、あからさまに不機嫌を表す『恋人』の様子に不穏な展開を想像せずにはいられないのだろう。
「ちゃんと席に着け。窮屈だと食べづらい
「うん、分かった」
 ニトロのディナーを受け入れる言葉に、ティディアは少し子どもっぽく答えた。それは周囲には『恋人』に甘える言葉と受け取られたはずだ。ニトロはそれに内心歯噛みながらも、ようやくこちらを逃がさぬように壁に押し込もうとするのを止めたティディアにメニューを映す板晶画面ボードスクリーンを渡した。そしてハラキリを再び睨む。
「芍薬から山ほど抗議がいくからな」
「撫子に任せます」
「撫子も大変だな」
「芍薬ほどではありません」
 皮肉を飄々と切り返すハラキリの横では、クラシカルな趣のワンピースを着たヴィタが実に楽しそうに目を細めている。彼女は神秘的な藍銀色の髪を一見無造作に纏め上げ、その髪のシルエットがふわりとした服のラインによく似合っていた。レース状になった袖からは白い肌が透けて見えている。それがそのままふわりとした布地に隠された彼女のスレンダーな肢体を想像させるため、静淑な居住まいの奥から噛み含むようなエロティスムが滲み出していた。
 一方、ニトロとハラキリは高校の制服を着ていた。ニトロは当初直帰する予定だったので着替えを持ってきていなかったし、ハラキリはどうやら友人の事情を考え制服で合わせてくれたらしい。アデムメデスにおいて学生の制服は、冠婚葬祭、はたまた勲章授与式のような国家的な行事においても正式な服装として認められている。崩して着こなせばカジュアルなシーンでも堅苦しさを軽減することは可能だ。このレストランは高級志向ということもあって、制服姿はけして不自然ではない。
 しかし、それぞれにアダルトな魅力を放つ二人の美女を伴う、あるいは伴われる制服姿の少年達――という図式には妙にアンバランスな様相があり、どこか背徳的でさえある。
 これは悪目立ちであった。
 いかに自分が王女の『恋人』として世間に認識されていても、いざこの相関図を眺めれば悪戯に心騒がされる者もあろう。実際、周囲から注がれる好奇の目に“熟れ過ぎた桃色”が加わっているのを、ニトロは敏感に感じ取っていた。
 見れば、ニトロが感じ取ったことをさらに敏感に見抜いたティディアとヴィタが双眸を弓なりに歪めている。
「悪趣味な」
 女二人はそれぞれに色気の豊かな微笑を漂わせ、それからティディアがメニューを一瞥した後、ニトロへ目配せをする。ニトロはうなずいた。ハラキリも追ってうなずく。ティディアが手を軽く差し上げると、今か今かと待ち構えていたウェイトレスが瞳を輝かせてやってきた。
 四人共にコースを頼んだ。初めニトロはハンバーグとパンを頼み、それからハラキリとサラダを分け合おうかと考えていたのだが、ティディアとヴィタがやってきたからにはコースを選択しなくてはならなくなることを飲み込んでいた。その中で、幾つか選択するものがあり、ニトロは鴨のローストと、チョコレートアイスを頼んだ。
「食前酒はどうなさいますか?」
「リスドネを」
 ウェイトレスにティディアが応える。『リスドネ』は名の知れたスパークリングワインだ。
「同じものを」
 ヴィタが続く。
「こちらも」
 ハラキリが告げる。
「おいこら未成年」
 ニトロがツッコむ。
 するとハラキリがさも心外そうに目を丸くし、
「しかしニトロ君、折角の機会なんですし」
「どんな機会だ。これが同級生の成人祝いならまだしも、ただのディナーだろ?」
 ド真正面からの論駁にも負けず、ハラキリは食い下がる。
「お姫さんとのディナーなんて『ただの』とは言えないと思いますが」
 妙なしつこさに、ニトロはしかし即座に切り返す。
「だからって『折角』とまで言えるまでのもんでもないだろ、わりと折に触れて一緒に食ってるじゃないか」
「それもそうですねぇ。いつもご相伴に預かり、拙者は幸せ者です」
 そこでハラキリはにこりと笑った。彼のその言い回しに、ニトロは「あ」と口を開ける。しまった、また失敗した。これではまるで自分とティディアの『仲良しエピソード』を滲ませているようなものではないか。慌てて状況を覆そうとニトロは口を開きかけるが、そこにティディアが嘴を挟んできた。
「『王権』を使って認めましょうか?」
「こんなくっだらないことに王権行使しようとすんな!」
 思わずツッコンだところでニトロはまた口を「あ」の形に固める。ティディアの言葉を受けてしまったことで会話の向きが完全に変わってしまった。もはや挽回の余地はない。何しろ微笑ましげにこちらを見やるウェイトレスの眼差しは如実に「何だかんだで……」と語っている。そうだ、いつもこうして『照れ隠しのためにティディア姫への辺りが強くなるニトロ・ポルカト』像が鉄よりも固くなっていってしまうのだ。ここからどんな態度を取ろうがティディアの印象操作はそれをどこまでも『照れ隠し』にしてしまうだろう。最悪、あの『クレイジー・プリンセス』が『恋人』に甲斐甲斐しく気を遣うことで『ニトロ・ポルカト』が特別なのだという印象をひたすら強化するだけにもなろう。後は傷を広げないか、より深手にするかの選択肢しか残っていない。
 ――いつものことである、チクショウ。
「……」
 ニトロはハラキリを三度睨んだ。
「では、シュラシカにしましょう」
 ハラキリはまるで一仕事を終えたとばかりにくつろいだ様子である。『シュラシカ』はノンアルコールのスパークリングワインだ。といってもただの微炭酸ブドウジュースですけどね、と、わずかに片眉を跳ね上げるハラキリの顔はそう言っていた。
 色々諦め、ニトロも同じものを頼む。
 ウェイトレスが下がると、早速ティディアが今日の撮影のことをハラキリに向けて話し始めた。ハラキリはティディアへ相槌を返しながら、その話題をニトロへ反射させる。ハラキリに体験談をするのは好きなので、ニトロも自然と饒舌になっていく。ヴィタは適度にうなずき、会話を潤滑にする必要最小限の言葉を挟みつつ、話すよりも聴くことが楽しげにマリンブルーの瞳を煌かせている。
 すぐに飲み物が来た。
 四人の前に細いワイングラスが置かれる。八分ばかりに満たされた淡い黄金に輝く液体の底からは微細な泡が無限に天へ向かい続けている。水面で泡が弾けると、そこに封じられていた爽やかな香りがぱちぱちと広がる。
「それじゃ、楽しいディナーに乾杯しましょう?」
 ティディアの提案に、ニトロは軽く息をつく。

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