(第三部の直前)

2015『吉A』と『吉@』の間

 ソレが生息するくにでは、ソレはほぼ例外なく嫌われている。否、嫌われている、というのは生易しいかもしれない。ソレは嫌悪のあまり恐怖の対象とまでに至っている。
 ソレは、強い。非常識なまでの生命力を保持する。しかし、ソレが知性を持ったことはない。大宇宙の隅々まで見ても数多くの『人類』の中にソレから進化してきた末裔は見当たらない。
 それはなぜか。
 ある学者は言った。ソレは既に完成している。ソレは知性を必要としない。ソレにとって知性はむしろ邪魔なのだ、と。あるいは知性とも思えるほどに研ぎ澄まされた本能と、その生命力があれば十分であるのだと。生存のために知性は必ずしも必要ではない。見るがよい! 現実に、ソレは常に知的生命体の数よりも多い同胞と共に、今もここかしこに潜んでいるではないか!
 ……そう、ここかしこに潜んでいる。
 ここアデムメデスにも、ソレは生存している。
 そして例によってソレはアデムメデスにおいて不動の嫌われ害虫のトップであり続けている。時として場に凄惨な混乱を招く、黒い悪魔として恐れられている。実際アデムメデス神話の中にはゴキブリのことだと言われる魔物までいるほどだ。
 ソレは、どんなに清潔な場所にも、どんなに忌避剤を駆使した場所にも、静かにやってくる。隙間一つない部屋にもソレはどういうわけか侵入してくる。――どういうわけか? いいや、それはただ人が知らない、あるいは気がつかないだけだ。
 例えば、ソレは出入り口の開く時を待っている。己には重すぎる扉の前で、じっと息を潜めて待っている、その美味たる食物の溢れる天国への門が開くのを。
 時にはまた、ソレは誰かに取り付く――大胆にも、天敵であるはずの大きな動物の体のどこかに取り付いて侵入を試みる。運び屋となるその人は気がつかない。否、気がつかぬ方が幸せだろう。油めいて照り光る黒い楕円のブローチを、意図せぬアクセサリーとして我が身に着けているなどとは知らぬが天使の微笑みである。もし背ではなく目につくところ、例えばソレが肩に着地したともなれば恐慌は必至であろう。
 今夜、ソレは、街路樹を飾るイルミネーションを伝っていた。腹を空かせて、食物を探して、無心に、無邪気に。そしてふいに足を滑らせ、ぽとりと落ちた。すると、ソレはある女性のトートバッグに落ち込んだ。トートバッグのファスナーは開いていた。これは幸い、ソレは隠れるに好ましい暗い場所へ潜っていった。女性は気がつかない。女性は頬を赤らめて、待ち合わせ場所に先に来ていた婚約者に手を振って駆け寄っていく。
 女性は婚約者と連れ立って、予約したレストランへと向かった。
 そのレストランの前には人だかりができていた。皆して中を覗き込もうとしている。しかし窓にはブラインド機能が働いていて、外から内側を覗きこむことはできない。
 女性と婚約者は不思議に思った。確かにこのレストランは味が良いことで知られているが、これほど人を集めるほどの有名店ではない。それなら誰か有名人でも来ているのだろうか? だとしたら、この日に予約を入れていたのは幸運だったかもしれない。
 締め切られた玄関で予約したことを告げるとばかに慎重な照会を受け、二人は緊張した面持ちのウェイターの案内で店内へと入っていった。
 そうしてソレは、レストラン『ヴァニチュー』の中へと運ばれていったのである。

 およそ四時間前、ニトロは全ての教科の年度末テストを受け終えた。高校二年の前後期で学習した内容確認の授業と試験が続く総括期、その最後の一週間は無呼吸でロッククライミングをし続けるようなものだと例えられる。しかし、その山を乗り越えた先には素晴らしい開放感と清々しい空気がある。そこに辿り着いた学生達は、最後のテスト時間の終わりを告げるベルの音に重ねて休暇中の予定を語り出す。赤点を取ると春休みに厳しい補講を受けなければならず、その補講で合格点に至らねば留年決定であるが、そのことはひとまず忘れて、友と遊びに行きたい者は友と望みを交わし、一人自由を満喫したい者は心で望みを噛み締める。
 およそ三時間五十九分前、ニトロは仲の良い友人と言葉を交わす間もなく即座に校舎を出て、教職員用駐車場にやってきていた飛行車スカイカーに乗り込んだ。向かうは王城、仕事である。来月と来々月、『漫才コンビ』として訪れる予定のイベントに来客を請う告知番組を、王城のあちこちを舞台にして撮影することがその内容だった。本来はそれぞれのイベントと協賛しているメディアやスポンサー企業の用意する場所に出向いて撮るはずだったのだが、何の気まぐれか、一昨日になってティディアが「王城の紹介も兼ねて」と予定を変更してきたのである。撮影場所の中には宝物庫の中――なかなか公開されない国宝も見切れるようにするらしい――などがあって驚いたものだが、まあ、その程度のぶっ飛び具合なら『クレイジー・プリンセス』にとっては平常運転だろう。
 およそ三時間十五分前、ニトロはティディアとの宣伝用ビデオ撮影を開始した。基本的に宣伝と言う名の無軌道な弾丸トークを繰り出すバカ姫を適宜軌道修正し続けることが、ニトロの役目である。急に政治スキャンダルの裏話とか、報道前の芸能ゴシップなどを“うっかり”口にしようとすることがあるから気が抜けない。放送禁止用語を誤魔化すのにも苦労する。いつもながら厄介で面倒で疲れる仕事だが、それが既に『仕事』として成立してしまっているのがいつもながらに悲しくなる。
 およそ一時間前、ニトロは仕事を終えた。ちょっと喉が嗄れている。年度末テストの後に怒涛の連続撮影をこなしたもんだから疲労もピークに達し、体は滋養を求めていた。そこにハラキリが「打ち上げしません?」とメールしてきた。一も二もなく返事をした。了解と――反射的に、“打ち上げ”とか“お疲れカラオケ”とかあまりにそういう『日常的なもの』にも餓えていたものだから、ほとんど思考回路を介さず了解と返事をしてしまっていた。
 三十分前、妹姫と公務について話すことがあるというティディアと別れたニトロは城を出て、家路の途中でハラキリと合流した。
 十分前、ハラキリはニトロを王城近辺では最も寂れた繁華街に連れてきた。街を盛り上げるための涙ぐましいイルミネーションに飾られた街路を歩き、やがて『ヴァニチュー』というレストランに入った。個人経営の店で、そこそこ老舗であるらしい。学生にとっては少々高すぎる価格帯だが、それ故に『ニトロ・ポルカト』が無遠慮な客らに取り囲まれるという事態を許す空気がここにはない。リザーブカードの置かれた奥の壁際のテーブルに案内されたところで、ニトロはようやく解放感を味わった。人心地の吐息をつき、ウェイトレスの丁寧な挨拶と共に渡されたメニューを見ると、期待以上に美味しそうな写真が並んでいて腹が鳴った。
 一分前、丹念にメニューを吟味していたニトロの元に、美しい女性が二人やってきた。
 三秒前、ハラキリがしれっと、
「こちら本日のスポンサー様です」
 いそいそと隣の席に腰を落ち着け、さらにこちら側に詰め寄ってこようとするティディアを押し止めながら、ニトロはハラキリを睨みつける。
「打ち上げってのは、つまり嘘だったわけだな」
「いやいや、スポンサーが参加する打ち上げもあるでしょう?」
「でもそれは少なくとも気楽な仲間内のものじゃないよな」
「拙者とは年度末テストお疲れ様の打ち上げ、おひいさんとなら番宣撮影お疲れ様の打ち上げ、となればどちらも仲間内となりますが」
「なるほど『嘘はついてない』か」
「納得いただけたようで何よりです」
 悪びれもせずハラキリは笑む。
 ニトロは嘆息した。油断していた、もっと考えて返事をするべきだったと後悔してももう遅い。防御のために突っ張る左手にはいつまでも諦め悪く椅子を寄せようとしてくるティディアの肩の感触がある。
 彼女は、別れた時から服装を変えていた。最後に見た時はソリッドな印象のパンツスーツを着ていたが、今は最近のアデムメデスのどこででも見られる流行のタイトワンピースに身を包んでいる。しかもそれは一見して解るほど有名な――有名すぎてほとんど大衆化したブランドものであり、柄も最も人気のチェック柄、鎖骨がはっきり出るくらいに大きく開く襟もやはり流行りだし、三分丈の袖もそう、色の濃いワンピースに透け感のあるボレロを合わせるのも“最新の教科書”通りのコーディネートだ。テーブルの下に隠れている、セミフォーマルに堪えるデザインのパンプスに至っても発売されたばかりの入手困難な品物であった。
 はっきりと言えば、ティディアの服装は、チープである。
 鼻に突くほどの陳腐な選択である。
 それなのに、とてもそうは感じられない。
 飽きるほど巷に溢れている外観なのに、何故だろうか、彼女が着ているそれは一点物の希少なドレスに感じられてならない。そして彼女が身じろぎするだけではっきりと現れるボディラインはまるで体温まで伝えてくるように、誘いかけて噛み付いてくるかのように、扇情的だ。

→?02へ
メニューへ