ティディアと芍薬は振り向いた。
 ニトロはぴょんと半回転しなければならなかったため遅れたが、観衆が驚きに目を見張る様と、その声の方向から誰が言ったのかは悟っていた。
 だが、それでもニトロは驚いた。驚きのあまり、ティディアと芍薬と共に目を丸くしてそれを見た。
「おまえの、あくぎょぅも……これまでだ」
 先ほどニトロが示した、この場で最も衝撃を加えられていたであろうあの女児が蜘蛛の糸から解き放たれ、しかも金の星が一つプリントされた青いトンガリ帽子を頭に戴き、そうして子ども向けアニメに出てくるステッキを震える手で構えていた。
「わたしがみんなを、えがおに!」
 最後の『えがおに』だけを大声で叫んだ女児の傍らには、どうやらテーブルクロスを利用したらしい白いマントに身を包み、さらに白布のマスクと中折れ帽とで顔を隠す少年がいた。
「まほうの、ちからは、しあわせの、ために……」
 小さな魔法使いは、しかし、一対の主眼と三対の複眼を持つ妖女に凝視され、なお全身を震わせて声を小さくしていった。その女児の肩を支える中折れ帽の少年が、彼女に魔法を吹き込む。喘ぐように息をして、小さな魔法使いはそれを口にする。
「ぱ――パレロ・ミルカ……フー……」
 すると、一瞬、小さな魔法使いの周囲が震えた。いや、震えたように見えた。彼女の周囲の地に散らばる蜘蛛の糸が刹那波打ち、続いてパキパキと音を立てて凍りついた――凍りついたように変化して硬化した。そして次の瞬間にはそれらがばらばらと砕けて、驚いた女児が振り返ると、彼女の母親も彼女の『魔法』によって解放されていた。
 ティディアの行動は、迅速だった。
 それまでのしょぼくれた体勢から一気に妖気を取り戻し、芍薬が反応するよりも素早く作動した蜘蛛の足で高く高く宙へ跳ねた。
 ニトロと芍薬は互いに何を合図しあうこともなく、吐息をついた。二人共に少しむくれていた。――遅い、と。
 ステージ上の蜘蛛の巣に戻ったティディアは、絶妙な間を挟み、けたたましく哄笑した。それは凄まじい哄笑で、「ホ」と「ワ」と「ハ」を混ぜたような、およそアデムメデス人が発声できようとは思えぬ声であった。
 はちきれんばかりに意気を取り戻した蜘蛛の腹の上に身をそびやかした妖女の背景には、およそ悪魔が用意したかのような残照がある。もはや大勢は群青の夜である空の下、地平には粘りつく血のように赤い光が一筆だけ残っていて、それが彼女を背後から照らすことで艶かしい肉の縁取りが毒々しく朱に濡れ、しかし前面にはどす黒い影が落ち、その影の中で大きく開かれた口と六つの複眼がなお不気味に赤い光を放つ。
 再び、ノデラ噴水広場は魔法にかかった。
 もはやこれが完全なる『茶番』であることが知れ渡っているのに、それでもなお、ここには迫真なる恐怖があった。
「よくも言う、矮小なる魔法使いよ!」
 広場に残っていた小蜘蛛達が群をなし、小さな魔法使いへ押し寄せていく。
「お前に何が出来る、
 お前に何がなせる、
 お前の弱々しい魔法で妾を倒せるものか?!」
 優雅さをかなぐり捨てた大声に、女児はびくついた。助けを求めるが、あの魔法を与えてくれた『魔法使い』はいつの間にか消えていた。泣き出しそうになる。が、自らが助けた母親の「頑張って」の声に励まされ、彼女はステッキを構えたまま、懸命に一歩を踏み出した。
 すると小蜘蛛の群こそがびくりと動きを止め、小さな魔法使いに気圧されるかのように退いた。それで勇気を得た小さな魔法使いはまた一歩踏み出し、大きな声で叫んだ。
「パレロ・ミルカ・フー!」
 瞬間、これまで息を止めていた噴水が音を立てて多量の霧を噴き出した。同時に女児の背後から風が吹く。ニトロは上空に光学迷彩で姿を隠した装甲飛行車アーマード・スカイカーがいることを察し、ひょっとしたらそこでヴィタが満面の笑みでも浮かべているであろうことを思い浮かべた。その風は明らかに意志のあるもので、噴き上がる霧を半人半蜘蛛の妖女へ向けて押し流していく。
 霧はとうとう妖女を飲み込んだ。
 妖女は霧に姿を隠されるや恐ろしい悲鳴を上げた。
 もんどりうって地に落ちて、やがて霧が晴れると、そこには――皆が驚いた――毛むくじゃらの禍々しい姿をしていた蜘蛛が短い時の間に煌く水晶へと変化していた。それどころか女の体までもが水晶となっている!
 親玉が倒されたことにより命を失った小蜘蛛達がここかしこで足を畳み、腹を上向けひっくり返っていた。
 小さな魔法使いは糸に包まれたままの王子様と、彼に使える忠実な従者に促され、水晶と化した妖女の下に歩いていくと、そのステッキで水晶と化した魔物をこつんと叩いた。
 ガラスが砕けるように、水晶が砕け散る。
 そしてその水晶の中から現れたのは――嘆声にも似たため息が広場を包んだ――バラ色の薄絹のドレスを纏った美しい『お姫様』だった。
「ありがとう、勇敢な、小さな魔法使い様」
 礼儀正しく帽子を取った女児の頭を撫で、お姫様は言う。
「夢を見ていました。
 とても悪い夢、それはとても怖い夢でした。
 でも、それも一夜の夢、夢が醒めれば、そこには温かな笑顔の皆様が」
 赤い複眼もなく、声に凄みの欠片もなく、同一人物であるのにどうしてもそうとは思わせぬ麗しさで告げる王女に、皆の心がまた吸い寄せられる。
「さあ、小さな魔法使い様、一緒に悪夢を一つ残らず消してしまいましょう」
 美しい本物のお姫様から額に口づけを受けた女児は顔を輝かせ、そして、共に『バラ姫様』の魔法の言葉を高らかに謳った。
「「パレロ・ミルカ・フー!」」
 今度の変化はさらに劇的であった。
 噴水から七色に輝く粒子を含んだ水が迸り、いずこからか軽やかな楽の音が鳴り響く。広場に撒き散らされていた蜘蛛の糸の全てが凍りついて砕け、それが再び吹いた風に舞い上がって瞬きながら夜空の底へ消えていく。するとその空から雪が落ちてきた。本物の雪ではなさそうだが、しかし見た目には全く雪であり、地や人の肩に触れるや水に落ちた砂糖菓子のようにほどけて消える。その様はまさしく魔法としか思えず、にわかに沸き上がる歓声をさらに楽しげに盛り上げていく。
 その一方で、死んだ小蜘蛛達が見る間に無数の光の粒子へと変化していき、それはやがて蛍のごとく飛び上がった。
 ちらちらと猛暑の夜に降る雪と、蛍が共に空を舞う。
 とめどなく噴き上がる水の内に輝く七色は、ほんの小さな宝石の粒のように見えた。水の飛沫と共にキラキラと舞い上がった後に池に落ち、水底から噴水を照らし上げる照明の上に積もってまたきらめき、水中を彩る虹の欠片は空を飾る蛍と雪と水面で出会って、絶え間なく揺れる波の中で全ての光が雅やかに手をつなぐ。
 歓声を上げて道化姿の女がステージに駆け上がってきた。見ればミシェル・ビップだ。ステージの中央で派手に転んで尻を打った彼女が恥ずかしそうにおどけてみせて、それから舞台袖に合図を送ると、どうやら彼女の仲間であるらしい集団も駆け上がってくる。それぞれにやはり道化の格好をしていて、ビップを中心にして列を組むと楽の音に合わせて観客を囃し立てながら踊り出す。
 軽快にステップを踏む派手な道化の衣装は花の国の妖精達を思わせて、雪と蛍と七色の噴水は魔法の国を現世うつしよに顕していた。
 その陽気さと幻想に惹きつけられて、やがて広場にも人が溢れ出てきて踊り出す。
讃えよ、肉をウィーモ・ロ・ミーモ!」
 活気を取り戻したフェスティバルを象徴するように、『ミートパーティー』の中からその合言葉を叫んだのはどうやらあの五人の子役達であるらしい。
 最後にヒロインとなった小さな魔法使いは王女に手を引かれ、途中で未だ繭に包まれたままの王子様とその従者の祝福を浴びながら母の元に返るや、母に抱きしめられて誇らしげに赤らめた頬をほころばせる。
 そして母に抱きしめられながら、彼女はきょろきょろと周囲を見回した。
 ――しかし、彼女がこのトンガリ帽子とステッキを与えてくれた中折れ帽の『魔法使い』を見ることは、二度となかった。

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