恐ろしい妖女よりも恐ろしい、それを聞く者にその痛みを実際に感じさせてしまうほどの衝撃が去った後、水の止まった噴水の周りには、囁くようなざわめきがあった。そのざわめきを生む心の全ては、池のほとりでさめざめと泣く王女と、彼女を厳然と見下ろして直立する繭とに差し向けられている。
「台無しよぉ〜、台無しよぉ〜」
ジンジンと熱く痛む背中を誰にも治療してもらえぬまま、ティディアは繰り返し嘆いていた。
「こんな結末は違うのよぉ〜お」
「な、に、が、台無しだボケェ!」
弁明もなく被害を訴え続ける加害者に、いい加減我慢の出来なくなったニトロが繭の中から怒声を上げた。その拍子に繭が倒れそうになるのを芍薬が支える。
「台無しなのはこっちのお祭りの方だろう! 折角みんな楽しんでたのに、何かが違うッてんならお前がこんな馬鹿げたことを持ち込んだことが一番違うわ!」
「それが違うのよ!」
がばと上半身を起こしてティディアが涙目で――痛みのためか失望のためかはともかく――大粒の涙の浮かぶ眼で反論した。
「お祭りなのよ、ふェスティバーる! これはその出し物なのよ! 恐ろしかったでしょう? ゾッとしたでしょう? 暑気が払えたでしょう? 暑い夏の夜にこそ楽しい怪奇な現象で納涼よ!」
「いくらなんでも度が過ぎとるわ!」
と、叫んだ直後、ニトロは眉をひそめた。広場を取り巻く人々の中にはフェスティバル運営関係者もいるが、そちらも解せぬ様子であった。
「……いや、いやいや違う。出し物ってんなら今は、えーっと」
「進行ガズレテナケリャ『ミシェル・ビップ』」
「そう、ありがとう芍薬、そのビップさんの一人芝居のはずだろう。それも確か怪談物だったはずだけど」
「それを変更したのよ」
「はぁ?」
「ビップ!」
ティディアが一方に顔を向けて呼びかけると、久しく倒れていたあの小蜘蛛に噛まれておかしくなった女性がむくりと立ち上がり、まるでカーテンコールを受ける女優のように優雅な辞儀をした。所々から驚嘆の息が漏れたのは、彼女が知己の目を欺く見事な変装をして、しかも驚くべき『演技』を見せつけたからだろう。そしてそれ以外の人間は唖然として口を開ける。
「ソレトサ……主様……」
と、皆と同じく唖然として言葉を失っていたニトロに、そろそろと芍薬が声をかけた。その指は首から血を流して倒れている子どもと、未だ焦点の合わぬ目をした四人の子ども達を示している。
「ああ」
ニトロは気を取り直し、そちらを一瞥して――眉をひそめてから――言った。
「大丈夫。こいつはバカだけど、死にはさせないし、死にかけさせてもいないよ。ってことはアレだ。あの子達も?」
ニトロに問われたティディアは眩いばかりに顔を輝かせていた。彼の確固とした言葉の裏地が心底嬉しそうにうなずいて、その胸の昂ぶりを示すように六つの複眼をぎょろぎょろ躍らせ、
「そう、『子役』よ。皆、ご苦労様、自由にしていいわ」
その言葉と共に、首を切られた男児が身を起こした。他の四人の表情も平時に戻る。数匹の小蜘蛛に手伝われて顔から腹まで覆っていた人工皮膚と“仕掛け”を外して精巧な血糊を拭っている男児の下に四人が集まって、それから皆して雇い主の王女に元気よく挨拶すると、何やら言い合いながら――どうやら互いの演技への批評らしい――『ミートパーティー』の区画へ去っていく。
先刻までの恐怖と混乱はどこへやら、観衆は完全に毒気を抜かれてもうどよめきすらしていない。ニトロは芍薬に言って抱え上げてもらい、それからくるりと一回転してもらって周囲を確認し、
「なるほど。出し物、ね」
また同じ場所に下ろしてもらってから、一度うなずいた。
それがティディアには『あらゆる理解』に思えたらしい。己の言い分が正当なのだと言いたげに改めて不満を顔にする。
「ほら、だからニトロがそんなに怒るほどのことじゃなかったのよ!」
そこへ即座にニトロは問う。
「それじゃあ聞くが、例えば、あの子は?」
ニトロが示したのは、母親に庇われるようにして未だ蜘蛛の糸に囚われている女児だった。その顔は己に巻きつく糸よりも真っ白い。ティディアはあっけらかんと答える。
「全く知らない子」
ゴ
と、ティディアの頭から物鈍い音が鳴った。
それがぐるんと回ったニトロの腕から打ち落とされた拳骨の打撃音だと悟った時、ティディアは悲鳴を上げた。
「痛ったあああああ! いきなり何するのよニトロ!」
「これが怒るほどのことじゃなくって何だってんだバカ姫!」
ビシッと別の場所で糸に絡まっている男の子を指差しニトロは言う。
「あの子は!」
「知らないわよ!」
「あっちの子は!」
「全くもって!?」
「向こうの――高校生達は!」
「仲良さそうだけど後々喧嘩になりそうなポーズで固まっているなって思いました!」
「つまり!?」
「遺憾であります!」
「ようするに他のは全部巻き込まれただけだな!?」
「遺憾ながら認めます!」
「てことはやっぱり納涼だ何だと言ったところで無駄にトラウマ大生産するだけだろうがあああ!!」
この日一番の怒声が、繭の穴の底から飛び出した。
「このクソ糸の中でも音で大体のことは理解できてたけどな、てか見ずとも分かるほど酷い場面を立て続けに見せつけられてしかも自分もその餌食になりそうな体験なんてどんだけ心を抉ると思ってるんだ! 見ろ! あの子はあんなに顔がびっくりするぐらい蒼白で、絶対にまだ事情が解ってないぞ!」
しかしティディアは食ってかかる。
「トラウマなんて何よ! そんなの後日何かのイベント時に乗り越えることで新たな力を得るキッカケくらいになろうってもんじゃない!」
ぐるるんとニトロの両腕が回転した。
ンゴゴ
と、音がして、先より甲高い悲鳴が上がった。
「そりゃ大体フィクションの話だッつーかそれ以前にトラウマ舐めんな! それにそういうのは克服した本人が言うならまだしも間違っても加える側が言えるもんじゃねぇだろう!」
「遺憾ながら私もそう思います!」
「ッお前――ッ」
「でも、だからこそ、台無しなのよ」
喉を軋らせ血を吐きそうなほど叫ぼうとしたニトロを、ふいに漏れたティディアのため息が押し止めた。
「ねえ? ニトロは解っていたでしょう?」
じっと上目遣いに見上げてくるティディアの問いに、ニトロは一つ考え、
「ああ、これが『バラ姫様』と『アリュークナ』の混ぜもんってことか?」
ティディアは微笑みうなずいた。
『バラ姫様』は花の国の美しいお姫様の物語で、悪役として蜘蛛女が現れて、その国で唯一魔法を使えるお姫様を糸で包んで食べてしまう。一方の『アリュークナ』は魔法使いの国の傲慢な后が美しい継子を妬むあまりに魔物に変身し、悪行を行うものだ。どちらも昔から親しまれている児童文学で、また、どちらとも六本の足と二本の腕を持つ半人半蜘蛛の女神フィネラを基にしながら、それとの差別化で人の体に二本の腕と蜘蛛の体に八本の足を持たせている。そして、『バラ姫様』の蜘蛛女は若く猛き勇者に、『アリュークネ』の后は魔法使いの国に最後に生まれた小さな魔法使いに打ち倒される。
「涼を納めた結果トラウマ作っただけ、なんてのは私も願い下げよ。そんなの笑えないじゃない」
ティディアは肩をすくめ、
「けれどね? トラウマを作るほど――主役サイドを追いつめる時はそりゃもう受け手にトラウマを植えつけるほどの強烈な展開があればこそ、その後に来るカタルシスってものは強力になる。逆に言えば、そのカタルシスこそが強力でなければ、落とされている時の恐ろしい体験を昇華して“トラウマ”を『トラウマ』足らしめぬことは叶わない」
ぐっと拳を握り、さらに彼女は熱弁する。
「だから今回ばかりは恐怖を脅威で張り倒すんじゃなくって、恐怖を勇気で覆すのでなければ駄目だったのよ! ああもう腹立たしい、悔しい、情けない! 私はあんなに解りやすくヒントを出していたっていうのにいつまで経っても誰も乗ってこないなんて! 誰も乗ってこなければやっぱり結局台無しになるだけなのに!!」
演説を聞いていたニトロは眉間に深い皺を刻み――それを自分の指で叩けない。察した芍薬がトントンとその眉間を叩き――そうして彼は、訊ねた。
「つまり、お前はこう言いたいと? 全て意を察してお前に尽くさぬ皆が悪い、って?」
「その通り! 当事者なのに正しく当事者でいられないのは害悪ってもんでしょう!?」
「無茶振り過ぎる上に理不尽極まりねぇこと堂々と抜かすな阿呆! つかそんなんだったらカタルシスだ何だと言ったところで初めッから破綻大確定じゃねぇか! てことはやっぱりお前だけが害悪だ!」
「いいえ、そんなことはない!」
「この期に及んで、な・ん・で・だ!」
「だって保険があるじゃない!」
「ンなもんどこにあるってんだ!」
「『彼』が!」
う、と、ニトロはうめいた。
そうだ。
ハラキリ・ジジ、我が戦友にして親友、彼もバカ姫の『種本』には気づいただろうし、おそらくその目的とすることも聡く悟ったことだろう。――しかし、この期に及んで彼は一体どこにいるというのか。
「『彼』がいるんだから何がどうなろうと大団円に仕向けてくれると思っていたのに……」
肩を落とし、ティディアがむくれたように口を尖らせる。
「てか」
ニトロも今更ながらに全く動きのない友のことを(まさかまだ公園にいないのだろうか)不満に思いつつ、
「あいつは目立つのが嫌いなんだから、そんなことをするわけがない、とは思わなかったのか?」
「『人質』がいるのに?」
「……」
ニトロには何も応えられなかった。
芍薬も黙している。
ティディアも口を結んで、三人の沈黙が耳をそばだてる周囲にも沈黙を強いていく。
そこに、
「わ、わるいまじょめ……」
静まり返った広場に、鏡のような水面に一滴の雫が落ちるがごとく、小さくかすれた声が上がった。