8:23 ―凶―


 芍薬は校内施設を管理する汎用A.I.の誘導に従い、教員用駐車場の飛行車発着スペースへと飛行車スカイカーをゆっくり降下させていた。生徒が自家用車で登校することはともかく、そのために教員用駐車場を利用することは規則で禁じられている。が、ニトロ・ポルカトは特別に利用を許可されていた。もちろん、彼は本来特別扱いされることは好まない。しかし、
「今日も一杯いるね」
 学校の周囲、特に正門の周囲にある人だかりを見ながら、ニトロは嘆息混じりに言った。
 報道関係者の姿はほぼないが、それでも組織に属さぬ上に怖いもの知らずのフリーライターやパパラッチの影はいくらか見え、またそれ以上に、そもそもマスメディアに利害を持たぬ一般人――『ニトロ・ポルカト』のファンや単なる好奇心旺盛な野次馬は自由気ままに集合と離散を繰り返している。とはいえ、ハラキリに言わせるとこの程度の数で済んでいるのはやはり『クレイジー・プリンセス』の脅威が働いているためらしい。だが、ニトロには、それでも人の数は『劣り姫の変』以降激増し、さらに日に日に増してもいるように感じられてならなかった。いや、人数の増加はハラキリも確かに認めていた。
 学校が――実際にはティディアのポケットマネーで――雇う警備員の数も増えた。
 こうなってはニトロも特別扱いがどうのと言ってはいられない。これまでは車を使うにしても学校近くで降り、または自転車や公共交通機関を使って登校する日も多くあったが、今やそんな朝はなく、必ず飛行車を用いて直接学校の敷地内へ降り立つことにしていた。
「大丈夫、記録レコードハ更新シチャイナイヨ」
 運転席でハンドルを握る芍薬が言う。あえて慰めにならない言葉を選んだ慰めに、ニトロは笑った。そのレコードが刻まれた日はちょうど一週間前、ティディアが定例会見において『誕生日』への『恋人』の参加を発表した翌日だった。
「あれはひどかったね」
「ソレニ比ベリャ閑古鳥ダヨ」
「このまま閉店といきたいもんだけどなぁ」
「御意」
 静かに、飛行車が着地する。
 窓からは校外の人影はもう見えない。代わって、駐車場を臨む事務棟からの視線が身に刺さってくる。
「ソレジャア、予定通リニ迎エニクルネ。モシ変更ガアルヨウダッタラ連絡シテオクレ」
「了解。よろしくね」
 バッグを手に外へ出たニトロは上昇していく飛行車を見送ると、足早に駐車場を出た。正門からの歓声に会釈を帰しつつ、職員や業者、あるいは客の使う通用口を通って事務棟に入る。
 階段に差し掛かると途端に彼をざわめきが取り巻いた。
 登校してきた『ニトロ・ポルカト』を見つめていた生徒達の様々な声だった。
 先に進むにつれ、挨拶をしてくる男子生徒がいれば、小さく歓声を上げる女子生徒もいる。仲間同士でこちらを見つめたまま何やら口にし合う者達もいる。あの『映画』に出演したことで有名になり、さらに『ティディアの恋人』として世間の度肝を抜いた頃は校内でも大人気のアイドルのように取り囲まれて大変だった。だが、最近では流石にそういったことはない。時が経つにつれ、稀にミーハーな生徒が突撃してくることはあるものの、大抵は“身近な有名人”あるいは“いることが分かっている希少生物”を目にした時に取る態度……生徒間ではそういった距離感が定まり、『劣り姫の変』以降にもそれが保たれている。
 とはいえ、やはりここでもニトロは落ち着かない。常に注目の的であり続け、愛嬌を振りまかないまでも忌避の顔にはならぬよう気をつけながら階段を三階まで上がり、事務棟から第一教室棟への連絡通路を渡っていく。
 己の所属する教室についたニトロを出迎えたのは、一瞬の注目、それから、ざわめき、しかし先ほどまでのものとは違うこちらへの干渉のないざわめきだった。
 ここは、学校の中で最も『普通』のある場所。
 ある者は一人でぼんやりと、ある者はクラスメートと笑い合い、それぞれ思い思いの時間を過ごしている中で、
「よ」
 至極気楽な調子でニトロへ声をかけてきたのは、ミーシャだった。特に席順は決まっていないため、彼女は窓際の席に座り、その隣には今日もクレイグがいる。彼も片手を挙げてニトロへ挨拶を送っていた。
「遅刻寸前。寝坊でもしたか?」
 しれっと言ってくるミーシャに内心苦笑し、ニトロは彼女が示す席――彼女の後ろの席に座った。窓ガラスは曇りなく透き通っているが、特殊フィルムのために外から中を見通すことはできない。
みちが混んでたんだ」
 ミーシャに話を合わせて返事をし、バッグを机の横に掛けたニトロはそこから生徒手帳を取り出した。手帳を机の右上隅に置く。すると机に内蔵されているコンピューターがチップから生徒情報を読み込み、システムを起動させた。
「ミーシャは眠そうだね」
「昨日は勉強を頑張ったんだ」
 机の天板は板晶画面ボードスクリーンにもなっている。ニトロは要求されたパスワードを打ち込み、一時限目の授業のための教科書とノートのデータを呼び出し、それからクレイグに目を向け言った。
「おい、嘘つきがいるぞ」
「おい、そりゃどういうことだよ」
 ミーシャがニトロへ突っかかろうとするのをクレイグは笑って見つめている。
 ニトロはミーシャの非難の目を軽く肩をすくめることで受け流す。彼女もそれ以上は押し込んでこなかった。嘘は下手に重ねない方がいいと、彼女も知っているのだ。ニトロは女友達の足元、イスと窓の下の日陰に隠すようにして置いてある小ぶりなスポーツバッグを一瞥した後、横に目を向けた。
 教室の廊下側の壁にも大きな窓があって、生徒用のコンパクトなロッカーが並ぶ廊下を見渡せる。
 8時30分になれば授業開始だ。残り1分を切り、廊下に生徒の影はない。
「ハラキリはまだ?」
「来てないね」
 クレイグが言う。
「この分じゃ、遅刻かな」
「サボりじゃないか? 常習犯だし」
 伸びをしながらミーシャが言った。ニトロは、いくらか釈然としないものを感じながらもうなずいた。
「かもね」
 ニトロの右隣、クレイグの後ろの席は空いている。クラスメートは皆、そこにハラキリが座ると思っているのだろう。ニトロの背後に座った男子が「おはよう」と言ってきた。ニトロが返事をしたところで、廊下に白髪の中年男性が現れた。銀河共通語の教師だ。彼が教室に入ってくるのと、チャイムが鳴るのは同時だった。
「おはよう。出席を取るぞ」
 教師が言うと、各自の席のボードスクリーンに確認ボタンが表示された。生徒手帳に付属しているタッチペンを手にし、ニトロはそれを押す。生徒らの確認を経て、教師の持つA4サイズのボードスクリーンにデータが反映される。
「ジジはサボりか?」
 それは、ニトロに向けられた言葉だった。
 その教師は生徒との距離を縮めないことで知られているが、しかし口調にはどこか特別の柔らかさが、少なくとも他の生徒には向けられることのない柔らかさがあるとニトロには感じられた。もちろん、これは自分の単なる思い込みなのかもしれない。誰かが「あいつは校長みたいにポルカトに媚びている」と言っているのを聞いたことがあるわけでもない。ただ……
 ニトロは、一人の生徒らしく、ただ首を振った。
「そうかもしれません」

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