8:30 ―大凶―
ジスカルラ中央市場の周囲では、市場関係者や場外市場へ買い物に来る客に向けた飲食店が早朝から明かりをつけている。その内の場外市場の近くにある店の多くは買い物客、あるいは観光客向けであることが多く、それらのほとんどが洗練され、かつ有名なチェーン店も目立つ。一方、場外市場を離れ、さらに目抜き通りも離れ、市場関係者しか知らないような路地には個人経営の素朴な店が所々で看板を掲げている。
場外市場の店で予約した品が届いていないことを知ったハラキリは、それが届くまで暇を潰そうと『トクテクト・バーガー』に入ろうとしていた時、その店の人間からメールを受け取った。今から三十分前のことだ。
その際に添付されていた地図に従って彼がやってきたのは、中央市場の程近く。
そこは、市場関係者以外対入り禁止の区画にめり込むようにある店だった。
市場の公式サイトが提供する地図では立ち入り禁止となっている道を通らねば辿り着けないのだが、その道は実際には禁止区域でも何でもない、単に便宜上そう表示されているだけだという。実際にその場に行って
「ハモンさん、こちらです」
歴史を感じる三階建てビルの一階、一見小汚い喫茶店のような外観を擁する飲み屋の奥に席を取っていたハラキリは、建てつけの悪いドアを開いて店に入ってきた男に軽く手を振った。
男は大きな口をへの字に曲げて、手に厚手のビニール袋を提げてハラキリの座るテーブルへと歩み寄ってくる。周囲のテーブルを埋める市場関係者が彼に声をかけ、彼はどうにも気まずそうに返事をしながらハラキリの向かいに座った。
「随分と早いですね。驚きました」
「いや〜」
ハラキリの言葉に、男はへの字の口に負けないくらいに眉を垂れ、
「あの後じじいに怒鳴られてな。約束忘れるようなバカはもう店に出るな! もっとちゃんと詫びるまでは戻ってくんじゃねぇ! って」
恐縮そうに語る男――ハモン果実店の若旦那の後ろにいた老人の姿を思い出し、ハラキリは目を細め、
「それで……」
と、ハラキリが、ハモンが持ってきて、今は彼の隣の椅子に置かれているビニール袋へと目を動かすと、彼は急くように大きくうなずいた。
「さっきは本当に申し訳なかった。これが約束のもんだ、確認してくれ」
ハモンは力強くビニール袋をハラキリへ差し出す。その拍子に袋の中身がハラキリの飲んでいたアイスコーヒーのコップにぶつかり、危うく倒しそうになる。
「ああ、すまん!」
失敗に失敗を重ねてハモンが大声を出した。その上、慌ててコップを支えようとするからビニール袋が振り回される。
「大丈夫ですから!」
流石に気が気でなく、ハラキリは声を張り上げてハモンを制した。一喝するような年下の声に、ハモンははたと平静を取り戻して照れ臭そうに笑った。
「わりぃな」
「いえいえ」
軽く言いながら、ハラキリはやっとビニール袋を受け取った。
内心ひどく安堵しながら、まさかこのように運ばれてくるとは思わなかった品を膝に置く。それから、足元に置いていたブリーフケースから手袋を取り出してはめ、中身を取り出す。
「――ふむ」
ハラキリは、唸った。
袋に入っていたのは、三枚のアナログレコードだった。
「やけに仰々しいな」
ハモンが言うが、それには目の動きだけで応える。ハラキリは一枚一枚、ジャケットの中から取り出しては薄暗い料理店の照明の中で真剣に状態をじっくりと確かめる。その三枚のレコードのジャケットには何も書かれていなかった。またレコード自身にもラベルがない。無地のジャケットの裏側に、誰かの手で書かれた三通りの文字を見つけたハラキリは、そこにハモンから聞いた通りの内容を確認してにこりと笑った。
まず、一番左にアデムメデスのものではない文字で収録曲が書かれている。その横に、またどこかの星の文字。そしてさらにその横に、アデムメデス語で注釈、あるいは推測のメモがされていた。
ハラキリが取り上げてみた一枚には、アデムメデス語でこうあった。
『交響曲、第五(以下不明)』
真ん中の文字から導いた、一番左の文字が成す意味――曲名である。
『ビートホヴェン』
これは、おそらく作曲者の名であろう。
ハラキリには一番左の文字に見覚えがあった。
「ふむ」
ハラキリは興奮を押し殺して、うなずいた。
何がどうして、地球のアナログレコードがここにあるのかは分からない。
「ふむ」
三枚あるレコード。その最後の一枚には『アルハベト』だけでなく『カンジ』も二個刻まれていた。何だか出来損ないの象形文字のようにのたくっているが、ああ、この『カンジ』が示すのは、そう! 『
曲名はアルハベトで書かれているため、もしかしたらこのレコードを作った者(おそらく二番目の文字を書いた者)が、内容とは関係なく単なるメモとしてここに『日本』と書いただけかもしれない、という点が不安ではあるが……いや、この一枚にはきっと日本の音楽が入っているだろう。母のコレクションの中にも日本の曲の聴けるものはある。それらは全てデジタルデータだが、比較検証するにはデジタルもアナログも関係ない。このレコードに収録されている曲にもし既知のものがあれば、少なくとも真偽は判明する。さらに未知の曲があれば何と素晴らしい!
……それに。
(これが『本物』という可能性も、ないわけじゃない)
確かに、全星系連星非加盟国、かつ外宇宙進出もまだの辺境の星から物を持ち出したり、それ以前に『入星』したりすることは違法である――が、稀にそういった『違法』な品物が存在することも厳然たる事実だ。無論、その品が違法だと知った上で売買、また所持すれば罪にも問われる。しかし、この品は、
「お爺様は、これをどこで?」
ハラキリの真剣さに飲まれたように黙り込んでいたハモンは、突然問われて我に返り、
「わからん」
「記録は残っていないのですか?」
「全くな。それに、オフクロの話じゃ爺さんは出所不明の品でも気に入ったものなら何でも買ってたそうだ。お陰でガラクタの山が財産をかなり食っちまって大変だったとよ」
「なるほど」
ハラキリは内心、したりと笑った。
ならば、こちらとしては何も調べようがない。
ハモンの母方の祖父は天涯孤独の身で、妻とは離婚し、親族は娘夫婦とその子ども達だけ。当人は半年前に亡くなり、その遺産……つまり『ガラクタの山』は娘に引き継がれ、そしてハモンの母はガラクタの山を息子に譲った。というよりも、処分を押し付けた。押し付けられたハモンは、面倒ではあるが、かといって男一人が人生をかけてコツコツ集めていた物を簡単に処分するのは忍びない、例えガラクタであってもだ――と、死んだ祖父の孫らしく、今度は逆にコツコツ引き取り手を探しているということだった。
そこに現れたのが、ハラキリである。
ハラキリがニトロの頼みでパトネトのためのイチゴを買いに中央市場場外市場を訪れた際、『映画』に出ていた『ハラキリ・ジジ』をはっきり覚えていたハモン果実店の若旦那はとても気さくに話しかけてきた。彼はどうやら助演男優の方が――アクション映画好きだという――お気に召していたようで、当時語られた小さなネタ……ハラキリ・ジジの母は“軍事評論家”で、また知る人ぞ知る王棋の高レベルのアマチュアプレイヤーであり、同時にその世界では異星の文化に傾倒する変わり者として知られている……ハモンはそれをしっかりと覚えていた。
一週間前、やはりニトロの頼みで二度目の来店となったハラキリ・ジジに、ハモンは言った。
――「うちにあるアナログレコードにも変な異星の文字が書かれているんだがね」
パトネトのイチゴへの感想を聞かれても面倒だ、用事を済ませて早く店を離れたいと思うハラキリは適当に話を合わせ、するとハモンは携帯に写したその文字をハラキリに見せた。
ハラキリが心底驚いたことは言うまでもない。
そしてハラキリは、あまりに強くそれを欲しがれば、相手に不審がられ、場合によっては“ライバル”を引き寄せてしまうかもしれないと、努めて冷静に商談を行った。
ハモンは言った。『ガラクタ』はまだ祖父の家にあるから取りに行かないといけない。ちょっと遠いところにあるし、今はひどく忙しいのでいつ取りにいけるか分からない。だが、一週間後までには絶対に取ってくる。店に来るのでも、郵送でもいい。金額は現物を見てから相談しよう。もし早く手に入ったらメールする。
できればすぐにでも見たかったが、ハラキリは了承した。
「いやな、実は三日前にはもう持ってきてたんだが、ちょっと色々あってな」
長い
しかし、ハラキリは小さくうなずいただけで別に責めもしない。先ほど忘れていたのは確かにいただけないが、こうしてちゃんとレコードが手元にやってきたからには問題ない。
(ただ、残る大問題は、ジャケットと中身が別物――という可能性ですかね)
そう思いつつ彼はレコードをビニール袋にしまい、手袋を外し、ハモンにうなずいてみせた。
「それでは、金額はどうしましょうか」
するとハモンは鼻を鳴らすように一つうなり、
「正直、よく分からない。相場も調べては見たんだが、それも物によって変わるだろう?
「でしょうね」
「他の、しかもどこの星のだか分からねぇのはどの相場に乗せたもんか。まあ、アナログレコードの愛好家か、異星文化の研究者か。だがな? だとしても、そもそもこれが本当に異星のものか俺にはわからねえ。曲を聴いたところで本物かどうか確かめることもできねえし、もしかしたら全然異星のもんなんかじゃなくって、どっかの誰かが悪戯か詐欺目的で作ったものかもしれねえ。俺は――売りつけようとしながらこう言うのも何だがな、実はその可能性のが高いと思ってるんだ」
なるほどハモンも偽物の可能性は考えていたか。ハラキリはうなずいた。そして、
「そうですねえ。それは仰る通り。それで? あなたなら幾らつけますか?」
ハラキリは自分からは金額を言わず、ただ促した。その方が良いと踏んだのだ。
「そうだな……」
ハモンには、ハラキリとの約束を忘れていたという『負い目』がある。彼はそういう事情も値段に組み込むタイプの人間である。
「三枚全部で、15……いや――
……9」
「……」
ハラキリは、即答を避けた。
アイスコーヒーを飲んで間合いを取り、レコードを収めた袋を一瞥する。
ハモンの目には、どこかおどついたものが閃いていた。
料理店には喧騒があった。仕事を終えた酔っ払い達が、がやがやと陽気に語り合っている。
ややあって、ハラキリはうなずいた。