7:45 ―凶―


 王都の東南部の一角にある、ジスカルラ中央市場。王都民のみならず、副王都他の隣接する領にも新鮮な食材を供給し続ける中央大陸最大の市場である。
 中央市場内には、業者しか入れない。もちろん一般人でも見学を申し込むことはできるし、業者の付き添いとして認められる範囲なら入場することは可能だが、売買に参加することまではできない。それでも、一般人がどうしても中央市場で買い物を楽しみたいというのなら? ならば、その人は場外市場に足を向けるべきだろう。
「おはようございます」
 中央場外市場の青果店が立ち並ぶ区画は、朝日を受けて色彩豊かに輝いていた。
 根菜類の土の色、葉野菜の瑞々しい緑、今にも弾けんとばかりに膨らむ果実の目の醒めるような赤や黄やオレンジ。格子状に広がる小路を挟んで軒を連ねる店頭には自信を持って選ばれた食材が美しく並べられ、あるいは山と詰まれ、原色は溶け合い、暗色は誇示し、コントラストも見事なあやが織り成されていた。
 そして、ここには常に喧騒がある。
 店内からは店員達の威勢のいい声が常に飛び交う。その声と、収穫されてなお生命力に満ちる品々に目を回すように小路をさまよう客のざわめきが混然一体となって熱を持ち、空気は心地良く張り詰めている。
「――おお、ジジさん!」
 ハモン果物店でコーロー産のグランドベリーを讃えていた若い男は、声をかけてきた人間の正体を悟るや売り声の音量そのままに言った。
「おはよう! 調子はどうだい?」
「変わりはないですよ、ハモンさん」
 堅い皮製のブリーフケースを片手に提げたハラキリは、それだけを言った。
「そりゃあいい。変わりがないのが一番さ! それで、今日は何を持っていくんだ!?」
 以前、自分の店から買われていったイチゴが王子様の口に入ったことを知っているハモンは、大きな口で大きな笑顔を作って続ける。
「イチゴならモレドのいいのが入ってる。フェディルのブドウもいいぞ、珍しいのじゃあカランのグウォンギャイだ。試しに置いてみたんだよ、見てくれはおかしいがな――」
 と、茶と青のマーブル模様のフリルスカートをつけて捻じ曲がった洋ナシ、といった形状の果物を指差すハモンの背後では、彼によく似た老人、ハモン果実店の先々代がむっつりと板晶画面ボードスクリーンを見つめている。おそらく帳簿でも確認しているのだろう。
「味は最高だ。果肉は桃に似ているが、味は甘いヨーグルトに近いな、舌で押し潰せるくらい柔らかくて、とろりとクリーミーに喉を通っていくのは絶品だぞ」
「……はあ」
 ハラキリは、それだけを口にした。眉間に皺を寄せ、それが明らかに困惑を示しているのに気づいて、ハモンも太い眉毛をぐっと寄せ合わせる。
「ジジさん、どうした? 買い物に来たんじゃないのか?」
「買い物に来たというのは間違いじゃないんですがね」
 ハラキリは苦笑して、訊ねた。
「例の約束の品は、未入荷ですか?」
 すると、若いハモンはあんぐりと口を開けた。
「あ、ああ、ああ!」
 何度もうなずきながらポンポンと手を打つ。
「あれは今日だったか!」
 ハラキリは、頭を抱えたかった。
「そちらが今日と言っていたはずですが」
「そうだった! すまん! うっかりしていた!」
 頭を掻いてハモンは大笑いする。ハラキリも頭を掻き、
「仕方がありませんね。では、また後で取りに来ます。何時くらいに来ればよろしいですか?」
 そう問われたハモンは、そこで笑うのをやめ、急に深刻な顔となってハラキリを見つめた。
「何だ、そんなに急ぐようなもんだったのか。そんな感じはしなかったが」
「急ぎはしませんが、楽しみにしていましたから」
「ああー、そりゃあ悪いことをした、申し訳ない。そうか、それにわざわざ来てくれたってのにな、本当に悪いことをした」
 先ほどとは一変し、ばつが悪そうに頭を掻いてハモンは言う。
「あれはちゃんと家にはあるんだ。店は11時に仕舞う。が、片付けも全部終えた後一度戻って取ってくるとなると、早くても13時にはなる」
「構いません」
「学校があるだろう?」
「構いません」
 平然とハラキリが言うと、ハモンは微妙な顔をした。自分が原因で学生をサボらせるはめに陥らせてしまったものの、その学生が事も無げにサボることを宣言する姿が面白いらしく、笑ったものか、それとも年長者として苦い顔をするかを迷っているようだった。
「分かった。できるだけ急ぐ。メールするよ。まだアドレスは生きてるだろ?」
「了解しました。よろしくお願いします」
 ハラキリは落胆しつつも、怒りは感じていなかった。むしろ、こういうこともままあるものだと、諦観にも似た心情しかなかった。
 すると、特に大きな表情の動きを見せないハラキリに対し、だからこそ彼がとても怒っているとでも思ったのだろう、すっかりしょげ返った様子でハモンが、
「ジジさん」
 と、ウェットティッシュでよく拭いたリンゴを差し出した。少し小ぶりなリンゴで、光沢のある赤い皮には蝋を流しかけたような黄色の紋がある。種がなく、皮も美味という高級な品種だ。
 ハラキリは、笑み、
「いただきます」
 リンゴを受け取り、ハモンの「できるだけ急ぐよ」という繰り返しに手を振り店頭を去った。すぐに新たな客へ応対を始めた威勢のいい声が背にかかってくる。もらったリンゴを齧りながら、客の行き交う売り声のトンネルを歩くハラキリは、ほどほど行ったところで一つ息をついた。
(さて)
 これからどうしたものか。
 この買い物の利便のために泊まっていたビジネスホテルは、既にチェックアウトしてしまった。場外市場もこれからさらに客が増えてくる。活気のある場所をぶらつくのはそれだけで楽しくもあるが、さりとて人込みに揉まれるのは趣味ではない。
「……」
 ハラキリは小路の交差する場所で、ふと立ち止まった。人通りの中、特異点のように存在する静かな片隅から賑やかな市場を眺める。
 趣味、といえば――
「……」
 しばらく前までハラキリは、食材を手にしようという人間、少なくとも食に興味のある人間が訪れるこういう場所に自分は一生馴染むことなく終わるだろうと思っていた。しかし、周囲の環境のために困っている友を手助けしているうちに、それが、いつの間にか馴染みの場所となってしまっていた。もちろんこの場外市場へ頻繁に来るわけではない。が、この場外市場以外にも友の頼みに応じて色々な店を回るうちに基礎的な目利きはできるようになってしまっていたし、いくつかの店の人間には顔と名を覚えられてもいる。
「……」
 色とりどりの青果の間を行き交う人々の目は食欲に煌いていた。それはすなわちヒトという動物の生命力の発露であろう。声が飛び交う。笑い声もある。親に手を引かれた子どもが一心不乱にカットフルーツを齧っていた。少し先では値段交渉のために丁々発止のやり取りが華を咲かせ、どこかから試食した果実への賞賛が聞こえてくる。
「……」
 ハラキリはリンゴを芯まで食べ尽くし、ちょうど近くにあったゴミ箱にリンゴの軸を捨てた。
「さて」
 彼は踵を返した。
 なるほど、確かにここは歩いているだけでも楽しく、人を観察するにも楽しい場所だ。だが、そのような場所で本来楽しみにしていた事からだけは肩すかしを食らってしまったのだと思うと、なんだか残念な気分が後を追って増してきてしまう。
(とにかくも、どこかでコーヒーでも飲んで時間を潰しましょうかね)

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