「うーん……まあ一応、方向性は、定まってきたかな」
彼女はスライサーからニトロに目を移し、映像越しにじっと覗き込むように見つめてきた。だが、すぐにスライサーに目を戻し、
「色々大変だもんな、はっきり決めるにしても」
余計な詮索はせず、かといって過度な同情を込めるわけでもなく、それだけを言う。ニトロは柔らかな苦笑を浮かべ、うなずいた。
「ミーシャは? どっちにするか決めた?」
キュウリを塩もみする。ミーシャも倣いながら、
「やっぱり大学にしたよ」
「そっか」
ニトロは包丁で、ミーシャはスライサーでタマネギを薄くスライスする。
「俺もそっちがいいと思うよ」
すると、ミーシャが不思議な表情を浮かべた。笑っているような、面白がっているような、思い出し怒りをしているような……
「どうしかした?」
スライスしたタマネギを水にさらす。
「ニトロとハラキリは仲いいけどさ、言い方は全然違うよな」
「ハラキリ?」
進路の話題に持ち出されてきた意外な名前に、ニトロは眉をひそめた。
「思いっ切りストレートに『そんな決め方はバカだと思いますが』って言われた」
ニトロは、さらに眉をひそめた。
ハラキリが他のクラスメートの進路相談に乗るなど聞いたことがないし、“表向きの”彼の態度からすればそれは意外極まることだ。見れば芍薬も驚いたような目をしている。
「昨日、帰りに『トック』に寄ってさ」
その瞬間、ニトロは理解した。彼女に付き合わされた買い出しが終わって、さあ帰ろうとしたところで再び勢い任せにトック――つまり『トクテクト・バーガー』に引きずり込まれるハラキリの顔が目に浮かんだ。
「ハラキリは早くから進路を決めてただろ? だから、相談してみたんだ」
「うん」
それを言うならミーシャも早くに進路を決めていた。しかし、クレイグと無事交際し始めた折、彼女はふいに迷ったのだ。彼と同じ学校に?――と。
「そしたらばっさり斬られた。しかも面倒臭そうに『はあ』なんて生返事をしてから言うんだよ。少しは言葉を選ぶべきだとは思わないッ?」
思い出し怒りが勝ったらしい、ゆで卵の殻を剥きながらミーシャは語気を強める。卵の殻は――ニトロの危惧していた通り――剥きにくそうで、そのイライラも加わっているらしい。
一方のニトロは、正直、笑いを堪えるのに懸命だった。あまりに情景が目に浮かぶ。しかも、どうせ彼はフライドポテトでも齧りながら片手間とばかりに応えたのではないだろうか。見れば事情を理解したらしい芍薬も堪えきれない笑みを唇に滲ませていた。
「あいつはねぇ、恋する乙女の心を分かってないんだよ」
ぷりぷりと怒りながら、とはいえ自分で自分のことを『恋する乙女』と言ったことに急に照れを感じたらしくむっつりと頬を固めながら、ミーシャは何とか剥き終えたぼこぼこのゆで卵をボウルに入れる。塩を振ったキュウリの水気を切る時は、半ば怒り任せにぎゅっと握っていた。水にさらしたスライスオニオンも水を切り、後は火を通したそれぞれがしっかり冷めるのを待つ。
その間に他に使う野菜――ミニトマトやレタス、ブロッコリーや『パチパ』――を洗いながら、ニトロは疑念を口にした。
「そう言うわりに、ハラキリにそう言われて決めたのか?」
すると、ミーシャは再び不思議な表情を浮かべた。
「それだけを言われたわけじゃないんだ」
「うん?」
「クレイグと同じ学校に行っても、あたしがしたい勉強に、あたしは多分満足できることはない」
クレイグは会計の専門学校を志望している。ミーシャは経営学を希望していて、確かに恋人の志望学校でも経営学に触れることはできようが、カリキュラム的に元来の志望大学と比較すれば当然見劣ってしまう。
「君のように選択をすることも――」
ミーシャはハラキリの言葉を混ぜるようにして続けた。
「バカだとは言ったが、全否定はしない。恋愛優先の人生も無論有りでしょう。だから、どうしてもそうしたければそれでいい。しかし、やはりデメリットが多すぎるし、例えば……結局別れてしまったらどうするのか」
ミーシャが忌々しそうに口にした最後のセリフに、ニトロは内心「うお」と声を上げていた。つくづくハラキリも度胸がある。夫婦に例えれば新婚そのものの相手に対し、彼のことだ、きっとさらっと言ってのけたのだろう。ニトロは半笑いを浮かべ、
「そりゃ、縁起でもない」
「頭にきたからスネを蹴ってやった。それなのに平然としてるからまた腹が立つんだ」
「ハラキリは格闘技もやってるからね」
「どっかのサークルにでも入ってりゃ良かったのになあ、勿体無いよ、ホントに」
洗い終えた野菜はザルに置いて水を切っておく。ブロッコリーと『パチパ』はレンジにかける。
「でも、言ってることは間違ってないからさ……言い返せなくてさ、でも、そしたらハラキリは『近くにいい大学があるじゃないですか』って」
「ん?」
風向きが、変わった。
「クレイグの専門学校から電車で二駅、自転車も圏内、有名校ではないけれど商学部は評判がいい、外部生の聴講も歓迎している校風だから彼にもメリットがある。何なら……」
「何なら?」
「編入したっていい」
「……」
ミーシャは、多分、誤魔化した。
(何なら同棲したっていい、ついでに家賃も浮きますよ――くらいは言ってそうだな)
ニトロはそう想像したが、ミーシャの表情からしておそらく当たっているだろう。
「ばっさり斬られて、しかもさ、あたしよりあたしの進路に詳しいんだ。逆にすっきりしちゃったよ」
「それじゃあ、そこに?」
「調べてみたらインターンも充実しててね、学生起業への支援制度も色々あって楽しそうなんだ。学力レベルと学費が希望より上なのがちょっとネックだけど、学力はまだどうにか追いつけると思うし、学費も奨学金を考えれば何とかなりそうだからさ」
その言葉には誤魔化しはないだろう。ブロッコリーとパチパをレンジから取り出しながら、ミーシャは本当に楽しそうに笑っている。
「……」
ニトロは思う。きっとハラキリは、ミーシャが進路を迷い出したと聞いた時点で既に情報を集めていたのだろう。彼からすれば単なる話のネタとして。しかし、誰かに聞かれなければ彼はそれを口にしない。自分からアドバイスをしようとはしない。関わろうともしない。それは、いや、こう思うのはきっと余計なことなのだろうとは承知している……だが、それはやはり、友達として少し寂しい。
ニトロは内心で吐息をつくと、意識を目の前の友達に戻し、
「それなら良かった。俺にもできることがあったら協力するよ」
「何言ってるんだよ。ニトロは、自分のことをしっかりやらないと」
間近に控える最大の難関――鶏のモモ肉に目を落としていたニトロは、ミーシャに言われてハッと目を上げた。そこには、じっとこちらを見つめているクラスメートがいた。
「ニトロこそ、あたしなんかが何かできるとは思わないけど、何かあったら言いなよ? 助けるから」
「……」
ニトロは、笑った。
「これでも、今でも十分ミーシャに助けられているんだけどな」
ミーシャは不満気な顔をした。しかしニトロは笑みを崩さない。ミーシャは、肩をすくめた。
「ニトロも、やっぱりハラキリと似てるな」
「俺が?」
意外な指摘に、ニトロは目を丸くした。
「似てるかなあ」
「似てる。何か隠しているところがそっくりだ」
ニトロは思わず呻きそうだったところを、何とか堪えた。
「ハラキリが、何か隠してる?」
自分のことへ話題を振ると思わぬボロが出そうなため、ここにはいない親友にお鉢を回す。ミーシャは、こちらの振りに乗ってくれた。
「ハラキリはね、あたしは絶対本性を隠してると思うんだ」
自分から振ったとはいえ、ミーシャのそのセリフに、ニトロはぎょっとした。
「本性?」
「人付き合い悪いし、スポーツできるくせに大人しいし、変人な癖に地味だし、浮いてるってわけじゃないけれど一人だし……一人だったし」
ハラキリは学校では確かにそういう存在だ。どこでも不思議な立ち位置を成立させていて、特に『ニトロ・ポルカト』の友人として、またあの『映画』に助演するまでは本当に目立たない人間だったらしい。もちろん彼は、入学式直後、学校のサイトに『厄介事解決を請け負う』と書き込んでいたことで一時的に名が知れたことがある。それにも関わらず、ハラキリ・ジジという学生はいつの間にか埋没していた。
「あたしは一年の時からハラキリと同じクラスだからよく知ってるけど、ホントならさ、あいつは進路相談に乗ってもらおうなんて思いつくこともできないヤツだったよ。だけど、今は話してみたいと思える。今になってみてだけど、あいつはさ、ホントはもっと明るくて、もっと優しいと思うんだ。不器用なだけで、変人なのは変わりないけれど、もう少しでも心を開いてくれたらずっと付き合いやすいヤツだって思うんだよ」
「……」
「前からしたらニトロもずいぶん変わったみたいだけどさ、あたしから見たらハラキリの方がずっと変わったよ」
包丁を握りながら、ミーシャは言う。
「でも、それはきっと、ニトロが変えたからなんだろうな」
ニトロも包丁を握ったところで、そう言われ、彼は目をミーシャに戻した。彼女は鶏のモモ肉と包丁を交互に見つめている。初めて使う刃物に緊張し、その肩は強張っていた。
「……」
ニトロは、ふと芍薬を見た。芍薬はモモ肉をまな板に載せる主の手元をカメラで追いながら、微笑んでいた。
「これからはあたしも一緒になって変えてやろうかなー」
ミーシャのそのセリフは、おそらく刃物への緊張を誤魔化すためのものに違いなかった。しかしニトロは――ハラキリが迷惑に思うのは理解しながらも――うなずいた。
「うん。これからも良くしてやってよ」
「任せろ」
うなずくミーシャの手は、震えている。
「それじゃあミーシャ、また深呼吸をしようか」
ニトロに言われ、ミーシャははたと目を上げた。ニトロは軽く肩をすくめ、
「そんなに緊張して、いい
ミーシャはニトロを見つめ、それから口を尖らせた。
「分かってるよ」
「ならいいさ。それじゃあこれから一口大に切るけど、よく見てて。肉を押さえる左手は指を切らないように、こんな感じに丸めて」
「あ、でもさ」
「ん?」
実践する寸前に慌てたように言われ、ニトロは手を止めて目を上げた。
「あいつは一つだけ大間違いなんだ」
話題が進路相談のことに再び飛び戻ったことを悟り、ニトロはうなずいた。一方、ミーシャは折角料理を教えてくれている友達を急に制止したことと、一刻も早く訂正しなければならないことに気が急いて、口早に言った。
「あたしとクーたんは、絶対別れないんだ」
「?」
ニトロは、一瞬、呆気に取られた。
何だか今、いきなり知らない人物の名が飛び出てきた気がする――いや、否!
「クレイグ?」
ニトロが問い返すと、はっと、ミーシャの息を飲む音が聞こえた。
「クーたん、って、呼んでるのか?」
ミーシャの顔が、みるみる真紅に染まっていった。
「今の無し!」
彼女は叫んだ。
「今の無ァし!!」
繰り返されたその拍子に、ニトロは思わず吹き出してしまった。
「ああ! 笑うなよぉ!」
そう言われてはむしろ笑いがこみ上げてしまう。ニトロはもう堪えようとすることもできなかった。
「あっはっはっは!」
「笑うなニトロ! てか、言うなよ!? 誰にも言うなよ!」
包丁を振り回し、真っ赤な顔でミーシャは叫ぶ。
「言ったら刺すからな!」
「あははははは!!」
「ニトローーー!!」