22:52 ―大吉― (ティディア:ラスト)
ドロシーズサークルにて催された『
そして、今。
彼女は死にかけていた。
「――ヒィ! ッ……ヒッ!」
腹を抱え、彼女は王家専用飛行車のシートにうずくまるようにして短く甲高い呼吸音を喉から断続的に漏らし続けている。
「……ッ……ッッ!!」
一方、王女の対面に向かい合って座る女執事は片手で口を押さえ、顔を真っ赤にして呼吸困難に陥っていた。
彼女らの間には、
そこに映るのは、インターネットの動画投稿サイトにアップロードされた『ニトロ・ポルカト』の姿だった。彼は頭を抱えておかしな角度で身をよじり、そのせいで片足を爪先立ちにしながらピンッ! と伸ばし切っている。よくも足が攣らず、それとも筋がピンッと切れてしまわないものだと感心してしまう。
それにしてもこれ以上は息が続かない、本当に死んでしまう――と思ったところで、動画の面白いところはちょうど終わった。『トクテクト・バーガー』の店内でファンサービスに応じるため、ニトロが変装のために付けていたアイテムを外していっている。ちょっとした手品の種明かしといった趣があるその光景も周囲の人々を楽しませていた。
「まさか……あの時、こんなことが、起こっていたなんてねー」
未だ震える声でティディアが言うと、
「ぶふっ!」
ヴィタが再び吹き出した。本日畳みかけての積み重ね――ティディアの言葉により、ヴィタのツボをついた三つの出来事が脳裡に同時に蘇ってしまったのだ。彼女の脳内面白編集機によって自動的に一つの出来事にされた一連の話題が、
「ッ……ッッ! ッ!」
完全に横隔膜の機能を止めてしまったらしい。ヴィタが真っ赤になって口を喘がせる。その双眸には珍しく涙が浮かび、しかしそれは苦悶と言うよりも恍惚であった。
そして、執事のその様子に、ティディアもまた刺激されていた。笑いは人に伝染する。それが同好の士の間とあればなおさらだ。
さらに、もう一つ。
笑いを堪えようとすると、何故だろうか? 例え目にしているものが面白くない芸であったとしても不思議と笑いを誘ってしまうものだ。そうして笑いを我慢するという己のぎこちなさ自体そのものが笑いの口火となって、あまりに我慢すると、爆発してしまうものなのだ。
「――ばふっ!!」
今のティディアこそがまさにそれであろう!
「――――! ヤー!」
爆発した笑い声が彼女の肺から空気の全てを押し出した時、彼女の声帯が作り上げた声は本当に笑い声だったのか、それとも悲鳴だったのか。
「――――――――――――ッ……!!」
涙を流してティディアは悟る。
ああ、このままではニトロに笑い殺されてしまう!
ニトロ――ニトロ!?
画面の中の彼は、素早く店の前に迎えがやってきてくれたため、ファンサービスを求める人数がどうしようもないレベルになる前にそこから離脱していく。
彼の背中がティディアの視界を埋める。
酸素不足のために辺縁から暗くなり出した視界の中心で、彼の背中だけが輝いている。
嗚呼、ニトロ!
「ティディア?」
その時、ニトロの声がした。
「あれ? ヴィタさん? あれ? もしもーし」
それはエア・モニターから聞こえてきていた。
だが、映像はインターネット上の動画のままだ。
ティディアは目を点にして、ふと気がつくと、己の呼吸器がおよそ正常な機能を取り戻していることに気がついた。
「おいッ、そっちからかけてきてどうしたんだ!?」
応答のないことにいらついた声が、ティディアの意識をはっきりとさせる。
「――ああ、ごめんね」
ティディアはそう言いながら、涙を拭った。まだ少しひくつく横隔膜を落ち着かせ、見れば、青息吐息のヴィタが震える手で携帯を操作していた。
日課の、漫才の練習の頃合だった。
しかし、ヴィタが回線を繋いだのは単に約束の時刻となったからではあるまい。彼女も解っていたのだろう、この闇雲な笑いの泥渦に飲み込まれた私達を岸へすくい上げるには何かしらの介入が必要だったということを。
「ちょっと、遅れちゃったかしら?」
「いや、そんなことはないけど……ところで、何で『音声オンリー』なんだ?」
問われたコンマ一秒後、
「着替え中なのよ」
自分でも驚くほど、ティディアは自然と取り繕った。そして取り繕った後に、にまりと――同時に恥ずかしさに頬を染めて――笑った。
「ね、見たい? 今、上半身裸なの」
「……」
ニトロは応えなかった。
そしてその沈黙には、明らかに不機嫌があった。
彼は、もしかしたら、こちらが“彼の動画”を既に見ていることを察しているのだろうか? それとも、ただ『クレイジー・プリンセス』に降りかかった珍事のことを思い、そこで恥ずかしいデマを流布されたことを怒っているだけなのだろうか。
ティディアは思わず彼にも降りかかっていたその珍事を話題にしようと口を開きかけたが、
「――」
いや、止めておこう。
今日はもう、満足だ。
あの動画だけでなく『トクテクト・バーガー』の新商品の話もあるのだが、そちらも自然と動画に繋がるから止めておく。話のネタに、と食べておいたジャンクフードであったが、それを私と同じ日に彼も食べていたのだと知れただけでも幸せだった。
それに、何事であれ、下手に彼を突ついてさらに機嫌を損ねたくはない。
折角の誕生日会も――そう、全力を傾けるべき時は、もう間近なのだから。
「学校では、ちょっと嫌な思いをしたかしら?」
とりあえず共通の話題を見つけ出し、それを口にしながらティディアは着ていたドレスを脱ぎにかかった。ヴィタは素早く『お忍び』のために用意してあったトレーニングウェアを手渡してくる。
「おかしなことはするなよ?」
ニトロが険のある声で言ってくる。ティディアは苦笑し――しかしそれはヴィタには少し寂しげに見え――それから肩をすくめた。
「安心していいわ。私はつまらない人間を相手にしていられるほど暇じゃあないから」
「嘘付け、暇だらけだろ」
「あらひどい。何で?」
「何でもなにも、こんなお遊びに付き合わせ続けているじゃないか」
「遊びも真剣にやれば商売にもなるし、それこそ本気になるものよ。いいえ、本気で遊んでこそ何事も価値があるってものじゃない」
「てことは何事もお前に取っちゃ遊びって事かい」
「あら鋭い」
ティディアは笑った。ニトロは鼻を鳴らしている。映像がなくても彼の様子が目に浮かぶ。着替え終えたティディアはヴィタに指で合図をしようとしたところでふと思いつき、トレーニングウェアのジッパーをみぞおち辺りまで下ろし、胸襟を大きく開いて下着を、胸の谷間を露にした。それから再度ヴィタに合図する。と『音声オンリー』の通話が『
「っ」
その時、ふいに猛烈な気恥ずかしさを感じたティディアは慌ててジッパーを喉元まで引き上げた。するとその様子を見たニトロが半眼で言った。
「身だしなみが、だらしないな」
「やー、恥ずかしがっている女の子相手にそんなこと言わないでよ」
「恥ずかしがるような女の子ならちゃんと着替え終えてからカメラをオンにするもんだ」
「……でも、着替えの最後だけでもちらっと見られて、興奮しない?」
「……」
「ごめんなさい」
「よし。それじゃあさっさと始めるぞ」
「はーい」
まるで先生と悪戯小娘のようなやり取りに、エア・モニターの向こうにいる執事が楽しげにこちらを見つめている。彼女はもうすっかり調子を取り戻し、涼やかに、綺麗な両手をすらりと開いて本日の練習時間は残り10分だと知らせてくる。
その様子を目にしたティディアは、ふいに胸にこみ上げてきた思わぬほどの感動にふと微笑み、そしてニトロをじっと見つめた。
「ねえ、ニトロ。
貴方には自覚がないのでしょうね」
「……何の?」
「貴方は女殺しで、そして人を救うのよ」
「はぁ?」
本気で訳が解らないという顔でニトロが首を傾げる。
画面の中、彼の背後に怪訝な顔をするアンドロイドがほんの一瞬見え隠れした。
こちらのカメラに映らないところでは、麗人が藍銀色の髪を揺らして笑っている。
そしてティディアは、自らが口にした言葉に不思議なほど大きな幸福を感じながら、悪戯っぽくウィンクをしてみせた。
「さ、今日はニトロがジゴロを演じるヤツを合わせましょう?」