「違いますよ!」
 声も作らず、素の声で叫ぶとまた歓声が上がる。ニトロは歓声にめげずに頑張る。
「あれはキスマークなんかじゃない!」
[ニトロったら、時々痛くするの]
「ほざくなティディア!」
 思わず街頭スクリーンへ振り返って怒鳴り、ニトロは慌ててフロアへ振り返り、
「違う! あれは! 絶対に虫刺されの痕ですよ!」
[これだって、遠慮なくちゅうちゅう吸われちゃって]
「きっとモスキートにな!」
 皆のにやにや視線に焦るニトロは我知らず宿敵の妄言に反応してしまう。それはもはや本能、脊髄反射の域であった。
「大体キスマークだったらそんな風にゃならないだろ!」
 そう言った時、女子中学生の一人が、おずおずといったように訊ねてきた。恥ずかしそうに頬を染めながら、しかし興味津々の眼で、
「あの……なぜ、知っているんですか?」
 ニトロは言葉に詰まった。
 なぜと問われれば、キスマークをつけられたことがあるからだ。あれは芍薬の来る前のこと。奴にノイローゼ寸前まで追い込まれた悪夢の期間。ディナーに無理矢理付き合わせ、酔った振りしてよろけかかってきて、そのまま急に唇を奪ってきて! 舌を入れられ、まさぐられ! そうして首に強いキスマークをつけられた! その時は垂直落下式ブレーンバスターで切り抜けた! さらに言えば、実は、ティディアの乳房に付いたキスマークも実際に見たことがあるのだ。また別の日のことだった。いつの間にか寝ている間に部屋に不法侵入してきやがったストーカー王女。皆に知って欲しい、知らぬ間に全裸のクソ痴女が同衾していたと知った瞬間の驚きを! 本気で心臓が止まった! まさか自分で自分の心臓マッサージをするとは夢にも思わなかった! そして、その時、あのバカの体に『キスマーク』があったのだ。どうやって付けたのかは知らない。方法は色々あるだろう。何かの器具でそれっぽく付けることもできるだろうし、共犯足りえる側仕えもたくさんいる、少なくとも俺ではない誰かにつけさせたに決まっている。とにかく「昨晩のこと、忘れたの? 無茶苦茶にしたくせに」じゃねえんだバカ女! 「でも、もっと壊して」とか何言ってんだあの阿呆! その朝はベッドから部屋の外まで巴投げを連発することで何とか難を逃れたけれど!――だが! こんなこと……言えない! 全部語る前に誤解されるだけされて事態がきっと悪化してしまう! でも……待てよ? これはチャンスじゃないのだろうか。ここできっちり、ちゃんと全部語り切れれば?
 ――しかし、ニトロは間に合わなかった。
 彼の逡巡が、周囲に『理解』を及ぼしてしまった。
「きゃー!」
 と、女子中学生達が訳の分からぬ黄色い声を上げる。
 周囲のにやにや笑いが、にまにまと下世話に歪む。
「うあああ、違う! 違うんだ!」
[私のご主人様ったら赤ちゃんみたいにね?]
「ご主人様言うな! てか赤ちゃんって誰がだ!」
[って何を言わせるのよ、ふふふふ]
「本当に何を言ってるんだよ!」
 叫び、それからニトロは頭を抱えた。
 俺は街頭スクリーン相手に一体何をやっているのだ!? こちらの言葉は相手には届かない。いや、電話して怒鳴ってやるか? いやいやそれでは相手の思う壺にはまるに決まってる! 煩悶に自然と身がよじれ、地団太を踏みそうになるのを無理矢理堪えたところがそのせいで何かもう足が攣りそうになってとても痛い!
「あの……」
 女子中学生が、今度はさっきの質問者とは別の一方がおずおずと手を上げて聞いてくる。
「何でしょう!」
 よじれた体をぐるりと直し、ニトロは胸に手を当て礼儀正しく反射的に訊ねた。すると女子中学生は頬を赤らめて、
「“旦那様”?」
 ニトロは反射的にツッコンだ。
「旦那様言うな!」
 ニトロにツッコまれた女子中学生が嬉しそうに頬をさらに赤らめる。
 それを見て、羨望に満ちて、誰かが言った。
「それなら……」
 次の瞬間、ニトロは眩暈がする思いだった。無数の声が揃う!
「王様!?」
「ッ王様ちっがーーーーーう!!」
 歓声と笑い声が上がった。
 むきになって否定するニトロ・ポルカト――そのよく見る光景に、クレイジー・プリンセスが丁寧に丁寧に種を撒き、水をやり、肥料を与えて育ててきたこの絶望的な檻に囚われたニトロ・ポルカトに、しかし皆は心から好意的な眼差しを向けているのであった。
 ついでに、とっくの昔から携帯カメラも向けられていた。
「あの!」
 上機嫌なティディアがダークインディゴのカーペットを歩き去って街頭スクリーンから消えていき、トクテクト・バーガー・ゴッテオン駅前店二階フロアでも『客いじりの漫才』に区切りがついた時、女子中学生達が席を立ってニトロに言ってきた。
「「一緒に写真をお願いします!」」
 普段から仲が良いのだろう、二人は声を揃えて同時に頭を下げた。
 知らずこちらを窮地に追いやってくれた子達ではあるが、素直で礼儀正しい。彼女らの背後には無言でカメラのシャッターを落としている年上の男女がいくらもいる。その中で、くたびれた様子の大人だけが一人手元のボードスクリーンに目を落としていた。
「……」
 ほんの刹那、男が目を上げた。
 そのほんの刹那、ニトロと男の目が合った。
 あんたも大変だね――すぐに目を伏せた男はそう言っているようだった。
「……」
 ニトロは、微笑んだ。目を少女達に戻して言う。
「いいですよ」
 感激して声を上げる彼女達を、それに便乗しようと席を立つ他の客達を眺めつつ、ニトロはさりげなく取り出した携帯を操作して芍薬に迎えを頼んだ。すると即座に、既にロータリーへ車を向かわせていると返答があった。どうやら芍薬も中継を見ていたらしい。ならばここからも速やかに離脱できる。
(苦労をかけるなぁ)
 ニトロは内心で苦笑し、それ以上にこちらの失態を読んでみせた芍薬に感嘆しながら、
「でも、どうします? このままでいいですか?」
 落としっぱなしだった帽子を拾って携帯をテーラードジャケットの胸ポケットにしまい、早速写真撮影の準備をしている少女達へ、彼は無精髭の付いている己の顎を指でとんとんと叩いてみせた。
「それとも、元に戻りましょうか」

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