[さあ、今回の主賓がやってまいりました!]
 キャスターから現場のレポーターにスイッチし、カメラに目線を送る彼女がやはり瞳を輝かせて言う。
[ティディア様です! なんて素敵!]
 ダークインディゴのカーペットを歩いてくるティディアは、体を動かす度にキラキラと星の光る深緑のロングドレスを着ていた。胸の谷間が見えるか見えないかと焦らすようにラインの流れるホルターネック。全体はシンプルにしてボディラインの出るタイプで、それがベリーショートの髪に調和している。光の加減で白から暗緑にまで色合いの変わるショールを透かして、肩から脇にかけての肌が淡く輝いていた。長い裾に入るスリットはやけに深く、そこから大胆に太腿を付け根近くまで覗かせて歩いてくる様は実に扇情的である。
『クレイジー・プリンセス』としては多少地味ではあるものの、どんな装いでも見る者にため息をつかせる蠱惑の瞳は画面越しにも魔力を発揮し、ニトロの耳にいくつもの吐息を聞かせていた。見れば、フロアにいる者の多くが街頭スクリーンに目をやり、あるいは手元のボードスクリーンに街頭スクリーンをリンクさせて、ただただ美しい姫君を見つめている。
 そんな中、ニトロはコーヒーをすすって、冷笑気味に思う。
(あれ、ボツ作品なんだよな)
 昨晩、ラジオ番組の収録前にティディアは言っていた。それはこちらの『誕生日会』用の燕尾服に関しての話題の折――「私も何回も着ているわ。明日着るのもパーティー用に作らせたものの内の一つなんだけどね、やっぱり何か気に食わなくてボツったドレスなのよ。でも、文芸のお祭にボツを着ていくのも粋なもんでしょ?」と、あいつは底意地悪く笑っていた。
[ティディア様!]
 カーペットの両側を囲むマスメディアのカメラに笑顔で応えていた王女は、そのレポーターの呼び声にふと足を止めた。
 それは、きっと気まぐれだったのだろう。
 はっとレポーターの息を飲む音が聞こえた。
 その息の音は辛うじてマイクが拾ったもので、街頭スクリーンから距離のあるここでは聞き取れるはずもない。それでもニトロにその音が聞こえたのは、例の中学生が街頭スクリーンの音を自身のボードスクリーンから流しているためだった。
[ご、ごきげんうりゅわしゅうございます!]
 レポーターが声を上ずらせて叫ぶ。まさか自分の呼びかけに止まるとは思っていなかったにしても、ひどい狼狽振りだった。
[ごきげんよう。この良い夜を楽しんでいるかしら?]
 そんなレポーターに微笑みながら、ティディアが言った。その声には慈愛がある。それに強制的に平静を取り戻させられたかのようにレポーターは、
[とても素晴らしいです! 素敵なお召し物でございますね!]
[ありがとう。これは最近作らせたもので、ここが初お披露目なのよ。ニトロにもまだ見せてないの]
 ニトロは、危うくコーヒーの入った紙コップを握り潰すところだった。
[でも、きっと今、彼もこの映像を見てくれているわね]
 切なげに、少し目を伏せて憂うティディアの顔にため息を漏らすのは、画面内のレポーターのみならず、フロアの客達も相応に。
 ニトロは、危うくコーヒーの入った紙コップを捻り潰すところだった。
[ニトロ様もいらっしゃればよろしかったのに]
 少し憤りをこめてレポーターがつぶやく。それは、思わず出てしまった非難だったのだろう。しかし、それをティディアは微笑で受け止め、
[彼は今、大切な時期だから。邪魔したくないの]
 まるで慈母のように(!)言うティディアは麗しい。
 レポーターは次の言葉を忘れてしまったかのように間を空けた。いや、どうやら間近に見る王女に見惚れて本当に言葉を忘れてしまったらしい。彼女が我を取り戻したのは、質問がないならとティディアが足を進めようとした時だった。
[あの! ティディア様は今年のアデムメデス文学賞は誰が受賞するとお考えですか!?]
 おそらく、それこそ必須の質問だったのだろう。レポーターの必死の呼び止めにティディアが足を止め、振り返る。その顔にはからかうような瞳があった。
[それを私が言ってしまったら、色々困ることになるかもしれないじゃない?]
[では、今年、何か話題作をお読みになられたでしょうか!]
 食らいつくレポーターに、ティディアは応える。
[そうね――]
 と、その時だった。
[おっぱいおっぱい 大好きおっぱい ひぃやっほう!]
 王女の声を遮るように、レポーターのマイクがそれを拾った。
「……」
 ニトロは目を丸くした。
 ニトロだけではない、カメラの向こうでティディアも目を丸くしていた。
 マイクの拾った歌声はさらに続ける。
[ママのおっぱい はぁ ちゅっちゅっ
 あの子のおっぱい おっ もっほぅ]
 ……空気は、死んでいた。
 カメラの向こう側も、画面のこちら側も。
 ニトロは必死に唇を閉じていた。
 フロアは水を打ったように静まり返っている。
 雑踏も明らかに静まっていた。立ち止まり、呆気に取られ、街頭スクリーンを見つめる者がここから無数に見える。車両の音は止まないが、それでもその音まで生気を無くしてしまったかのように萎えている。
[おお 悠久の時もまどろむ 乳房のまろみ
 やわいの ぬくいの おっぱいん
 大きいもんも 小さいもんも 神様からの贈り物]
 そこまで来たところで、やっと、カメラが、唇を震わせて目を丸くしている王女の見つめる先へと視点を移した。
 元凶が、明らかとなった。
 顔面を蒼白にする人々の中心に、誰よりも色を失う若い男がいた。カーペットを挟む人垣の最前列でカメラを従えているところからすると、どこかのテレビ局のレポーターらしい。チャンスを掴んだ新人といった風情でもある。そのうたは、大音量で、その男の胸から鳴り響いていた。
[ぱいの まるんま ぱいおッぷるるん
 おっぱいおっぱい おっぱっ大好き いぃやっふう!
 たにまに たちまち たちむかえない
 おのこの このこも たちむかえない
 へっ へっ よ!]
 いつまでやらかしてんだYO! と、ニトロはどれほど叫びたかったことか!
 たっぷり三十秒はあった沈黙を、やおら破ったのは、ティディアの笑い声だった。
 大笑いであった。
 カメラが再び王女を映し出すと、彼女は目に涙まで浮かべて笑っていた。
 その笑い声は本当に楽しそうで、そして彼女の華やかな声の人を惹きつける天性もあって、次第に周囲の人間も堪えられないように笑い出す。すると笑いが笑いを呼び、呼ばれた笑いが更なる笑い声を招き、やがてスクリーンの中のみならず、ニトロの周りにもクスクスと笑い声が起こり始めた。
 この頃になると、街頭スクリーンの中で起こった事件に注意を向けない者はなかった。店内の人間は全て、道を行く人も。歩みを止めないのは、どうしても先を急がないといけない者であるらしいが、それでも後ろ髪を引かれるようにちらちらとスクリーンを見やり、あるいは手持ちの携帯にテレビ中継を映し出している。そういう人々の顔にも自然とにやけたような笑いが見られた。
(……相変わらず、おかしな力だ)
 その中で一人、コーヒーを飲みながらニトロは思う。
 笑っても、怒っても、何故にあのバカ姫はこんなにも人心を掴めるのか。
[やー、笑った笑った]
 涙を拭うティディアは満足気だった。
 音楽はいつの間にか止んでいた。
 それは大戯曲家ルカドーが手遊てすさびに泥酔して書いた『乳房礼賛』、その大迷詩を元にした良くも悪くも現在絶賛流行の曲だった。
 肩から落ちていたショールを直し、ティディアはようやっと正気に返ったらしい男に歩み寄る。男はカーペットの両脇に張られたロープの際で王女に見竦みすくめられて固まってしまった。その頬には辛うじて笑みがあるが、それはむしろ生命の最後の輝きにも思えた。
[ね、そんなにおっぱいが好きなら――]
 訳知り顔でからかうように、ティディアはふいに前屈みになり、その白い指先でドレスの襟をくっと引き下げた。
[あなたも吸ってみる?]
 男は、瞠目した。
 引き下げられた襟の下に覗くのは、鎖骨の窪みを越えて向こうに瑞々しくふくらむ白い乳房。布地の陰で、まるで曙光に照らし出されたかのようにほのかに輝く双丘の尾根。
 男は何も言えず、ただ凝視した。何事が起きているのかと考えることもできず、唖然として、しかし凝然として王女の谷間を覗き込んでいた。その全容は、見えない。しかし、見えないが故にこそ想像力はその秘された丘の頂へと飛翔し、屹立する欲望は谷底へと飲み込まれてしまう。
 そしてカメラはまた、誘惑する王女と固まり続ける男と共にそれをも確かに捉えた。
 王女の左の乳房、その柔肌に赤い痕があることを!
[冗談よ]
 指を離し、ティディアはにっこりと笑った。
[『これ』はニトロだけが許されることだもの]
「ゴブッ」
 ニトロは――堪え切れなかった。
 ティディアがぶちかましたとんでもない言葉にせり上がる怒声ツッコミを、しかし、そのためにコーヒーを吹き出すことになることを。しかも吹き出そうというコーヒーを反射的に飲み込もうとしたら変なところに入ったし。
「ゴホ! ンゴフ! ゲヘッゲホゥ!」
 激しく咳き込む一方で、ニトロは拳を握っていた。
 あのクソ女、さもその胸の赤い痕が俺の仕業のように言いやがって――! それにその痕は……
「……」
 と、ニトロは、そこで気づいた。気づかぬはずもなかった。被っていた帽子を落とすほど咳き込めば嫌でも注目を集める。間近にいる女子中学生が、二人とも眉をひそめてこちらを凝視していた。そして、
「「ニトロ・ポルカト?」」
 二人揃って、言った。
 今のニトロは茶髪のウィッグをつけて、目には暗い青のコンタクトを入れ、無精髭まで付けている。
 しかし、見破られてしまった。
「「ニトロ・ポルカト!?」」
 二人揃って、驚愕に黄色い声を上げる。
 フロアにいる全員にまで理解されることを防ぐ手立てはなかった。
 その上、その全員に、何やら例の男性レポーター相手に受け答えを始めたティディアとこちらを見比べながらにやにやとされることも、防げる手立てなどあろうはずもなかった。
「いや――!」
 だが、ニトロは抵抗を試みた。

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