4:50(王都時間15:50) ―大凶―


 目を覚ましたミリュウは、部屋付きのA.I.に刻を訊ねて、自分が早く起きすぎてしまったことを知った。
 しかし、どうやら完全に目が醒めてしまったようで、再度瞼を落としてみても、外はまだ暁闇の底だというのに意地悪な睡魔は一歩たりとて戻ってこようとはしてくれない。
 ならばベッドに横たわり続けていることは時間の浪費だと、彼女は起き上がった。就寝前にセイラが用意していった部屋着に着替え、早速何か仕事をしようと部屋を出る。
 星明りの差し込む薄暗い廊下に人が出てきたことを感知して、常夜灯が少し肌寒い空気の中にぼんやりと灯った。
 廊下に面する部屋にはまだ寝ている小さな子どももいる。
 ミリュウは廊下を静かに歩き、玄関ホールへのドアを抜けていった。
 玄関ホールには、小ぶりなシャンデリア型の照明が煌々と輝いていた。そろそろ畜舎に行こうという人間を送り出すために、タイマーセットされていた空調が穏やかな暖気を広々とした空間に満たし始めている。ミリュウは吹き抜けになっている玄関ホールの二階から壁に沿って作られている階段を下りて、真っ直ぐキッチンに向かった。
 換気扇の回るキッチンには、既に忙しく動き回る女性がいた。
「あれ、姫様」
 白い袖付きエプロンをつけてジャガイモの皮をむいていたセイラのすぐ下の妹、サリイがミリュウに気づいて声を上げる。二児の母である彼女は少しこけた頬に怪訝の色を浮かべ、
「どうなさいました。今日は当番ではないでしょうに」
 一度結婚して家を出て、二年前に離婚してこのルッド・ヒューラン邸に戻ってきた彼女の面には、まだその頃の苦労の面影が残されている。しかし、彼女の母は以前に比べれば随分顔色が良くなったと喜んでいて、それに姫様が来てからは顔つきもずっと好くもなったと涙を浮かべていた。
「早く起きちゃったから、何か手伝えることはないかなって」
「ごゆっくりなさればよろしいですのに。姫様は本当に働き者でらっしゃいますね」
 ミリュウと話せることがとても嬉しそうにサリイは微笑み、
「でも、そうですねえ……」
 ジャガイモの皮をむきながら器用に周囲を見回し、
「そうだ、レスキズパを作りますのでウィッチマリーを採ってきてくださいますか」
「分かった。レスキズパは、夜の?」
「はい」
「サリイのレスキズパ、とても美味しいものね。今から楽しみだわ」
 その言葉にサリイは頬をあからめ、一礼をすると料理を再開した。王女の言葉がよっぽど嬉しかったのだろう、彼女は鼻歌を歌い出していた。
 そしてミリュウも、今晩、大きな楽しみができたと喜んでいた。こちらも今にも鼻歌を奏で出しそうな様子で早速キッチンを出ると、玄関ホールに戻り、そこから中庭に出た。
 ウィッチマリーは、ルッドランティーに使われるトルカモンと並んでこの地方原産のハーブだ。全体としてはローズマリーに似ているが、低木ではなく多年草で、葉が少し幅広く、そこに無数の皺が寄っている。『魔女のマリーウィッチマリー』とは、ローズマリーに似ているからということだけでなく、一日中直射日光の当たらない日陰を好む性質と、その葉の皺の寄り方からも付いた名であるらしい。ハーブとしては、別名『匂い葉胡椒』と言われるほどスパイシーな香りが特徴で、しかしベースにはほのかな甘い香りがあり、肉や魚の臭み消しとして特に有用だ。マトン肉と羊の内臓モツをカンガラ豆や野菜と共にタマネギとワイルドトマトをベースにしたスープで煮込んだルッドラン料理『レスギズパ』にはこのハーブが絶対に欠かせない。そしてその煮込み料理で、冷蔵庫もない昔のパン――保存優先のため石のように皮が固く、酸っぱく、生地はぱさつき粗い舌触りの、有体に言ってくそ不味いパンをふやかして食べると、これが驚くほど美味しいのだ。
 中庭に出たミリュウは、一瞬暗闇に目が眩んで、立ち止まった。
 明るい場所から暗い場所へ飛び出たために慣れぬ目が驚いてしまったのだ。
 それでも、まさに降るような星の明かりが中庭をぼんやりと照らしている。徐々に目を慣らしながら、ミリュウは家庭菜園の隅、正午になっても暗い場所に植えてあるウィッチマリーに辿り着いた。そこで彼女は、ハサミを忘れていたことに初めて気がついた。
(うっかりしちゃった)
 手でちぎり採ることもできるが、それだと不必要に傷つけてしまうこともある。ウィッチマリーは、そういう意味ではとても弱い植物だ。
 ミリュウは迷わず家庭菜園から少し離れた隅に向かった。そこに家庭菜園用のスコップや剪定バサミを入れた道具箱が置いてあるのだ。
「えーっと」
 目を凝らすと、暗がりの中のさらに陰の中にぼんやりと四角い輪郭が見えた。壁に背をつけてうずくまっているような道具箱に近づき、手を伸ばす。
 ――と。
 セイラの兄が作った道具箱の取っ手を掴もうとしたミリュウの手の甲に、ぴょんと飛び乗るものがあった。
「?」
 暗がりの中のさらに陰の中、色も黒いそれが何かも分からず虚を突かれたミリュウが固まっていると、それは、ササッと彼女の手首に這い上がってきた。
 やたらでっかい蜘蛛だった。
 地元では地獄蜘蛛と呼ばれている蜘蛛だった。
 ヤスデやムカデを好んで捕食する益虫になるのだが、いかんせん、そのたくましすぎるお姿は、ヤスデやムカデと戦っている時の様といい実に名が体を現している。
「!」
 それが、一直線に袖を伝って、ミリュウの顔をめがけてサササッと上ってきていた。おお、今にも肩へと辿り着く! 星影に照らされ迫り来る複眼! 迫り来る細かい毛の生えた八本足! ああ、それはなんと大きな顎を持つことか! 驚くべき疾さで意外なほどフレンドリーに駆け寄ってくるものの正体を悟ったミリュウの肌が瞬時に粟立ち、そのか細い喉が、引き攣る!
「きょわあああああーーーーーーー!!」
 時告げ鳥に成り代わり、その日、ルッドランの山々に朝を告げたのは、
「ひぃぃぃやーーーーーーーぁぁぁあん!!」
 この星の、第二王位継承者の悲鳴だった。

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